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草原から来た天皇4


目 次

         

更新履歴

21/12/22
雄 略清 寧顕宗・仁賢武 烈をアップしました。完結!
21/11/24
安 康 をアップしました。
21/11/14
允 恭 をアップしました。
21/11/05
反 正 をアップしました。
21/10/29
履 中 をアップしました。
21/10/22
仁 徳 をアップしました。
21/10/15
応神(2) をアップしました。
21/10/08
応神(1) をアップしました。
21/09/28
神 功 をアップしました。
21/09/21
仲 哀 をアップしました。
21/09/14
日本武尊(2) をアップしました。
21/09/07
日本武尊(1) をアップしました。
21/08/30
垂 仁 をアップしました。
21/08/23
崇 神 をアップしました。
21/08/16
欠史八代王朝 をアップしました。
 
21/08/09
饒速日(2) をアップしました。
21/07/26
饒速日(1) をアップしました。
21/07/13
神武(2) をアップしました。
21/07/06
神武(1) をアップしました。
21/06/29
神代4 江南の巫女・ヒミコ をアップしました。
21/06/21
神代3 漢委奴国王の正体 をアップしました。
21/06/15
神代1 縄文から弥生へ神代2 葛城氏とオオクニヌシ をアップしました。
 

はじめに

『草原から来た天皇3』ではタリシヒコ(聖徳太子)とは直接関係がなさそうだという理由で武烈天皇以前をカットしたのだが、当時の私には手に負えなかったというのが正直なところである。今でも謎だらけには違いないのだが、コロナ禍のヒマつぶしに、なんとなくわかったような気がする部分だけ縄文時代から時系列的に論じてみようという「エピソード1」的な試みである。

継体は中央アジアの遊牧民エフタルの部族長、タリシヒコは西突厥の可汗(私見ではペルシアの王子)だったが、エフタルも突厥もルーツは匈奴だったという(ただし諸説あり)。
実は武烈以前の倭王たちも、ほとんどが大月氏、匈奴、鮮卑のいずれかに分類できるらしい。
継体やタリシヒコだけが全くの異民族だったというわけではなさそうなのだ。

『記紀』は8世紀における歴史学の集大成である。
神や仏の実在が信じられた時代の歴史学とは、政治学、宗教学、文学など、全てが渾然一体となったものだった。
天武系天皇家にとって、日本という国家を確立する上で中国と肩を並べうる歴史を持つことは必須の条件であり、正史を作ることは国家を作ることそのものだった。
そこでは大王たちはもちろん、それぞれ大陸にルーツを持つ豪族たちも全て「天つ神」や「国つ神」の末裔として再編成され、相撲の番付表のような形で歴史の枠組みができあがり、あらゆる記録や事件はその枠内に収まるように加工処理された。現代人の常識からはウソとしか思えない話も、それは加工処理の結果なのである。
正史に書かれている以上、全てになんらかの意味がある。単なる荒唐無稽な神話などは存在しない。

毎度ながら、いつまでも文章に手を加え続けたい衝動を断ち切るため、少しずつアップしていくことにする。

2021年6月 

 
草原から来た天皇3


「3」の完結にあたり

「光仁」〜「桓武」を改訂し、「平城」〜「淳和」の各章を追加して、一応の完結を迎えることができた。「一応」というのは、手を加えていたらいつまでもキリがないからである。

2014年1月 

「3」の序文

本稿は「2」を改訂し、さらに「孝謙」〜「桓武」の各章を追加したものである。

2011年より、小林惠子氏の文藝春秋社時代の著作(いずれも絶版)が、現代思潮新社から装いも新たに再リリースされる(全9巻)。
大学教授をやっているようなエライ先生方が出している本はことごとく淘汰され、古典として100年後も残っているのはこちらの方だと思う。

満州からの引揚げ者である著者は、日本の学校で習う「日本史」に違和感を覚え、大陸からの視点で母国の歴史を正しく理解したいという思いから、大学では古代東アジア史を専攻。
朝鮮半島の影響をきわめて強く反映した高松塚古墳が発見されたときに自身の問題意識の正しさを確信し、古代史研究家としての人生が始まったという。

おいらは趣味で古代史をかじっている素人にすぎないが、伊勢神宮の石灯籠にダビデの紋が刻まれていることへの関心から『日本書紀』にハマり、その過程で小林氏の著作と出会ったのだった。
おいらの認識では、聖徳太子はササン朝ペルシアのホスロー2世の叔父にあたり、百済からの独立を果たした蘇我氏の経済力をバックに、日出ずる国・日本に第二ペルシア王国を建設しようとした人物である。
天智天皇は聖徳太子の孫にあたり、それが天皇制のルーツになっているとまじめに考えている。
こうした古代史観を持つに到ったのも、小林氏の方法論に強く影響を受けたことによる。

日本最古の史料である記紀は8世紀に成立したもので、5世紀以前に関する内容はほとんど神話のようなもの。古代の天皇陵の多くが学術的な調査が許可されていないため、物証にも乏しい。
しかし、小林氏はその内容を中国や朝鮮の歴史書と徹底的に比較し、中国の漢籍における讖緯説に基づく暗示を解明し、洞察と推理の限りを尽くして古代東アジアの実像に迫った。
これは学問的には認められていないやり方(ゆえにトンデモとされる)ではあるが、学問的に正しくアプローチしている限り本当のことは何もわからないというのもまた事実であろう。

誰でも、自分の行動の全ての理由を理路整然と説明できる人はいない。
歴史は人間が作るものだから、歴史もまた説明不可能なことに満ちている。
また、当事者が「説明したくない」ことも数多くあるはずだ。
本当のことを知りたいと思うならば、情報を収集したあと、洞察と推理の限りを尽くすしかないのである。
確実な証拠がつかめればそれにこしたことはないが、為政者サイドが「説明したくない」ことに関しては、その証拠も意図的に消し去られているだろうし、まして古代の大王たちが何を考えていたかの確実な証拠などつかめるはずもない。

しかし、記紀を著したのは当時の学者や僧侶たちで、為政者自身ではなかったため、讖緯的な表現によってちゃんと事実を暗示している場合が多いのだ。古代の学者の良心とプライドのなせるワザであろう。
また、正史に記述がはばかられるような個人的な事情について、『万葉集』にその真相を託した歌が詠まれていたり、あるいは鎌倉時代の文献に記紀とは違ったストーリーが書かれていて、そこには「今だから書ける話」として真相が記されている可能性もあるのだ。

小林惠子氏は、一応、ご自身で納得できるレベルまでは考察し尽くしたということだろう。
洞察であり、推理である以上、それは時間とともに変化する。
小林説も、この20年でずいぶん変化した。
そうした変化をふまえ、過去の著作を改訂し、ライフワークを完結させたいという考えなのだろう。

小林氏がペテン師でないとわかるのは、わからないことはわからないと正直に書いているところだ。どうしてもわからないことというのは残って当たり前だから。
いかに学界から無視されようと、小林氏が天才であることは疑いようもなく、このシリーズが国家や政治というものに対する啓蒙書として新世代の読者に影響を与え、100年後には小林惠子氏が正しく評価される時代になっていることをおいらは確信している。

2011年12月 

「2」の序文

20数年前、NHK市民大学「日本人のこころ」で、今は亡き河合隼雄先生が『古事記』の話をしておられた。これがすごく面白くて、深層心理学、神秘学、そして日本古代史など、おいらの興味の赴くままの読書人生が始まるきっかけとなり、ほどなく古代史研究家・小林惠子氏の『興亡古代史』に辿り着いた。そして、同書がおいらの基本的な古代史観のベースになっている。

九州王朝説で有名な古田学説にはそこそこの信者がいるし、大衆的には関裕二氏の著作が多く読まれているようだが、小林説にそれほどコアな読者がいるという話はあまり聞かない。
その理由は、あまりにも通説とかけ離れすぎていることと、中国の漢籍などの引用が多すぎて、きわめて難解だからであろう。
特に、百済の聖王=欽明天皇ぐらいのことはありえたかも知れないが、聖徳太子の正体を西突厥可汗・達頭(タルドウ)であるとする彼女の見解には、誰も達頭なんて学校で教わってないだけに信じ難い人が多いのではないか。天武天皇=高句麗の将軍・蓋蘇文という話にしても同様である。
また、天皇家の出自という、学問的に扱うにはあまりにもデリケートな問題が含まれ、その部分は誰しも学校で強力な「先入観」が刷り込まれているため、小林氏がいったい何を言っているのかを理解しようとするだけで、まるで宗教を変えるぐらいのエネルギーを必要とするのかもしれない(笑)。
逆に言えば、どちらかと言えば理系タイプで、論理的な筋道を重視する人にとってはわかりやすいのではないかと思うし、実際、古墳時代から奈良時代までをトータルに説明できるのは小林説だけであるとおいらは信じる。

読むことと書くことは全く別で、自分で書いてみると、読んだだけでわかったつもりになっていたことの、実は半分もわかっていないことに気付かされる。
そこで、小林説を私なりに咀嚼し、私の推理によって古代史を再構築しようと試みたのが本稿である。自分で書くことによって、より深く理解しようとしたわけである。
その過程で生まれる飛躍した「空想」もかなり交えているが、それは小林氏が「証拠不十分なため書かなかった」あるいは「出版物なので公表を差し控えた」部分をカバーするものかもしれないし、全く違うかもしれない(笑)。

実は古代史ほど、論理と想像の力で、誰でも「新説」を唱えることができるジャンルはないということだけでも感じ取っていただければサイワイである。

2009年8月 

   
   

古代史エッセイ 

     
  04/05/23 藤原房前
  04/10/12 対談「鸕野皇后は皇后だったのか?」
  04/12/20 対談「藤ノ木古墳の謎」
  09/08/10 吐火羅と舎衛