山 背

山 背

 
 継体系の断絶

 2000年、推古と竹田皇子の墓とおぼしきものが発見された。
 推古は「竹田と同じ陵に埋葬するように」と遺言して亡くなったという『書紀』の記述を裏付ける発見として注目されたが、推古は、即位できなかった非運の愛息と心中したという説もある。

 竹田の父は敏達(百済・威徳王)である。下は、『書紀』に基づく系図である。

 敏達(威徳王)は高句麗・安原王の子で、欽明(聖王)の娘婿だったことはすでに述べた。
 しかし、推古は聖王の最晩年の子だから、威徳王が即位したときはまだ赤ん坊だった。
 『書紀』の敏達条に、敏達が皇太子になったのは欽明29年(568年)とあるが、15歳になった推古に、威徳王が正式に婿入りした年だったのかもしれない。それまで百済王妃は堅塩媛のままだったのではなかろうか。
 『書紀』は欽明亡きあと、堅塩媛が敏達と再婚し、子をなした事実を書くのをはばかったのである。

 推古よりあとに生まれた子のひとり大伴皇女は、舒明の陵内に墓がある。
 同じ陵内に埋葬されている以上、舒明の母もしくは妃であったと考えられるが、推古の妹の世代では妃ということはありえない。
 舒明の母は『書紀』では糠手姫とされているが、本当は大伴であり、その大伴は敏達の娘だったのである。

 では、舒明の父は誰か。
 聖王は、父の継体が、武寧王を服属させて立てさせた太子だったことを思い出していただきたい。
 もともと武寧王の家臣だった木氏(蘇我氏)は、聖王の新王朝をサポートしたが、旧王朝の武寧王を見放したわけではなく、その王子(『書紀』では彦人大兄)に大伴を嫁がせたと見る。

 こうして武寧王の王子・彦人大兄と、威徳王と堅塩媛の娘・大伴の間に生まれたのが武王(舒明)である。
 したがって、武王には継体〜欽明系の血は全く流れていなかったことになる。

 『書紀』の敏達条に、敏達と推古の間に生まれた田眼皇女が「舒明天皇に嫁した」とある。
 しかし、舒明条には田眼皇女の名は見られない。

 『書紀』に推古が皇后になったとある576年は、推古が23歳で馬子と再婚した年である。
 すでに敏達との間に竹田皇子を産んでいた推古は、馬子と再婚後、山背皇子と田眼皇女を産んだと私は考えている。

 百済に武王が即位すると、馬子は娘の田眼皇女を嫁がせた。
 私は、田眼皇女が舒明の最初の皇后だったと考えている。なにしろ父親は倭国の大王だった馬子なのだから。
 しかし、詳しくは「孝徳」の章で述べるが、のちに天智の母となる宝皇女なる女性が、田眼皇女を追い出して武王の正妃になってしまう。
 田眼皇女が舒明条に全く姿を見せないのは、「皇后をクビになった皇后」ゆえに記載するのがはばかられたのだろう。

 以上をふまえて、正しい姿に戻した系図を見ていただく。
 (右側が正しい系図。堅塩媛が2人いるのは、欽明の死後、敏達と再婚したことを示している)

 

 竹田皇子の死

 『書紀』は、舒明と山背の間の皇位継承争いを、推古が明確な遺言を残さずに死んだことを原因としているが、本当に遺言を残さずに死んだのは、馬子に暗殺された上宮法王であった。
 太子の死後、蘇我氏の中で軽皇子を支持する者は倉山田石川麻呂だけだった。
 のちに軽皇子が孝徳として即位したとき、石川麻呂が蘇我氏でありながら右大臣というポストに付けたのはそのためである(結局は殺されてしまうのだが)。

 太子の死はあくまでも病死として公表された。
 唐は太子さえいなくなればその目的は果たされたと見え、山背の即位にまで積極的に関わった気配はない。
 そこで、馬子には(国内的に)山背の即位を正当化する大義名分が必要だった。
 山背が表向き「聖徳太子の子」とされたのはそのためだったのではないか。

 のちに、藤原不比等の4子が伝染病で全滅したとき、生き残った光明子はこれを聖徳太子の怨霊の仕業であると考え(藤原氏が滅ぼした長屋王は太子の子孫だった)、山背大兄に長屋王一族の悲劇を投影し、その死を美化する記事を日本書紀に書き加えたと思う。
 さらに平安時代の仏教界が、カリスマとして民衆の間に根強く信仰されていた太子のブランドイメージを仏教に取り込むため、これを「日本最古の殉教」として賛美した。
 こうして「山背は聖徳太子の子」というウソは、長い歳月のうちに揺るぎない事実とされてしまったわけである。

 山背が即位したのは629年。太子の死から7年間、倭王不在の時代があった。
 おそらく、推古が山背の即位に抵抗していたのだろう。
 山背も推古の子ではあったが、聖明王を父に持つ推古には百済王家のプライドがあり、威徳王との間に産んだ竹田皇子こそ真の皇位継承者だと主張したのではないか。
 もちろん、父のように慕っていた威徳王が推古の最愛の男性だったことも大きな理由だったろう。
 推古の命がけの抵抗にあい、626年、さすがの馬子も、息子が即位する姿を見ないうちにこの世を去ってしまう。

 馬子に替わり、山背派の中心になったのは馬子の子・蝦夷だった。
 この人は『書紀』では山背の叔父とされているが、実は異母兄弟であり、唐が馬子との密約によって承諾済みだったと私が推測する山背を即位させることによって、馬子以来の倭王の座を再び蘇我氏の手に取り戻そうとしたのである。

 馬子とは違い、蝦夷にとって推古は赤の他人である。
 おまけに敏達(威徳王)の王子・竹田にもいっさいの遠慮がなかったようだ。
 どっちつかずの役どころで『書紀』に登場する境部摩理勢(さかいべのまりせ)は山背派に殺されてしまったところを見ると、おそらく竹田の有力な後見人だったのだろう。
 『書紀』に竹田の死に関する記述がなく、推古の崩御のときに「竹田と同じ墓に葬ってほしい」と書かれていることから、山背派は摩理勢に続いて竹田を葬り去り、推古は継体系の男子が途絶えたショックで後追い自殺したのではないかと私は考えている。

 軽皇子を支援していた蘇我石川麻呂も、まだ蝦夷・入鹿親子に勝てるほどの実力はなく、629年に山背が即位し、上宮法王の皇位継承問題にピリオドが打たれたというのが史実であろう。

 百済大寺の謎(1)

 舒明は国営第一号の寺院(官寺)、百済大寺(現在の大安寺)を建てた天皇として知られている。
 以下は『書紀』の記述である。

  629年 田村皇子が即位して舒明天皇となる。
  639年 百済川のほとりの熊凝に百済宮を作り、九重の塔を建てた。
  641年 百済宮で崩御し、宮の北に殯宮(もがりのみや)を設けた。
      これを百済の大殯(おおもがり)という。

 これだけ「百済」を連発されると、舒明を倭王だったと信じろという方が無理であろう。
 かつて「百済の大井」に宮を作った敏達が百済の威徳王だったとすればなおさらである。

 百済大寺は、673年に高市(たけち)に移築されて「高市大寺」となり、677年に「大官大寺」と寺名を変更。さらに平城遷都で奈良に移って、大安寺となった。

 その大安寺の資財帳には、聖徳太子は山背ではなく田村に「熊凝(くまごり)村の道場を授けるからゆくゆくは立派な寺にしてほしい」と遺言したとある。
 太子は暗殺されたので、田村に遺言を残したという話を信じる必要はないが、フィクションならなおさら、太子が遺言を残す相手として山背が描かれていないのは、山背が太子の子ではなかった証明ではないか。
 逆に、太子と田村が親子のように描かれている理由はのちほど説明する。

 百済大寺は、「百済川」「熊凝」などの所在地が特定できないことから幻の大寺と呼ばれていたが、1997年、それらしき遺跡が発掘された。吉備池廃寺である。
 奈良県桜井市の吉備池のほとりに、飛鳥時代最大の寺院基壇が出土し、この遺跡こそ百済大寺にほぼ間違いないと見られている。
 金堂跡の西約50mには塔跡もあり、発掘に当たった専門家の意見では、基壇を築き、心礎を据え付け、瓦を運んでいるので、塔が完成していたのは間違いなく、その規模から、高さは約90mだったと推定されている。
 瓦などの出土数はたいへん少ないが、それはむしろ673年に高市に移築されたという『書紀』の記述を裏付けている。使える建材は全て運び去られたわけである。

 一方、『百済本紀』の634年、武王が金馬渚に弥勒寺を建立したとある。
 現在は荒れ果てているが、この寺にもかつて九重の塔があったという伝承が残っているらしい。
 小林惠子氏によれば「金馬渚」と「熊凝」はどちらも同じ「熊の水辺」というような意味だそうである。
 『書紀』の九重の塔は、もともと武王が金馬渚の弥勒寺に建てた九重の塔のことなのではないか?
 弥勒寺と、日本で発掘された吉備池廃寺とは、何か関連があるのだろうか?

 舒明は武王だった

 『書紀』は推古が死ぬまでを推古朝としているが、ほとんど同時に竹田も死んでいるので、太子没後の竹田と山背の王位継承争いをそのままスライドして記述するわけにいかず、のちの天智の父・田村が山背のライバルであったかのように記しているのだろう。
 しかし、山背が王位に執着し、蝦夷に泣きつかんばかりにしている姿が描かれているのに対し、一方の田村は全く登場しない。

 それもそのはず、中大兄の父は、600年に即位した百済王・武王なのである。
 蘇我氏の宗家である山背が即位した事実は、天皇家の史書である『書紀』に記録できるはずもなく、『書紀』は武王をモデルに、舒明という架空の天皇を創出したのだ。

 話は598年にさかのぼる。
 百済は高句麗の侵攻を受け、威徳王(敏達)が亡くなった。
 翌599年に即位した法王は、高句麗によって立てられた王である。

  法王は殺生を禁じる令を下し、民家で養っている鷹や鶏を放させ、漁撈の道具を焼かせた。
  2年(600)春正月、王興寺を創立し、30人の僧侶を出家させた。
  長い日照りが続いたので、漆岳寺に行き雨乞をした。
  5月に薨じ、諡は法という。(『百済本紀』)

 この法王こそ、高句麗と連合していた西突厥可汗・達頭、のちの上宮法王(聖徳太子)である。
 599年は『書紀』では推古7年だが、この年、百済がラクダ1匹、ロバ1匹、羊2匹、白雉1羽をたてまつったという記事がある。
 法王となった達頭は、馬子への挨拶がわりに、ラクダなどの中央アジアの動物を送ったのだろう。
 『百済本紀』には、法王は殺生を禁じ、寺を建て、600年5月に「薨じた」とある。
 しかし法王は死んではおらず、武王に後事を託し、さらなる目的地・倭国へ向かったのだ。

 武王は、『書紀』に舒明として描かれている人物である。
 かつて武寧王の家臣だった稲目の子・馬子が、法王を倭王として迎えるにあたり、法王の後継者には武王を立てることを条件とし、法王がこれを承諾したのではないか。
 高句麗及び法王の目的は、威徳王の死を契機に、百済と倭国をあわせて統治している継体一族と蘇我氏の絆を断ち切って、順次支配下に治めることだった。
 かつて継体に圧力をかけられ、聖王を皇太子に立てざるをえなかった武寧王の孫というのは、法王にとっても妥当な線だったのかもしれない。
 あるいは法王は、蘇我氏がもともと武寧王の家臣だったことをまだ知らなかったのかも?

 百済大寺の謎(2)

 621年、もと法王である上宮法王の死は、おそらく武王には病死と伝えられたであろう。
 武王は法王を供養するため、634年に金馬渚に弥勒寺を建立し、九重の塔を建てたと考えられる。
 一方、『書紀』にある百済大寺は639年で、ここに5年の隔たりがある。
 倭国では626年に馬子が、628年には推古が相次いで亡くなっている。
 山背大王もまた両親の死を悼み、武王に対抗して、米川のほとりに九重の塔を建てたのではないか。
 古代の最大の木造建築物である出雲大社が高さ48mだったと推定されているので、高さ90mの塔の建設はとてつもなく巨大なプロジェクトであり、山背が大王だからこそ可能だったと思われる。

 大安寺の資材帳にその由来を記したのは、おそらく百済からの渡来僧で、法王と武王(太子と田村)の関係をよく知っていたのだろう。大安寺の本当の前身である百済大寺についてはいっさい触れず、武王が百済に建てた弥勒寺の由来がそのまま書かれ、『書紀』の記述もこれを参照したのではないか。
 山背大王が馬子・推古を偲んで百済大寺を建てた事実は、闇の中に葬られたのである。

 法王と武王の関係を物語るエピソードのひとつに、607年、太子が隋に小野妹子を派遣したとき、煬帝からの返書を百済で盗まれたという事件がある。
 太子から煬帝に宛てた「日出ずる国・・・」の国書はあまりにも有名だが、なにしろ煬帝を激怒させるものだったので、その返書の内容も推して知るべしである。
 当時の百済王は法王(太子)によって立てられた武王だから、やはり反唐であった。
 太子よりも先にこれを読んでしまった武王は、怒りにまかせてその場で処分してしまったのかもしれない。

 山背暗殺

 蘇我大王家の山背が実権を握っていたからこそ、百済大寺と同様、馬子の墓の建設も国営事業として行われ、また異母兄弟の蝦夷や、その子・入鹿の栄華も安泰だった。
 ところが、山背はこともあろうに入鹿によって暗殺されている。
 以下は、山背暗殺に関する『書紀』の要約である。

643年、入鹿は巨勢徳太らを遣わし、斑鳩を急襲した。
山背は馬の骨を神殿に投げ入れ、妃や子弟らをつれて生駒山に隠れた。
徳太らは斑鳩宮を焼き、灰の中の骨を見て引き上げた。
山背たちが山の中で生きていると知った入鹿は自分で出かけようとするが、古人大兄が「鼠は穴に隠れて生きている。穴を失ったら死なねばならぬ」と言い、入鹿を止める。
山背たちは山から出て斑鳩寺に入り、「自分がもし軍をおこして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかしそうすると人民に死傷者が出る」と言って、一族はみな自決する。
これを知った蝦夷は「ああ、入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、おまえの命は危ういものだ」と言った。

 ここで斑鳩寺とあるのは法隆寺のことで、山背一族の集団自決は、仏教関係者によって「我が国最初の殉教」とされている。
 しかし、山背のあのみっともないまでの王位への執着は、死ぬときの潔さと明らかに矛盾している。
 また、集団自決の記述が事実なら、山背を筆頭に、一族全員が法隆寺に祀られているはずだが、法隆寺にはその気配がない。

 『書紀』は「入鹿が独断で上宮の王たちを廃し、古人大兄を天皇にしようと企てた」とあるように、山背殺害を入鹿の単独犯行(ただし実行犯は巨勢徳太)としている。
 「鼠は穴に隠れて生きている。穴を失ったら死なねばならぬ」という古人の言葉や、「入鹿の大馬鹿者め。悪逆をもっぱらにして、おまえの命は危ういものだ」という蝦夷の言葉も、入鹿の単独犯行を裏付けている。
 また、王子相手に「廃する」とは言わないので、『書紀』のこの表現からも、山背が大王だったことは明らかである。

 しかし、平安時代にできた『上宮聖徳太子伝補闕(ほけつ)記』には、山背殺害は蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬飼、中臣塩屋枚夫(鎌足?)ら複数のグループによる犯行だったとする注目すべき記述がある。
 実は利用されただけだった入鹿と、入鹿を「大馬鹿者め」と非難した蝦夷を除いて、ここに中大兄を加えれば、のちの大化の改新のメンバーそのものになる。
 鎌足と中大兄の出会いが645年になっているのは、643年の山背殺害に、のちの天智天皇である中大兄は関わっていないように見せかけるアリバイ工作であり、中大兄もまた犯行グループの一員だったと思われるのだ。