称 徳

称 徳

 称徳重祚

 764年10月 孝謙は重祚し、称徳天皇となった。
 淳仁は淡路に配流され、翌年、逃亡に失敗して亡くなった。

 称徳重祚の翌765年、道鏡が太政大臣に任じられた。
 一介の僧侶でありながら朝廷で異例の出世を果たしたのはひとえに称徳の寵愛によるものだったと一般には考えられているが、道鏡は実は皇孫であり、前新羅王(孝成王)でもあり、仲麻呂一族滅亡にもブレーンとして貢献したという功績が評価されたのだろう。

 道鏡もこのときは即位する気マンマンだったはずだが、称徳重祚で妥協せざるをえなかったのは、天武系であること、出家していることなどについて、吉備真備、白壁王ら反対派が存在したことと、新羅の軍事力を金良相に握られてしまったからだろう。

 朱泚

 安禄山の乱後、安禄山に代わって中国東北部の節度使となり、強力な軍事力を持つようになったのは朱泚という人物だった。
 安禄山の乱のとき、史朝義の配下だった李懐仙を離反させ、史朝義を殺させた功績が代宗に認められたという。
 新羅の金良相はこの朱泚と同盟関係を結び、道鏡の即位を武力で阻止する構えを見せていた。
 
 しかし、安禄山の乱で唐が勝利したことは金良相の立場を悪くし、亡命した景徳王の嫡子・恵恭王が即位した。
 767年8月 渤海の大金茂は正式に唐と和平。日本への侵攻も完全に終結した。
 768年 新羅で金隠居が侍中となり、良相は平壌に移った。
 唐の建国以来、中国の周辺遊牧民族では突厥に代わって吐蕃(とばん)が勢力を持つようになっていたが、良相が平壌を本拠地にするにあたっては、朱泚と、李懐光なる人物が吐蕃の南下を防いでいたようだ。

 宇佐八幡宮神託事件

 宇佐八幡神宮の前身は、今は摂社になっている地主神の北辰社だったらしい。
 ここに宇佐一族の氏族神・比咩(ひめ)大神が連座。
 九州の土着最大勢力だった宇佐一族は、大和朝廷にとって、唐や新羅から日本を守る対外防衛の中心的存在だったため、聖武のとき、応神天皇を祀る八幡神が連座し、比咩大神と並祀された(725年)。
 八幡神宮と道鏡の縁は、新聖武が孝成王(道鏡)を新羅に送り出すときに八幡神宮に援助したのが始まりだったようだ。
 740年 広嗣の乱で八幡神宮が反広嗣側に回ったことで、新聖武との関係はぎくしゃくしたものになるが、749年に孝謙が即位すると仲麻呂に厚遇され、再び朝廷と急接近した。
 764年 仲麻呂一族滅亡。八幡神宮は再び道鏡と強く結び付くようになる。
 766年 道鏡は法王に、吉備真備は右大臣になった。

 769年9月 吉備真備は大宰府の主神(かんづかさ)であった習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)に命じ、宇佐神宮より「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」との神託があったと道鏡に伝えさせた。
 勅使として参向した和気清麻呂もまた真備サイドの人間で、この神託が虚偽であることを上申。
 道鏡は激怒して清麻呂と姉の法均を配流にした(道鏡の失脚後に復帰し、光仁・桓武朝で活躍)。
 吉備真備は親唐派で、道鏡の即位の野望を摘み取るために、八幡神宮と道鏡の結び付きを逆に利用したのでる。
 道鏡はこの事件で直ちに失脚したわけではないが、大きなきっかけにはなった。

 藤原清河の書簡

 宇佐八幡宮神託事件の2ヶ月後、金初正ら新羅使者226人が在唐大使藤原清河の書簡を持って対馬に到着した。人数から考えて、これは道鏡に対する軍事的な威嚇であった。
 仲麻呂側にあった清河にとって道鏡は敵であり、書簡は道鏡の即位を否定する唐の意志を明確にしたものだった。
 しかし、これは宇佐八幡宮神託事件の後で書かれたものではなく、1年ほど新羅・恵恭王のところでストップしていたらしい。
 恵恭王はどうやら道鏡支持だったようだが、度重なる唐の圧力と、宇佐八幡宮神託事件の失敗により、もはや清河の書簡のあるなしに関わらず道鏡の即位は不可能と見て、金初正らの行動を承諾せざるをえなかったようだ。

 770年2月 道鏡は称徳を人質に、弓削宮に籠った。
 しかしほどなく称徳が病死(藤原百川による暗殺説あり)。
 8月 称徳の死が発表され、ただちに白壁王が立太子した。
 後ろ盾を失った道鏡は失脚し、下野国に下向して現地で没した。
 親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名は捕えられ、土佐国に配流された。