神代4 江南の巫女・ヒミコ


内行花文鏡(沖ノ島)

■江南の許氏一族、列島に亡命

165
・高句麗、伯固(はくこ)即位。

168年
・伯固、後漢の玄菟太守に討たれて降服。

先代の遂成とは真逆で、伯固は反後漢の人物。遼東に進軍するなど最初は威勢がよかったが、高句麗に侵攻してきた玄菟太守に敗れてからはあまりパッとしなかった。

172
・江南の会稽で巫術者・許昌の反乱。孫堅がこれを鎮圧し、一躍名を上げた。

101年に反乱を起こした許聖と同じ姓を持つ許昌は、孫権に敗れ、一族を引き連れて列島に亡命した。
その許氏一族の中にいたのがヒミコである。

 
■2つの邪馬臺国

太陽神に仕える巫女が日巫女(ヒミコ)。ヒミコはそもそも固有名詞ではなく職掌名である。
紀元前の奄美大島に大陸の文化を伝え、繁栄をもたらしたのは江南の倭族。その江南は巫術のメッカでもあった。
奄美大島は今でも僧侶よりシャーマン(霊媒師)の数が多いという。その起源も江南の巫術師であろう。
紀元前の奄美大島には初代ヒミコがいたに違いない。
列島の表玄関として栄え、最初に「倭」と呼ばれた奄美大島に、ヒミコが君臨する女王国はすでに存在したのだ。

邪馬臺国論争の決着が付かない理由は、ほぼ唯一の史料である『魏志倭人伝』が、漢代に残された紀元前の倭(奄美大島)の記録と、3世紀の邪馬臺国の情報を混在させているからだ。2つの女王国について、過去(紀元前)と現在(3世紀)を同時に描写していると言ってもいい。
その理由は、朝貢国は遠くにあればあるほど魏の威光が遠くにまで及んでいることの証明になるので、奄美大島を邪馬臺国の公式な所在地にしたかったからである。

「男子は入れ墨をし、着物は腰に布を巻いただけ。女子は貫頭衣(1枚の布の中央に穴を開け、そこから頭を出す)。温暖なので1年中野菜を食べ、はだしで暮らす」
完全に亜熱帯ではないか。大和でも北九州でもありえない。

 
■邪馬臺国の定義

「邪馬臺国」と書いて「ヤマタイ国」と読み習わされているが、正解は「ヤマト国」である。
そう論じる研究者の多くは、大和と書いてヤマトと読む理由を邪馬臺国に求めている。
邪馬臺国と大和朝廷の間には連続性があり、邪馬臺(ヤマト)国が大和(ヤマト)の語源だというのだ。
しかし、大和は最初からヤマトだったというのが私の意見である(神代2参照)。
さらにヤマトという言葉は、「倭」という概念にまで意味を拡張していた。

『魏志倭人伝』はヒミコを「倭女王」と書いているように、従来通り「倭(wa)」も用いている。
大武神のように男王であれば「倭王」。いずれにせよ倭は倭である。
一方「邪馬臺国」は、あくまでも「ヒミコの女王国」という意味で使われている。
その国名の成り立ちは、倭人が「倭」を「ヤマト」と発音するという情報に接した中国人が、それに「邪馬臺」という漢字を当てただけのものだった。言わば外来語である。

外来語には、カステラがなかった国にカステラが伝わり、それをそのままカステラと呼ぶようなケースと、新しいものに名前を付けたいとき、かっこいい外国語を勝手に拝借するケースがある。日本人が大好きな手法だ。
ちょっと高級なアパートを「マンション」という。
しかし英語の manshon は「個人の大邸宅」という意味だから、まるっきり違う(笑)。
それでもほとんどの人が元の意味を知らないから、新語として定着してしまうのだ。

紀元前の奄美大島の女王国、魏に朝貢してきた3世紀の女王国、どちらも(連続性の有無はともかく)「ヒミコの女王国」という邪馬臺国の定義を満たしている。したがって「邪馬臺国の所在地は奄美大島である」と言ってもけっしてウソではないことになる。

余談だが「ヤマト」は古代朝鮮語で次のように解釈できるという。

  ヤ:古い
  マ:南
  ト:基本、根本

「ヤマト」は朝鮮半島からの視点による「古い南の中心国」を意味する名前だというのである。
しかし私は、「ヤマト」という発音が先にあって、そこにそれらしい古代朝鮮語を当てはめただけだと考える。
コカコーラは中国語で「可口可楽」(意味:口にすべし楽しむべし)と書くが、意味が通るからと言ってコカコーラの語源は中国語だと考える人はひとりもいない。

日本人は長い間「大和民族」という単一民族であると考えられていたし、大和魂、大和撫子、戦艦「大和」など、日本人の心への浸透っぷりはほとんど呪文のようである。言霊という意味でも「ヤマト」は最強のパワーを持つ言葉ではあると思う。

 
■伊都国の真相

前回、漢委奴国王は「かん・いどこくおう」と読み、その正体はもと高句麗王の大武神で、北九州に「委奴国」を建てたが、それは『魏志倭人伝』に出てくる「伊都国」のことであると述べた。
中国にしてみればヒヤリングミスもあろうし、漢字はそれぞれの時代の当て字だから、同じ国が1世紀に「委奴(イド)国」、3世紀に「伊都(イト)国」と記されることもありうるだろうと、最初はそんなふうに考えていた。
しかし、ふと気付いたのだ。
伊都国は当て字ではなく、文字通り「伊(氏)の都」だったのではないかと。

伊氏という豪族は聞いたことがないが、有力な候補がいる。
スサノオの子とされ、新羅から来た五十猛(イタケル)という神である。
三十路(みそじ)や十河(そごう)のように、十を「そ」と読めば「イソタケル」。
五十嵐(いがらし)や五十鈴川(いすずがわ)のように、十を読まなければ「イタケル」。
五十猛を祭神とする和歌山の伊太祁曽(イタキソ)神社は「イタケル」派で、公式サイトでは「書物によってはイソタケルと表記されているものがありますがこれは誤りです」と言い切っている。

ヤマトタケルの例に則れば、イタケルは「イ+タケル」で、伊氏(伊一族)の王となるではないか。
イタケルは高天原から樹の種を持ってきた。新羅には植えず日本に持ってきて、九州から播き始めて日本中を青山にしたという。
これはどうやら、鉄鉱石が採れる辰韓では製鉄業が盛んで、燃料となる薪を取りすぎて山がみんなハゲ山になってしまったことを言っているらしい。

伊氏とは、赫居世(スクナヒコナ)の頃に辰韓から列島に渡り、ヤマトに製鉄の技術、武器製造技術を伝えた一族ではないか。まず北九州に拠点を置き(伊都国)、出雲、紀伊半島へと活動の舞台を拡げていったのだ。
伊氏という豪族は歴史の闇に消えても、「伊勢」や「伊賀」など、伊が付く地名は枚挙にいとまがない。
紀伊半島の「紀伊」も、紀貫之のご先祖様の紀氏と、イタケルの伊氏を合わせた地名かもしれない。
何より、イザナギ、イザナミは漢字だといろいろな書き方があるが、頭の一文字だけは「伊」で鉄板である。
スサノオの子どころか「国産みの神」とされるほど重要な氏族だったのではないか。

つまり、大武神が来る前から伊都国はすでに伊都国だったのである。
大武神は伊氏の武器製造技術を、伊氏は大武神のような強い王を、お互いに必要としていたのだろう。
「大武神が北九州に委奴国を建てた」のではなく、伊都国が大武神を新しい王として迎え入れたのだ。
(今回はいったん公開したものには手を加えないルールでやっているので、このようにページをまたいで訂正文を書くことになる。消さずに残された思考の足跡も、またひとつの歴史である(笑)。)

漢委奴国王の国は、一般に『魏志倭人伝』に出てくる奴国だとされている。
しかし、大武神の使者が後漢に国の名前を聞かれたとき、「国名はド国です。ドは匈奴のドです」などと答えたとは考えられないではないか。だから教科書は「ナ国」と読ませているのか? いや、ナ国も変だろ!

大武神の使者は「イト国」と答えたのだ。
後漢の役人はそれが「イド国」に聞こえたのか、あるいはわざとなのか、列島は漢に追われた匈奴が逃げ込んだ島だから、匈奴のことは大武神に委(まか)せよう、大武神を匈奴委員長に任命しよう的なノリで「委奴国」としたのだと思う。これが私がまじめに考える「漢委奴国王」の真意である。

伊都国と奴国は『魏志倭人伝』で次のように説明されている。

 ・伊都国(糸島市):千余戸あり、代々王はいるが、女王国に属してきた。帯方郡の使者が来ると常に駐屯する国でもある。

 ・奴 国(春日市):伊都国から東南に百里。二万余戸ある。

伊都国は千余戸、奴国は二万余戸だから、奴国の方がはるかに大国である。
1世紀の伊都国は、もともとは3世紀の奴国の位置にあったと見る。
倭の中心国として発展し、領地も人口も増えた。
しかし後年、難升米が王のときにクーデター(倭国の乱)が起き、伊都国は東西に分裂。難升米はわずかな支援者たちと共に西側に追いやられたのではないか。
許氏が亡命してきたときの北九州は、まさに倭国の乱の渦中だった。
劣勢を余儀なくされていた難升米は、一も二もなくヒミコを女王として西側に迎え、起死回生の一発逆転を狙ったのだろう。
後漢の宮廷にも影響を与えていたという有名な許氏一族と、もはや伝説化されていた奄美大島の女王の再来であるヒミコは、難升米にとってまさに救世主だった。事実、この後「倭国の乱」はおさまったという。
しかし実際は東側との冷戦状態は続いていたと思われる。

のちに難升米は女王国の大夫として魏に朝貢する。そのとき委奴国を伊都国と修正してもらい、東側については委奴国から委を削って単なる「奴国」と伝えたのではないか。
「奴」が付く国はほかにも弥奴国、姐奴国、蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国があるが、これも難升米が匈奴系の国に勝手に名前を付けた可能性がある。魏にとって難升米は3世紀の女王国に関する最大の情報源だから、難升米が言うことは何でも信じたかもしれない。

『魏志倭人伝』における伊都国の説明は、狗邪韓国から邪馬臺国(奄美大島)までの道程を説明する文脈の中で書かれたものなので、伊都国はあくまでも通過点になっている。しかし過去(紀元前)と現在(3世紀)を同時に記述しているので、「代々王はいるが」でその歴史をアピールし、「女王国に属してきた」という他の国にはない独自のコメントを付け、「帯方郡の使者が来ると常に駐屯する国」というダメ押しによって、本当は伊都国が邪馬臺国(ヒミコがいる女王国)なんだよと暗示しているのである。使者が常に駐屯したのは、まさにそこが目的地だったからなのだ。

糸島の平原遺跡は伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡である。
3世紀のものと推定され、副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類。銅鏡の中には直径46.5cmの内行花文鏡(江南の巫術者が使用する鏡)が5枚も含まれる。
ネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多く、中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることから、女王ヒミコの墓と考えられる。
14×12mというサイズはヒミコの墓にしては小さい気もするが、戦争で殺され、伊都国の女王としては一代で終わってしまったからだろう。


平原遺跡の場所

 
■邪馬臺国への道程

『魏志倭人伝』は異なる2つの出発点から邪馬臺国に至る2通りの書き方をしている。

(A)帯方郡を出発して邪馬臺国に至る道程:

 狗邪韓国 → 対馬国 → 一支国(壱岐)→ 末廬国(唐津付近)→ 伊都国 ー(百里)→ 奴国 ー(百里)→ 不弥国 ー(南に水行20日)→ 投馬国 ー(南に水行10日、陸行1ヵ月)→ 邪馬臺国(奄美大島)

(B)列島内で女王国の勢力が及ぶ境界を示す斯馬国を出発して邪馬臺国に至る道程:

 斯馬国 → 已百支国 → 伊邪国 → 都支国 → 弥奴国 → 好古都国 → 不呼国 → 姐奴国 → 対蘇国 → 蘇奴国 → 呼邑国 → 華奴蘇奴国 → 鬼国 → 為吾国 → 鬼奴国 → 邪馬国 → 躬臣国 → 巴利国 → 支惟国 → 烏奴国 → 奴国 → 邪馬臺国(伊都国)( → 狗奴国

先に(B)から考えてみる。
女王国の勢力が及ぶ境界とは、女王国からもっとも遠い国ということだ。
それは伊都国を出発した伊氏が目指したゴールだったと考えれば、斯馬(しま)国とは志摩のことだろう。
彼らのゴールは「日出ずる処」に到達することだったのだ。東日本まで行けば常陸(日立ち)だが、同じように太平洋から日が昇る志摩は、さしずめ「西の日立ち」と言える。
「伊勢志摩」とワンセットで語られるように、志摩と言えば伊勢。伊都国と伊勢は「伊」でつながる。
伊都国がヒミコを戴く女王国になったことと、のちに天照大神が伊勢で祀られるようになることとは、絶対に無関係ではありえないだろう。

已百支国以降は近畿から瀬戸内、北九州に至る国々と思われ、邪馬臺国の南には狗奴国(熊本?)があると記されているから、邪馬臺国は奴国と狗奴国の中間、(A)の伊都国あたりになる。
それにしても、出てくる地名があまりにも現在の地名と違いすぎて見当が付かないあたり、やはり多くの地名が難升米によるフィクション(大喜利?)だったと思わざるをえない。

それでは(A)を詳しく検証してみよう。

 狗邪韓国 → 対馬国 → 一支国(壱岐)→ 末廬国(唐津付近)→ 伊都国 ー(百里)→ 奴国 ー(百里)→ 不弥国 ー(南に水行20日)→ 投馬国 ー(南に水行10日、陸行1ヵ月)→ 邪馬臺国

不弥国と投馬国をどこに比定するかによって邪馬臺国の所在地が決まる。
まず不弥国だが、伊都国と奴国の距離が百里、奴国と不弥国の距離も同じ百里とあるから、不弥国もまだ北九州エリアに違いない。不弥国からは陸行がなくただちに水行となっているので、不弥国は博多湾に面していたか、あるいは内陸だったとしても近くに川があり、川を下って海に出られる場所である。

不弥国から南に水行20日の投馬国はツマと読めるので、日本最大級の西都原古墳群がある宮崎県西都市のであろう。
単に地名が似ているだけのこじつけではない。たとえば現代において、東京から博多までの道程を説明するとき、使われる地名は名古屋、大阪、広島など、少なくとも「のぞみ」停車駅クラスの大都市だろう。あまり熱海や姫路を使って説明することはないはずだ。
その点、投馬国は間違いなく古代における大国であり、西都原古墳郡にある古墳の築造は古いもので4世紀ぐらいにさかのぼるから、被葬者の王や豪族は生前、3世紀以前に国を栄えさせていたはずだ。『三国志』の著者の陳寿は3世紀の人だから、投馬国の噂をリアルタイムで聞いていたと思われる。


投馬国は、現在の宮崎県西都市妻。

投馬国からさらに南に水行10日、陸行1ヵ月で邪馬臺国に至るとある。
博多湾から妻まで水行20日かかるのだから、水行10日で琉球まではとても無理だろう。
つまり奄美大島である。
陸行1ヵ月は、邪馬臺国の広さについてかなり話を盛ったと見る。人口も「七万余戸」とされ、奴国の「二万余戸」よりはるかに多いからだ。
朝貢国は遠ければ遠いほどよく、小国であるよりは大国で賑わっていた方がいいのである。

もうひとつ言えば、「国々には市があって交易が行なわれ、大倭が取り締まりをしている」という記事がある。
大倭という言葉はここにしか出てこない。
297年まで生きた陳寿は、3世紀後半には列島の中心が大和に遷った事実までまぎれこませているのだ。

なお、陳寿は現在の四川省出身で、三国の中では蜀に仕えた人だった。のちに魏から禅譲を受けた西晋が成立したため魏を正統な王朝として扱っているが、『魏志』だけでなく、呉と蜀を含めて『三国志』としたところに故国への思いが感じられる。


■ヒミコ、狗邪韓国に進出

伊都国が許氏を受け容れたところまで話を戻そう。

173
・卑弥呼、狗邪韓国の阿達羅(アダルラ)王に使者を送る。(『新羅本紀』)

狗邪韓国の2世紀後半の墳墓から、列島産の銅鉾や弥生式土器、そして江南系巫術者のヒミコのシンボルである内行花文鏡のレプリカが出土している。
伊都国に定着した許氏一族が、その勢力を狗邪韓国(金官加羅国)にまで拡大したようである。
かつて大武神が委奴国と辰韓の2国の王として後漢から承認されていたこともあり、北九州と半島南部は同一の文化圏にあったということは言える。

ニニギノミコトとそっくりの天孫降臨神話を持つ狗邪韓国の始祖・首露には、48年、インドのアユダ国からはるばるやって来た王女・許黄玉と結婚したという伝承がある。(『駕洛国記』)
アユダ国は実際にインドに存在した国である。
金海にある許黄玉の子孫とされる古墳の遺骨を分析した結果、4つの遺骨のうち1つから、韓民族のルーツであるモンゴル北方系とは異なるインド南方系のミトコンドリアDNAが検出されたという。

しかし、許という姓、そして名前の黄玉は、鼻の上に黄色の黍のようなほくろをつけているのが巫術者の特徴とされることから、モデルはヒミコであり、「許黄玉」はヒミコの本名だったと推測される。
もちろんヒミコは生涯独身だったし首露は100年以上前の人物なので、両者の結婚はありえない。狗邪韓国とインドの間に交流があったという始祖の伝説に、後世のヒミコ伝説が上書きされたのだと思う。

178
鮮卑檀石槐、倭国を撃つ。(『後漢書』)

鮮卑の人口が急激に増え、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は川魚を獲ろうとしたがまったく獲れなかった。倭人たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、倭国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させたという。
鮮卑は東胡の後裔とされ、匈奴が西走した北東アジアに台頭した勢力である。
倭国を撃ち、倭人を移住させたとあるが、『三国志』では汙国、汙人となっているらしく、本当はどこのことなのかわからない。
漢人から見れば濊(わい)人も倭(わ)人も似たようなものだから、おそらく、高句麗領内の濊人を労働力として大量に連れ去ったというのが真相ではないか。

179
・高句麗、伯固が死んで故国川王(伊夷模、いいも)即位。

瑠璃王系の太祖大王宮と血脈のつながる王とされる。

 
■黄巾の乱

184
黄巾の乱勃発。

太平道の教祖・張角の信者たちが、全国的な規模で後漢に反乱。教団の者が黄色の頭市を被っていたので黄巾の乱といわれている。中国の伝説上の最初の皇帝である黄帝は巫術者の祖ともされていることから、黄色の頭市は巫術者のシンボルだったのである。
高句麗の故国川王も反後漢ゆえ太平道側にあった。
しかし、まだ後漢のために戦っていた曹操孫権劉備という三国時代の立役者が揃って討伐に向かい、乱はその年のうちに鎮圧された。
黄巾の乱以降、後漢は衰退し、隋が589年に中国を再統一するまで中国は分裂が続く。

・新羅の阿達羅王が死去。嗣子がいなかったため、国人に推挙されて伐休王が即位。

伐休王は一応脱解の孫とされているが、シャーマン的な王だったらしく、小林惠子氏は黄巾の乱の残党ではないかと見ている。ヒミコの許氏は黄巾の乱には直接関与していないようだが、太平道の張氏との間には後漢に反抗する巫術者同士の連帯意識があったようで、女王国の勢力が半島南部に及んでいたことから、伐休王の即位にはヒミコの後押しがあったのではないかという意見である。

189
公孫度、遼東大守になる。

公孫度は中国東北部の遼陽市(襄平)の出身。公孫氏一族の長。
遼東大守になっても独断で半島に勢力を広げ、太平道側にあった高句麗と戦い、勝利する。
のちに後漢から自立し、遼東に半独立政権を樹立する。
帯方郡を設置するのも公孫氏であり、列島にも大きな影響を与えることになる。