継 体  / 蘇我稲目 / 敏 達  / 蘇我馬子 / 用 明  / 崇 峻  / 上宮法王 / 山 背  /
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継 体

ねこ:
 NHKで継体大王の古墳の発掘現場を放映していましたね。ご覧になりましたか。

としちん:
 (世界陸上の)マラソン見ちゃった(^^;)。

ねこ:
 どうやら継体大王も騎馬民族の流れを引くようです。
 これでは宮内庁は隠したいでしょうね。
 天皇家は朝鮮半島から移民してきた、というのならまだ何とか許容範囲だろうと思うけど。

としちん:
 
今はどちらかと言えば、朝鮮との関係の方を認めたくないんじゃないですか。
 トルコの方がずっと友好国でしょ(笑)。
 記紀が書かれた8世紀の儒教的価値観の中では、騎馬民族の伝統や風習は、天皇家のルーツとしてふさわしくないものと深刻に考えられたのでしょうね。
 ちなみに小林説では、継体はエフタルという騎馬民族の部族王。
 西アジアから北方の草原ルートで中国東北部に至り、そこから日本海を渡って越に上陸、さらに新羅に渡って智証麻立干になった。
 そのまま新羅に14年間いたことも、大和入りが遅れた理由のひとつであるらしいです。

 男大迹王

 26代天皇の継体は、それ以前の天皇とのつながりが希薄で、アカデミックな立場からでさえ「新王朝だったのではないか」という意見が出ている大王である。
 『書紀』によると、25代武烈に男子の後継ぎがないことから、大伴金村大連、物部麁鹿火(あらかい)大連、巨勢男人(おひと)大臣らが天皇家の子孫をくまなく調べ、「賢者はこの人しかいない」と選んだのが、越の国に住む、15代応神の5世孫・男大迹王(おおどのおう)だった。
 男大迹王の父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は11代垂仁の子孫・振媛(ふるひめ)。
 父の出身地は越の国の三国、母は同じく越の国の高向(たかむこ)とある。

 応神の5世孫とされているのは「万世一系」のギリギリの許容範囲を主張しているように見え、むしろ男大迹王の母が「11代垂仁の子孫」であるという記述の方に妙にリアリティがある。

 継体と秦氏

 宇佐神宮の主神が応神天皇になったのは、奈良時代の聖武天皇のときである。
 天武系王朝には、応神こそ「倭国の建国の祖」であるという認識があったのではなかろうか。
 天武系王朝は、天皇家の正当性をアピールする根拠として応神の子孫であると主張し、そのためには継体も応神の子孫でなければならなかったのである。


祓所(はらえど)

 応神と継体には共通点もある。それは秦氏との関係である。
 中国の『隋書』には、宇佐神宮のあたりに「秦王国」があったことが記されている。
 秦氏は、再臨のメシヤが現れるという東方の地・すなわちユーラシア極東に位置する日本列島にやって来た原始キリスト教団であったという説がある。
 応神には震旦国(中国)で生まれたという伝説もあるが、もし渡来人だったとすれば、九州に上陸して秦氏の宗教に帰依してその活動を保護し、経済的には秦氏の支援を仰いでいたのかもしれない。

 継体は、507年に河内で即位してから都を転々とし、大和の磐余(いわれ)の玉穂に入ったのは526年で、即位してから大和に入るまでに20年近くかかったことが大きな謎とされ、『書紀』の記述によれば、大和に入る直前の15年間は山城(=山背、京都)にいたという。
 京都もまた、秦氏のもうひとつの本拠地である。
 
 山背の綴喜(筒城)、現在の京田辺市の天王集落の一番高いところ、大阪府との境界になっている稜線近くに朱智神社がある。
 このあたりは竹の産地で有名で、奈良の東大寺二月堂のお水取りのたいまつの竹がこの天王の竹やぶから切り出される、竹送りという行事が行われている。
 朱智神社の主神は迦爾米雷命(牛頭天王)、配神は建速須佐之男命、天照國照彦火明命。
 869年、迦爾米雷命を祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院にうつしたことから、八坂神社の元になる神社といわれている。
 今は行われていないが、昔は祇園祭のときに天王地区の榊をうつすことが恒例となっていた。

 小林惠子氏は、朱智神社は継体が創建した日本最古の神社ではないかと述べている。
 牛頭天王はそもそも新羅の神様だが、スサノオも新羅と関係が深い。

 宇佐神宮は八幡宮の総本宮だが、八幡は「ヤハタ」と読め、八坂(ヤサカ)と通じるものがある。
 『書紀』には継体の子・欽明のスポンサーが秦氏だったことが記されている。
 (上の中央の写真には、欽明のときに応神の神霊がはじめて八幡大神として出現したとある。)
 つまり、応神、継体、欽明という大王の全てに秦氏が関係しているのである。

 秦氏は、通説では新羅からの渡来人とされているように、その分布は新羅と列島にまたがり、新羅の牛頭天王、列島のスサノオをそれぞれ神として祀る神社に関わっていたが、秦氏の本当の最高神はヤハウエ(エホバ)だったのではないか。
 ヤハタ神、ヤサカ神が全く正体不明の神であることからも、いずれもヤハウエのことであると私は考えている。

 鉄の王朝 

 継体の両親の出身地とされる三国と高向(ともに現在の福井県)あたりは古代の製鉄地帯であった。
 5世紀の倭国は、砂鉄は採れたものの、まだ鉄鉱石の産出量が少なく、朝鮮南部の加羅(日本では任那ともいう)の鉄資源に依存していたようである。
 加羅の領有をめぐる新羅と倭国の争いも、この鉄を巡る権益が主な原因だったようだ。

 加羅には「加羅の始祖は亀旨(クシフル)峰に天下った」という伝説がある。
 これは『書紀』の、ニニギノミコトが高千穂(宮崎の高千穂ではなく、筑紫の日向とあるから福岡県の高千穂であろう)のクシフルタケに天下ったという神話と、明らかに同じ話である。

 我々は現在の国境を基準に、九州北部と半島南部を全く別の国として切り離して考えているが、まだそのような国境が存在しなかった古代においては、両地域は釜山〜対馬〜壱岐〜唐津〜筑紫ルートで結ばれた同一の文化圏内だったのだ。

 継体の大和入りが遅れたのは、継体の侵入に対する大和勢の抵抗が強かったからだとする意見があるが、その話は、継体以前からすでに大和が列島の中心だったことを前提としている。
 「九州王朝説」という仮説があるように、まだ当時の大和は、越、北九州、吉備、あるいは関東にも存在したであろう勢力と横並びの存在にすぎなかったのではないか。
 むしろ、実力者である継体をぜひとも王として迎え入れたい大和に対し、継体の方がなかなか首を縦に振らなかったというのが真相だった可能性さえある。

 継体が大和入りした翌527年の磐井の反乱も、すでに大和が列島の中心だったという前提のもとに「反乱」とネーミングされているが、実際は、継体率いる大和軍が新羅に侵攻し、これを迎え撃つために、前述のように同一文化圏内にあった筑紫が新羅と連合して戦ったというのが真相であろう。
 継体がこれに勝利したことこそ、大和が列島を代表する勢力となる第一歩だったと考えられるのである。

 蒙古鉢型兜

 上の写真は、奈良県五條猫塚古墳から出土した5〜6世紀の「四方白鉄地金銅装蒙古鉢型眉庇付兜」略して「蒙古鉢型兜」。
 このタイプは、5世紀の中央アジア(西トルキスタン)に忽然と現れた騎馬民族の大勢力・エフタルの兜と推定され、ヨーロッパでも出土するが、最も数多く出土するのは意外にも朝鮮半島南部、新羅と加羅の領域なのだそうだ。
 この事実は、エフタルが中国や高句麗を経由せず、ダイレクトに日本列島に上陸し、そこから半島南部へ逆上陸した可能性を示している。
 彼らはユーラシア北方の草原ルートで、現在のロシア極東部である沿海地方に至り、そこから日本海を横断し、佐渡を経由して新潟に上陸する「北回りルート」で列島に渡って来たと考えられる。
 もちろんこの航海は、半島を海岸沿いに南下し、対馬経由で北九州に上陸するルートよりもはるかに危険で、かなりの遭難者も出たと想像されるが、秋から初冬にかけての北西の季節風に乗りさえすればとりあえず列島の日本海側のどこかに流れ着くことは可能であったらしい。
 そのように、彼らはいったん列島の日本海側すなわち越、若狭、出雲などを拠点とし、そこから鉄資源を求めて朝鮮半島南部へ逆上陸したのだろう。
 スサノオ神話に新羅が登場するのも、このような史実を反映していると思われる。

 継体の目的

 「日本」以前の「倭国」は、まだ独立国ではなかった。
 それは「統一新羅」成立以前の新羅や百済もまた同様であったろう。
 当時の戦争は、国家と国家の戦いではなく、領土をめぐる王たちの私的な戦いであり、彼らの家来たちも、国家に忠誠を誓っていたわけではなく、王という個人に忠誠を誓っていた。王を「主君」と言い換えれば、のちの日本の戦国時代のようなものだ。そして古代は、その戦場が大陸と日本列島にまたがっていたのである。

 広大な大陸で中国を相手に領土の奪い合いをしていた騎馬民族の認識からすれば、単に「倭王」になることだけを望んでやって来た王などいなかったはずだ。半島を制した王は、その次は列島への侵略を試み、逆に列島を制した王は、次は半島に照準を合わせるというのが自然な考え方だったろう。

 『書紀』は、天皇家が大陸侵攻を断念し、列島だけで国家がまとまってから編纂されたものである。
 現代人の常識と8世紀の常識が異なるように、8世紀の常識もまたすでにそれ以前の古代の常識ではない。
 むしろ記紀は、古代の常識を歴史から払拭することがその大きな目的でさえあったのだ。

 継体の目的も列島と半島の完全制覇にあり、のちの聖徳太子、孝徳、そして天武も同様だったに違いないと私は考えている。

 新羅王・智証

 継体と同じ時代、新羅に智証麻立干(ちしょうまりつかん、在位500〜513)という王がいた。
 麻立干は「干(カン)」が付くように、騎馬民族系の王の呼称である。
 小林惠子氏は、エフタルの有力者である継体は、大陸から越に入り、500年に新羅を攻め、新羅王・智証として即位したと説いている。
 智証の諱(いみな。本名のこと)は智大路というが、継体の和風諡号は男大迹王で、「大路」は「大迹」に通じる。
 智証は即位したときすでに64歳だったとあり、年配になってから即位している点が継体と同じ。
 継体の都のひとつである山城に朱智神社があることはすでに述べたが、智証にも、新羅で最初に神社を建てたという伝承がある。
 1220年頃に成立した『二中歴』には、継体の25年(531年)に最初の元号「教到」が立てられたとあり、智証も511年、新羅で最初の元号「延寿」を制定した人として知られている。

 『新羅本紀』には、智証の前の王(炤知(ショウチ)麻立干)は倭人に殺されたとある。
 その倭人が即位して智証になったとはさすがに書かれていないが、文脈的にはそうとしか読めない。
 智証は513年に死んだとされるが、翌514年は継体が山城の綴喜に王城を構えた年である。
 新羅本紀に「倭国からやって来た王」とは明記されなかった智証は、倭国に帰ったときも「死んだ」とされ、山城入りし、朱智神社もこのときに建てたというわけである。

 では「継体=智証」説を検証してみよう。
 上の表は、継体と智証の比較年表である。
 『書紀』には、継体の崩御の年が2通り記されている。

 (A)継体25年(531)崩御説 (『百済本記』の記載に基づくとある。)
 (B)継体28年(534)崩御説

 没年齢は82歳とあるが、誕生年は崩御した年から逆算で求めるため、(A)と(B)ではそれぞれ異なってくる。上の表では2通りを示した。
 一方、智証は「64歳で即位」を基準とし、誕生年と没年を求めた。
 もし継体=智証ならば、そのことは『書紀』の編者も『三国史記』の編者も知っていたはずだが、両者はそれぞれ別人として記録され、年齢もこのように13〜16歳の差がある。
 では、どの年齢が正しいのだろうか。

 安閑のクーデター

 『書紀』の安閑条に、継体は25年(531年)2月7日、安閑を即位させ、その日に崩御したとある。
 その安閑の崩御は安閑2年12月17日で、在位はわずか2年足らずだったことが記されている。
 つまり、安閑条では継体の没年を継体28年(534年)とする説(B)が採用されているのだ。

 一方、(A)のもととなった『百済本記』からの引用には、「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」という衝撃的な記述がある。
 これは、継体は安閑のクーデターによって殺されたという、安閑朝の成立に関する史実を伝えているのではないか。
 安閑朝では、臣下の顔ぶれは変わっていない。大伴金村は武烈〜継体〜安閑〜宣化〜欽明朝にわたって大連の地位にあり、継体朝で磐井の反乱を鎮圧した物部麁鹿火も、宣化のときに亡くなるまで、ずっと大連だった。

 このように、安閑朝には以下のような特徴がある。
 ・クーデターによって成立している
 ・わずか2年たらずの短命に終わっている
 ・臣下の顔ぶれが変わっていない 

 小林惠子氏は安閑の正体を高句麗の安蔵王としている(『興亡古代史』)。
 継体や皇子たちを皆殺しにしたというのだから、私も安閑が継体の一族だったとは思えないが、部下のひとりだった可能性もあるのではないか。
 継体が晩年になって、誰の目にも余るほど暴虐ぶりを発揮したとすれば、継体の臣下はそろって安閑を支持したのかもしれない。だからこそクーデターも成功したのだろう。

 継体崩御に関して、私はやはりその真相を暴いた『百済本記』の(A)説を採る。
 531年、安閑は継体を殺害し、3年後の534年に即位したのであろう。
 すぐには即位できなかったところも、もともと安閑がそのような身分ではなかったことを示していると思う。

 すると、継体が大和入りしたときの年齢は77歳となり、新羅王・智証の享年77歳と一致する(笑)。
 これは偶然の一致かもしれないが、無理にこじつければ、『新羅本記』は、継体が大和入りし、正式に倭王となった77歳という年齢を、智証が新羅を去った513年にあてはめ、そこから逆算して500年の智証即位を64歳とした可能性がないとも言えない。
 正しくは智証即位は51歳のときだったことになるが、新羅からすれば外来の王ゆえ、その年齢を伝える史料がなかったのか、それとも51でも64ぐらいに見えるほどの風格があったのだろうか。

 ユーラシア遊牧国家の興亡

 エフタルは、中国など東アジア側の史料には登場せず、ペルシアなど西側の史料に唐突に姿を表す騎馬民族である。
 ここで簡単に、ユーラシア遊牧国家の興亡をおさらいしておこう。

 紀元前221年に秦が中国を統一すると、これに呼応するように、北方の草原では東胡・匈奴・月氏という三大勢力の中から匈奴が台頭し、前209年に即位した冒頓(ぼくとつ)のとき、東アジア史上最初の大遊牧国家を打ち立てる。

 156年 東胡の後裔である鮮卑檀石槐が、匈奴に替わってモンゴル高原を統一。
 その後、鮮卑は慕容、宇文、拓跋等の部族に分裂し、中原に南下して多くの短命王朝を建てる。これを五胡十六国時代(304〜439)という。

 386年 鮮卑の拓跋部が北魏を建国し、のちに華北を統一。
 実は、北魏に続く北斉・北周・隋・そして唐の皇帝も、この拓跋系の流れである。

 一方、鮮卑の慕容氏は、3世紀末には高句麗と百済の夫余族を制圧し、4世紀には日本列島にも勢力を伸ばした。
 小林説では、垂仁やヤマトタケルはこの慕容氏である。

 鮮卑諸族が南下したあとのモンゴル高原では、やはり東胡の後裔である柔然が台頭し、さらに5世紀になると丁零が勢力を持つ。丁零はのちに「鉄勒」と書かれるようになるが、どちらも「テュルク」を漢字表記したものである。
 中央アジアでエフタルが軍事国家を形成したのはこの時期である。

 このように、5世紀のユーラシア世界は、拓跋国家の北魏、中国の南朝、柔然、丁零、エフタル、ササン朝ペルシア、そして東ローマという7つの国が、たがいに錯綜した政治関係を結んでいた。

 さて、エフタルの政権中核はイラン(ペルシア)系だったと見られているが、私は、鮮卑の慕容氏のうち、西アジアに向った一派がイラン系の遊牧民族と合体したものがエフタルと呼ばれるようになったのではないかと想像する。
 すると、継体の母系が11代垂仁(慕容氏)の子孫とされている話が、にわかに重要な意味を持ってくる。
 継体の民族的ルーツが、垂仁やヤマトタケルなどの慕容氏と同族だったことを暗示しているかもしれないからだ。
 そう考えると、継体の「継」は「中断していた流れを元に戻す」意味であると解釈することもできるのである。

 欽明と宣化

 『上宮法王帝説』では、継体朝に続く安閑・宣化朝がなく、継体が531年に没して、翌532年が欽明元年になっている。

 『書紀』には、大伴金村は継体に「どうか手白香皇女(たしらかのひめみこ)を召して皇后とし・・・天皇の御子が得られるようお祈りして、人民の望みに答えて下さい」と奏上し、継体がその通りにして、めでたく欽明が生まれたとあり、欽明条にも、彼は「継体の嫡子」とある。
 『書紀』は律義にも、安閑・宣化朝をきちんと記録し、欽明より先に即位した両者を欽明の兄としている。
 安閑が継体の子ではないことはすでに述べた通り。宣化については、次章で考察する。

 また、「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」のに、宣化や欽明が生きていたのは、彼らが倭国にいなかったことを意味している。

 継体の皇后で欽明の母である手白香皇女、安閑の皇后の春日山田皇女、そして宣化の皇后の橘仲(たちばなのなかつ)皇女、いずれも仁賢の娘とある。
 倭国の大王制度は、会社の役員はそのままで、社長のクビだけをすげかえるような形で大王を擁立していたのではないか。
 当時は「仁賢の血を引く女性」がもっとも偉く、倭国の歴代の大王は、彼女たちに婿入りするという形で即位していたのであろう。

 手白香皇女、春日山田皇女、橘仲皇女の3人は同一人物であると私は思う。
 春日山田皇女は、欽明朝でも皇太后(おおきさき)と呼ばれたが、普通、皇太后と言えば天皇の母親だからだ。

 『史記匈奴伝』によると、漢の使者が匈奴の高官に、父と子が同じテントに寝、父が死ぬとその継母を妻とし、兄弟が死ぬとその妻を娶って妻とする匈奴の風習を非難したところ、匈奴の高官は「匈奴は家系を大切にする。漢のように親族が殺し合うようなことはしない」と皮肉まじりに反論したという。

 騎馬民族の場合、王が替わっても、王妃は原則としてそのままなのである。
 しかし、8世紀に書かれた『書紀』は、女性の再婚を罪とする中国の儒教の影響を受けている。
 8世紀の天皇家は、中国を範とする中央集権国家の建設を目指し、倭国の王室に騎馬民族の風習があったことを隠蔽するため、継体、安閑、宣化の皇后だった春日山田皇女を、3通りの名で記したと考えられるのである。