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嵯 峨

 高丘親王

 809年4月 唐の憲宗から退位を言い渡された平城が嵯峨に譲位した。
 しかし平城は、憲宗が誤解を解いてくれさえすれば復位できるはずだと考え、上皇として独裁者の立場を維持しようとした。
 また、譲位に応じる条件として平城の第三子・高丘親王を嵯峨の皇太弟に立てさせた。

 高丘は母が伊勢継子(伊勢老人の子)とされる謎の人物だが、のちの経緯から見て、平城が彦昇時代に大陸でウイグルと連合して吐蕃と戦っていたとき、ウイグル系女性との間に生まれた子だった可能性がある。ならば、平城自身ときわめてよく似た生い立ちだったことになり、事実、桓武〜平城から「武人」のDNAを色濃く継承した人物だったようだ。

  高丘親王    父:平城     父父:桓武
                   父母:母:吐蕃系(アテルイ一族の娘)?
          母:ウイグル系?

 806年10月に空海と共に来日した唐使を上京させなかったのは平城の意思ではなく、大宰帥・伊予親王の仕業だったという真相を憲宗がいつ知ったのかはわからないが、唐の皇帝という立場上、自らの判断に誤りがあったと認めるわけにもいかず、いったん退位させた平城を復位させるつもりはなかった。
 そのかわり、葛野麻呂の遣唐使の海路を断った新羅・哀荘王を退位させ、新羅王のポストに平城を呼び戻そうと考えたようだ。
 809年7月 『新羅本紀』に、哀荘王が彦昇に殺されたとある。
 彦昇と言えば平城のことだが、憲宗の指令を受けて哀荘王を暗殺した実行犯は高丘親王だったと小林惠子氏は推理している。正しくは「彦昇」ではなく「彦昇の子」だったというわけだ。

 809年10月 渤海使・高南容が来日。
 渤海使は唐と日本の間のメッセンジャーであると同時に、平城が憲宗の勅命通り退位しているかどうかを視察する役割を担っていた。
 まだ高南容が上京する前の12月、平城は平安京を去り、旧都の平城京に入った。
 天皇に返り咲いた場合、桓武色の強い平安京を捨て、都を再び平城京に戻す狙いもあったようだ。

 薬子の変

 810年4月 高南容が上京し、渤海王と日本国王(嵯峨)の国書を取り交わして帰国した。
 このとき、平城を新羅王として迎えたいという憲宗の意向も日本側に伝えられたはずだが、憲宗の承認による天皇返り咲きを本気で期待していた平城にとってはショックだったろう。
 一方、日本側の国書には、嵯峨の日本国王即位の承認を渤海から憲宗に要請してもらいたい旨が書かれていたはずだが、その後、唐が嵯峨を承認した気配はない。
 結局、平城と嵯峨はどちらも日本国王として承認されぬまま、平城京と平安京に分かれてにらみ合う形になった。

 9月 平城が坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上らを平城京の造宮使に任命し、遷都に向かって本格的に始動した。
 一方、これに抵抗する嵯峨は使節を発し、伊勢、美濃、越前の関を封鎖。
 朝廷は、上皇に平城京遷都を進言したのは平城の皇太子時代からの女官・藤原薬子だったとして、薬子の官位を剥奪した。
 また、薬子の兄の藤原仲成が、伊予親王母子を追放し虐待した罪で佐渡に流された。
 嵯峨は坂上田村麻呂を大納言に、冬嗣を式部大輔に、紀田上を尾張守に昇任させて彼らを懐柔する一方、平城京にいた文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を平安京に召還し、左衛士府に拘禁した。

 こうした嵯峨の動きに、平城上皇は自ら東国に赴き挙兵を決断。
 葛野麻呂ら群臣が諌めるのも聞かず、薬子とともに輿に乗って東に向かった。
 嵯峨は田村麻呂に上皇の東向阻止を命じたが、田村麻呂は出発に当たり、かつて蝦夷征伐の戦友だった文室綿麻呂の協力が必要であると願い、綿麻呂は許されて参議に任じられた。
 その夜、仲成が射殺された。
 平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たが、嵯峨側の兵士の守りが堅く、勝算なしと悟った上皇は平城京へ戻った。
 9月12日 平城上皇は剃髮して出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。

 事件後、嵯峨は関係者に寛大な処置をとることを詔した。
 高丘親王は皇太子を廃され、代わって天皇の弟の大伴親王(のちの淳和天皇)が立てられた。
 (824年の平城上皇の崩御の際、既に退位していた嵯峨上皇の要望で、淳和天皇の名によって関係者の赦免が行われた。)

 平城、新羅・憲徳王になる

 811年 平城、文室綿麻呂らに護衛されて新羅に亡命。
 唐の憲宗がこれを後押しし、またかつて平城の忠臣だった葛野麻呂や田村麻呂らが動いてこれを実現させたようだ。
 すでに哀荘王は殺されていたので、平城はただちに憲徳王として即位。
 憲徳王という名は、平城をバックアップした唐の皇帝・徳宗と憲宗の名前を合わせたようだ。

 814年9月 渤海の大使・王孝廉が来日。
 憲宗が、朱泚の乱(783〜785)後、中国東北部で一大勢力となった李師道の征伐を開始するにあたり、日本からの援軍を要請するものだった。
 しかし王孝廉は渤海に帰国することができず、翌年、日本で客死してしまう。
 軍事力を持たない嵯峨が唐への援軍派遣をいやがり、短絡的にも王孝廉を殺してしまったのだ。
 この事件で嵯峨は、渤海・唐・新羅の全てを敵に回すという窮地に立たされてしまう。

 815年8月 憲宗が李師道の征伐を開始。
 816年4月 桓武の時代から渤海とのやりとりの使者を勤めていた大僧都・永中が死去。
 この直後の5月、朝廷は王孝廉の死によって途方に暮れていた渤海の副大使らに夏衣を贈り、天皇の国書を授け、丁重に帰国させたという。

 理不尽にも大使を殺害しておきながら、短期間で渤海と和解できたのは、唐でも渤海でも名声が高かった空海の働きがあったに違いないと小林惠子氏は述べている。同年6月、空海は嵯峨から高野山への入定が許されているからだ。
 嵯峨は最初、空海を平城側の僧侶として警戒していたと思われるが、永忠亡き後、国際的に顔が利く僧侶と言えば空海をおいてほかになく、頼りにせざるをえなかったようだ。
 全て空海が進言する通りにしたところ、王孝廉事件は見事に解決し、それ以来嵯峨は空海に屏風に書を書かせたり、東寺の建設に関与させたり、820年には大法師まで授けている。
 嵯峨は空海に心酔してしまったようで、淳和に譲位して上皇になった年(823年)には空海から灌頂を受け、文字通り弟子となった。

 空 海

 空海は774年、讃岐に生まれた。
 父は大伴氏から分かれた佐伯氏、母は阿刀氏で、舅の阿刀大足は伊予親王の文学(官名)を務めた儒学者。
 788年(15歳)上洛し、その阿刀大足について熱心に漢籍を学ぶ。
 791年(18歳)大学に進むが、仏道への思慕が募り、中退して僧侶になる。
 795年(22歳)東大寺戒壇院で具足戒を受け、空海という法名になる。
 796年(23歳)密教の『大日経』と出会う。
 797年(24歳)処女作『三教指帰』完成。
 その後、798年1月から803年4月まで、30歳で東大寺戒壇院で二度目の具足戒を受けるまでの所在が不明である。

 804年、遣唐使として入唐した空海は、長安城内にて密教の第七祖・恵果和尚と出会う。
 恵果は空海の姿を見て歓喜し、来ることがわかっていたので首を長くして待っていたという。
 恵果が極東の一私度僧にすぎない空海のことをすでに知っていて、しかも短期間に密教の奥義を伝授し、空海が密教の第八祖と言われるまでになったのはなぜか。

 空海が『三教指帰』を著した797年は、彦昇が唐の対吐蕃戦に新羅軍の総大将として第2回目の遠征を開始した年である。
 『大日経』を理解し、密教の奥義を受けるために唐に渡ることを切望していた空海は、渡唐予定の藤原葛野麻呂に『三教指帰』を贈り、自らをアピールしたのではないか。
 この内容に驚嘆した葛野麻呂は、空海の望み通り、従軍する僧侶に採用したのだろう。
 801年の第3回目の遠征で入唐した葛野麻呂は長安の密教系の西明寺に滞在したが、空海も一緒だったに違いない。
 そこには留学中の日本僧・永中がいた。
 葛野麻呂は永中に、20年あまりも途絶えている日本の遣唐使派遣の受け容れを要請した。
 永中はこの依頼を、徳宗が深く帰依していた恵果につなぎ、このとき『三教指帰』が葛野麻呂から永中、そして恵果へと贈られたのだろう。
 この空海の最初の入唐が記録として残されていないのは、平城が若き日に大陸で戦っていた事実を抹消するためだったと思われる。
 空海は、798年1月から803年4月までの謎の空白期間においてすでに非公式に唐に渡り、現地では「日本から来た天才」として空海ブームが巻き起こっていたのである。

 渤海とは和解したものの、日本が唐側として出兵しない事態には何ら変わりはなく、唐や新羅とは険悪な状態が続いた。
 新羅・憲徳王も、憲宗には自分を新羅王にしてくれた恩もあり、命じられれば援軍を派遣せざるをえなかったが、大きな負担には違いなかった。それだけに、何もしない日本の嵯峨に対しては大きな不満を抱いていた。

 818年 一時的に中断していた唐の李師道征伐が再開され、師道は味方の謀反によって殺された。
 819年 しかし唐でも憲宗が暗殺され、翌年、三男の穆宗(ぼくそう)即位。

 821年 王文矩を大使とする渤海使が来日。
 渤海では818年に大仁秀が即位していたが、新羅・憲徳王と緊密な関係にあり、このときの渤海使と共に憲徳王の子・高丘が来日した。
 822年 高丘が帰国する渤海使船には空海が同船していたらしい。彼らは新羅まで送ってもらい、憲徳王に面会した。

 憲徳王はかつて彦昇の名で新羅軍の総大将を務め、憲宗の祖父・徳宗の時代の唐の対吐蕃戦に3度にわたって出兵したが、その3度目の遠征に空海が僧侶として従軍したのが両者の出会いだった。
 のちに空海が留学生として再び唐に渡り、恵果から密教の奥義を授けられる間に、日本では桓武が崩御。
 憲宗が祖父の遺志を継ぎ、彦昇を日本国王として承認するために使者を送り、空海もそれに同船して帰国(806年)。
 留学生は唐で20年間学ぶのが当時の決まりだったが、空海は3年足らずで密教の奥義全てをマスターし、師の恵果も思い残すことがなくなったかのように死んでしまった。
 空海は1日も早く帰国し、平城天皇の下、この教えを日本に広めたかった。
 このように、平城と空海は同時代を生きる政治的リーダーと宗教的リーダーだった。

 ちなみに、桓武が日本の仏教界のリーダーとして期待していたのは最澄だったが、恵果から密教の奥義を授かったのは空海の方だった。密教は経典を読んで理解するだけでは不十分であり、師から弟子へのマンツーマンの指導が不可欠だった。
 のちに最澄は、比叡山の自分の弟子の何人かを空海に預けて学ばせている。
 もともとの両者の立場を考えればなかなかできないことだが、最澄という人間の大きさを物語るエピソードではある。

 話を元に戻す。
 平城と空海が再会を果たしたこの年(822年)の、空海による平城への灌頂文が残されている。
 そこに「大同元年をもって曼荼羅ならびに経等を奉献す・・・たちまち十七年を経たり」とある。
 大同元年(806年)は空海が橘逸勢や憲宗の使者と共に唐から帰国した年。
 唐の使者たちは太宰府で足止めされて上京を許されなかったが、空海は密かに上京し、平城に曼荼羅や経を奉献していたのだ。その年から数えて17年後は、たしかに822年である。
 このとき平城は平城京に幽閉されていたことになっているので、空海から灌頂を受けた場所も平城京だったと信じられているが、『如是院年代記』なる資料に「天長甲辰七月天皇崩。寿五十一歳。弘法帰朝(824年に平城が51歳で崩御。空海が帰国した)」とある。
 平城は憲徳王として新羅で没するが、空海はその直前、平城に灌頂を受けさせるために新羅に渡っていたことを暗示しているのだ。

 空海が高丘と共に新羅に行ったもうひとつの目的は、どうしても日本から唐に援軍を派遣しようとしない嵯峨をすみやかに譲位させ、淳和を即位させることだった。
 嵯峨を退位させれば唐の顔も立ち、淳和が即位すればそのために尽力した高丘も朝廷に復帰できるという計算である。
 ただ、淳和はもともと平城に殺された伊予親王に近かった人なので、憲徳王(=平城)は気が進まなかっただろう。そこを説得するのが空海の役どころだったと思われる。