崇 神


■匈奴の劉氏

298
慕容廆、再び高句麗に侵攻し、西川王の墓を暴く。しかし使役した者が急死したり、墓から楽器の音がしたりしたので、廆は恐れて止めたという。(『高句麗本紀』)

廆は西川王が本当に死んだのか、それとも列島に逃げたのか確認したかったのだろう。
もし生きていたら、西川王がこの頃急速に勢力を伸ばしてきた匈奴の劉氏と共闘する怖れもあったからだ。

前漢の高祖(劉邦)の一族の娘が匈奴の冒頓単于に嫁入りし、その子孫が劉氏を名乗ったが、その本流は後漢末に絶えているらしい。
匈奴の劉氏の初代を劉淵という。 その血統は、後漢の傭兵として頭角を現した匈奴の一支流と思われる。
しかし、劉淵はあくまでも高祖の末裔を自称し、304年に五胡十六国時代のを復興する。

劉淵の母となる呼延(こえん)氏が龍門で子供の誕生を祈願したとき、頭に2本の角を持つ大魚が飛び出した。
その夜、夢に昼間の大魚が現われ、日の精という玉を渡し、これを飲めば高貴な子が生まれると告げた。そして生まれたのが劉淵であり、左手に「淵」のような模様があったという。

天武の高句麗時代の名をイリ・カスミという。漢字では「淵 蓋蘇文」。しかし唐の初代皇帝が李淵なので、中国の史料では淵の字を用いることを許さず「泉 蓋蘇文」としている。「淵」も「泉」も水源を意味する。
前回、天武は漢の後継者を自称する劉氏にも強い思い入れがあったとお話ししたが、劉淵の「淵」が自分の姓と重なっているあたりにも運命的なものを感じたのかもしれない。

 
■劉曜、北九州に上陸

・劉淵の養子劉曜が高句麗勢力と連合して帯方郡を攻撃。さらに馬韓の責稽王、慕容氏側の辰韓王儒礼尼師今を殺害した。

劉曜はまさに武力で半島南部を席巻し、ついに北九州に上陸した。
『書紀』の崇神の諡には「御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)」のほかに「御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト) 」、短縮バージョンで「御間城天皇(ミマキノスメラミコト)」などがある。
辰韓の南部、弁韓(加羅)諸国と呼ばれる国々の中には本稿でもおなじみの狗邪韓国、金官加羅国などがあるが、弥烏邪馬国(みうやまこく)というのが任那日本府で有名な任那ではないかと考えられる(諸説あり)。
「ミマキ」とは「ミマナの城」つまり崇神の居城を意味すると解釈され、多くの古代史論が「崇神は任那から来て列島を征服した」とする所以なのだが、任那とは、半島南部における劉曜の拠点だったのだろう。

崇神の皇后を御間城姫(ミマキヒメ)といい、大彦命の娘だが、私見では大彦命が娘を差し出した相手は慕容廆であり、慕容廆と御間城姫の間に生まれたのが慕容仁である(次回「垂仁」参照。)
崇神条における「天皇は」という主語にあてはまる人物は慕容廆、大彦命、劉曜の3人いる点に注意すべきである。
それにしてもミマキ天皇の皇后がミマキ姫というのは、取って付けた名前もいいところである。

大彦命と言えば、私は「武植安彦=綏靖」としたが、武植安彦という名前は妙にリアリティがあるので、実在した綏靖の家臣だったという気もする。妻と共に綏靖を守ろうとして3人とも大彦命に殺されたというのが真相かもしれない。あっぱれな忠誠心だと思うが、正史には謀反を起こした夫婦として記録されてしまうわけで、歴史は全ての登場人物の立場になって考えてみないと本当のことはわからない。

平原弥生古墳の東側の円墳に殉葬の痕跡がある。殉葬は挹婁〜東沃沮あたりの風習で、のちに垂仁が殉死を止めさせ、野見宿禰が埴輪を作ったという(『書紀』)。
劉曜は劉淵の養子だから、生粋の劉氏ではなかった。おそらく父親が挹婁〜東沃沮の出身で、劉曜がご先祖様の葬制を北九州に持ち込んだのだろう。


■四道将軍の真相

『書紀』に、崇神が大彦命を北陸に、タケヌナカワワケを東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わしたとある。いわゆる四道将軍である。
しかしこれは、複数の王朝が列島の各所に分立していたことを隠蔽する目的で捏造された記事である。
名前に「命」が付く大彦命は慕容氏と姻戚関係を結び、関東王朝の大王として即位していた(安寧)。『書紀』の時代は埼玉県も「北陸」エリアに含まれていたのかも?
同じく「命」が付く丹波道主命はもともと丹波王朝の大王で、高句麗から西川王(懿徳)を迎えて王位を禅譲した。
タケヌナカワワケも大彦命の息子なので除外すると、劉曜が実際に北九州から派遣したのは吉備津彦だけであった。

 
■劉氏、出雲振根を滅ぼす

前回、慕容廆と大彦命が綏靖を滅ぼした268年頃、同じく慕容氏勢力下にあった馬韓から百済王子・温羅(うら)が侵入し、吉備王国から神武系の飯入根を追放したという話をした。
鬼神・温羅の伝説では、崇神の時代、温羅を征伐すべく、孝霊の子で四道将軍のひとり、イサセリヒコを派遣した。
ついに捕らえたところ温羅は降参し、「吉備冠者」の名をイサセリヒコに献上した。これによりイサセリヒコは吉備津彦と呼ばれるようになったという。
温羅の死後、吉備津彦は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに温羅の骨を埋めたが、13年間うなり声が止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。その通りに神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという。
吉備津神社の鳴釜神事はブラタモリでご覧になった方も多いだろう。吉備津彦が鬼ノ城の温羅を征伐した話は、桃太郎が鬼ケ島の鬼を征伐した物語の原型であるとも考えられているらしい。

鬼ノ城は、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされ、白村江の戦いのあとで防御のために全国各地に築かれた城のひとつと考えられているが、なぜか『記紀』には出てこない。
すでに3世紀後半にも同じ場所に鬼ノ城があり、400年後、天智によってその跡地に再建されたのだと思う。

『記紀』では、温羅にあたるのは出雲振根(フルネ)で、飯入根の兄という設定になっている。
崇神が出雲大神の神宝を見たいと思い、振根に提出を求めたが、振根は筑紫に行っていて不在だった。そこで振根の弟の飯入根が独断で神宝を献上した。帰国した振根は怒り、飯入根を殺してしまう。それを知った崇神はただちに吉備津彦と武渟川別を出雲に派遣し、振根を征伐したという話である。

振根(温羅)は北九州に上陸した劉曜を迎え撃つため、鬼ノ城から筑紫に向かったのだろう。
しかし劉曜に北九州を制圧され、振根も敗れて鬼ノ城に逃げ帰って来たが、追ってきたイサセリヒコ(吉備津彦)によって殺された。
イサセリヒコは孝霊の子ではありえず(時代が違う)、北九州に残存していた伊氏(九州の物部氏)と思われ、劉曜に帰順したのだろう。
崇神が振根に神宝の提出を求めたというのは、劉氏が、中国地方を支配していた慕容氏系の振根にも帰服を要請したということである。
かつて出雲は中国地方の広範囲に及び、岡山も出雲の一部だった。
『書紀』には「スサノオがヤマタノオロチを斬った韓鋤(からさび)の剣はいま吉備の神部のところにある」とある。吉備の神部とは岡山県の石上布都魂神社のことである。
8世紀の『出雲国風土記』にはヤマタノオロチ伝説が出てこない。その舞台は出雲ではなく岡山だったのだ。出雲は8世紀には現在のように島根県内に限定されていたのである。
石上布都魂神社とは、社名としては完璧にイタケルを祀る神社である。スサノオの韓鋤の剣があるということで、スサノオとイタケルが親子だったという『書紀』の一書を思い起こさせる。伊氏の謎はまだまだ深い。

最近は「伊氏=イスラエルの民」かなと。もともとは江南の巫術者だったが、ユダヤ人が入り込んで、奄美大島から北九州という都会に進出したのかもしれない。
伊氏がユダヤ教を伝え、のちに秦氏がキリスト教を伝えた。伊勢神宮は「イスラエル神宮」であり、内宮はイエス・キリスト、外宮はヤハウェ。
小林惠子説がそっち系の話との親和性が低いのは、やはりニギハヤヒをスルーしているのが原因かも?

 
■劉氏、漢を建国

300
・高句麗で内紛。烽上王が殺され、列島から東川王系の乙弗を迎え、高句麗王に擁立(美川王)。

美川王の即位には列島にあった懿徳(西川王)の後押しもあっただろう。
高句麗では列島から来た新しい王は強いバッシングを受けるのが常であるが、美川王の場合、王妃の父が劉氏系の石勒という大物だったことが身を守ったようだ。それはつまり、高句麗も劉氏系勢力の一翼を担う立場になったというわけである。

304
永嘉の乱勃発(〜316)。劉淵、西晋からの独立を宣言し、を建国。
・百済の汾西王、楽浪大守に暗殺され、比流王即位。

劉淵は魏〜西晋に服属していたが、弱体化した西晋に見切りを付け、漢を再興した。一般に「劉氏の漢」あるいは「五胡十六国の漢」という。
一方、西晋は劉淵打倒のため、鮮卑の拓跋氏と同盟した。

百済の比流王は終始、慕容氏側にあった。
将来、この人の娘が思わぬ形で列島に関わってくることになる。

308
・劉淵、中国皇帝を自称。

310
・劉淵、病没。2代目として劉聡が即位。
・新羅、訖解尼師今即位。

昔氏最後の王とされる訖解は、倭国王を塩奴にすると侮辱したため倭人に殺された于老の息子である。

311
・劉聡、劉曜と王弥を遣って西晋の都・洛陽を落城させ、孝懐帝一族を拉致(これも永嘉の乱の一環)。

劉曜は北九州を征服し、イサセリヒコを吉備に派遣して慕容氏勢力を排除したのち、列島を去ったようだ。

・王弥、同じ漢の将軍・石勒に殺害される。

王弥は、あの毌丘倹の家臣で、帯方郡大守だった王頎の孫である。

313
・高句麗の美川王、楽浪郡を滅ぼす。

314
・美川王、百済に接する帯方郡を攻略。

 
■アメノヒボコは儒礼尼師今の子

315
・鮮卑の拓跋氏、を建国。首都は盛楽。(代はのちの北魏。)
・辰韓王子アメノヒボコ、内乱により倭国に亡命。

『書紀』では垂仁3年のこととされているが、アメノヒボコは日本の国に聖王が居られると聞き、自分の国は弟にまかせてやって来たという。播磨国の宍粟邑(しさわのむら)に上陸し、垂仁に8種の神宝を奉った。自ら諸国を巡り、住みたいところを決めたいと申し出て許され、但馬に移り、田道間守の先祖になったという。

辰韓からの亡命皇子が自ら諸国を巡り、住みたいところを決めたいと申し出て許されることなどありえない。
アメノヒボコは、298年に劉曜に殺された儒礼尼師今の子であろう。
崇神が劉氏系勢力の象徴であるのに対し、垂仁は慕容氏系だから、「垂仁に8種の神宝を奉った」というアメノヒボコは父と同じく慕容氏派で、父の仇である劉氏へのリベンジとして、最初の標的である吉備津彦を倒すために播磨に上陸したのである。
『書紀』の古注に、アメノヒボコが献上した刀の中に「イササの太刀」があるという。吉備津彦(イサセリヒコ)と戦ったときの戦利品であろう。
アメノヒボコは吉備を劉氏から慕容氏側に取り戻し、さらに但馬へ進軍した。

316
・西晋滅ぶ。

劉聡が西晋を滅ぼし、永嘉の乱が終わって、五胡十六国時代が始まる。

 
■崇神朝・まとめ

『記紀』の崇神条に書かれている主な事件は以下の通りである。

 (1) 都を磯城に移す。
 (2) オオタタネコにオオモノヌシ大神を祀らせる。
 (3) 四道将軍を派遣する。
 (4) 武埴安彦を滅ぼす。
 (5) 出雲振根を滅ぼす。

これに正しい主語を付け、順序を直すと下のようになる。

 (4) 大彦命、武埴安彦を滅ぼす。ただし黒幕は慕容廆。
 (2) 大彦命、オオタタネコにオオモノヌシ大神を祀らせる。
 (1) 大彦命、都を磯城に移す。
 (3) 劉曜、イサセリヒコ(吉備津彦)を吉備に派遣する。
 (5) イサセリヒコ、出雲振根を滅ぼす。

天武の気持ちとしてはおそらく「劉曜=崇神」だから、(3)と(5)こそが正しく「崇神朝」での出来事だったと言える。

  崇神 = 劉曜

しかし、それだと書くことが少なすぎるので、劉曜より先に列島に侵入していた慕容廆、温羅、大彦命らが起こした事件も全て「崇神朝」に詰め込んだのである。
崇神朝の実情とは、崇神という天皇が初めて全国を統治したという「ハツクニシラス」のイメージからはほど遠いものだったのだ。
そして出雲振根を滅ぼして占領した吉備も、慕容氏系アメノヒボコによって再び取り戻されてしまう。