神代1 縄文から弥生へ

 
■渡来人のルート

(章のタイトルに「神代」とあるのは、『書紀』で神武以降を「人代」、その前を「神代」としているのに合わせただけである。本稿は基本的に時系列に沿って、大陸と列島を同時進行で論じていく。)

下の写真は富山県が発行する「環日本海諸国図」、通称「逆さ地図」である。
古代の大陸人がイメージしていた世界はこれに近かったのだろう。まだ日本が大陸と陸続きだった頃、日本海が湖だったことも実感できる。

『記紀』神話では天(高天原)の神々が地(葦原中国)を生み、そこに降りてきた神を「天つ神」、下界で自然にわいてきたような神を「国つ神」と呼ぶ。
「神代」の舞台は高天原と日本列島、せいぜい新羅ぐらいまで。そして「人代」に日本の天皇の徳を慕って大陸から渡って来た人々は帰化人(渡来人)と呼ばれている。
しかしリアルな話、縄文人も日本列島が大陸から分離して以降、海を渡って来たのだった。
縄文時代はなんと1万年ぐらい続き、紀元前10世紀頃から弥生時代に突入するのだが、そのきっかけも大陸からの新たな渡来人だった。
彼らは大陸の最先端の文明をもたらし、それぞれの生活様式を列島に持ち込んで定着し、縄文人の女性と混血して「弥生人」が誕生した。そして生産量の拡大が貧富の差や階級社会を生み、縄文時代はほんの数世代のうちに弥生時代へと移行した。
列島生まれが3代も続けばもはや完全な列島人、つまり日本人である。その日本人のルーツとなる渡来人たちはどこから来たのか、そのルートについて考えてみたい。

渡来人ルートは以下の4つに分類される。

1 南海ルート(東南アジア〜江南〜台湾〜琉球〜奄美大島〜種子島〜鹿児島(〜北九州))

縄文人は東南アジアから黒潮に乗って鹿児島へ、あるいは黒潮の分流である対馬海流に乗って北九州へ到達した。
のちに水稲耕作や養蚕の技術を携えてやって来る中国の江南からの渡来人もこのコースである。
16世紀に鉄砲伝来のきっかけになったポルトガル船が漂着したのも種子島だったように、海路で日本を目指す船は必ず奄美大島や種子島に停泊した。特に紀元前の奄美大島は列島の表玄関として、海のシルクロードの東のターミナルとして栄えていたらしい。

2 北方ルート(中国東北部〜樺太〜北海道〜東北)

縄文人は北方からもやって来た。東北から出土する縄文時代初期(13,000〜15,000年位前)の隆起線文土器は中国東北部の黒竜江省あたりに源流があるとされる。
青森の三内丸山遺跡や新潟の信濃川流域の遺跡群を見ると、北方系の縄文文化の方が高度であると言える。現代でもほとんどの先進国は高緯度に位置する。もともとエチオピアあたりを発祥とする人類は、ユーラシアを北上して「寒さ」と出会い、それに打ち克つための知恵と勇気が進歩の原動力になったのかもしれない。


4,000〜5,000年前の火焔型土器(新潟・十日町市)

3 対馬ルート(朝鮮半島南部〜対馬〜壱岐〜北九州〜大和)

『魏志倭人伝』にも記されている、半島南部を経由するルート。
北九州からは瀬戸内海という列島の大動脈を通って大阪湾へ、そして大和に至る。
倭国が新羅や百済と緊密な関係にあった時代はこのルートがメインとなる。

4 日本海ルート(沿海地方〜秋田〜新潟〜能登〜若狭〜大和)

沿海地方(ウラジオストク)から季節風に乗ってダイレクトに秋田や新潟に向かうルート。
8世紀に存在した秋田城は列島の北の玄関口で、渤海使者を迎える施設でもあり、海外に対して日本の国威を示すために平城京にもなかった水洗トイレが備わっていたという(ブラタモリより)。
もともと大陸に面している日本海側の方が「表日本」だったのである。若狭湾も、来いと言わんばかりに大陸に向けて口を開けている。
現代人の感覚では天智天皇の都が近江にあったのを「なんで?」と思ってしまうが、水運がメインだった時代の琵琶湖は大陸と近畿を結ぶ重要なルートであり、近江は交通の要衝だったことが上の「逆さ地図」を見ると納得できる。

渤海の前身である高句麗や、扶餘、沃沮、挹婁とも列島は海の道によってつながっていた。
歴史書には遣隋使や遣唐使のような政府主導の国際交流ばかりが記されているが、列島人と大陸の諸民族との間には紀元前から民間の交流があり、海の道は交易品を運ぶ物流ルートだった。同じルートが民族の移動にも用いられたのである。
民族の名前がいくつか出てきたが、列島が弥生時代だった頃のユーラシア大陸にはどんな民族がどのように分布していたのかを概観してみよう。
 

■紀元前の東アジア

だいたい紀元前1世紀頃の地図であるが、遊牧民族の特徴は動くことであり、また秦・漢など中国の大帝国にとっては征伐の対象になった民族もあるのでその消長は激しく、勢力範囲は時代によってずいぶん異なるので、おおよその目安であることをお断りしておく。

紀元前、モンゴル高原には東から東胡匈奴月氏の3大遊牧民族が鼎立していた。
前漢の時代(BC208〜AD8)、その中から匈奴が台頭して東胡を滅ぼした。
しかし匈奴は漢に西に追われ、匈奴によって月氏はさらに西へ追いやられた。
月氏の一部はペルシアの東北、BC247年頃に中央アジアの遊牧民の族長アルサケスが建国したアルサケス朝パルティアに辿り着く。中国名を安息国という。中国の「安」姓のルーツはこのパルティアである。ローマと漢を結ぶシルクロード上に位置し、交易で栄えた。ペルシアではなくパルティアなのは、遊牧民が建てた国で、正統なペルシア王朝ではないからであるらしい。
BC168年頃、月氏は安息国内の同じ遊牧系の大夏(だいか)を服属させ、大夏の大をとって大月氏と呼ばれるようになった。一方、中国北部にしぶとく残ったのが小月氏である。

五胡十六国時代(4〜5世紀)の「五胡」とは「匈奴・鮮卑(せんぴ)・(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)」を言う。
鮮卑と羯はまだ上の地図にはないが、鮮卑は匈奴に滅ぼされた東胡の生き残りから出て、のちに大躍進を遂げ、匈奴と立場が逆転する。
羯は後趙(こうちょう)を建国する石氏を出した民族。そのルーツは匈奴とも小月氏とも言われ、よくわからない。

中国東北部には挹婁(ゆうろう)、濊貊(わいばく)、沃沮(よくそ)、扶餘(ふよ)などの民族があった。
挹婁は前漢以降に現れたが、その前には粛慎(しゅくしん)がいた。『書紀』に出てくる同じ字の粛慎(みしはせ)は時代的に考えれば挹婁のことかもしれない。
濊貊は濊(わい)と貊(はく)の2種族を合わせた名前。貊は(こま)と同じ。
高句麗や百済の始祖とされる扶餘(扶余、夫余)は、民族的には狛に近いと言われている。

朝鮮半島南部の馬韓辰韓弁韓は民族名ではなく地域名で、それぞれが小国家の複合体だった。
のちに馬韓から百済、辰韓から新羅が出てそれぞれのエリアを統一する。
弁韓は、半島から邪馬臺国への出発点である狗邪韓国(くやかんこく)や、のちに任那と呼ばれる弥烏邪馬国(みうやまこく)などを含む、倭ともっとも関係の深いエリア。6世紀に新羅に併合される。

日本列島は九州に、北陸に東倭があったとされる。詳しくはのちほど。

各民族には祖先であると信じられたり、神として崇められたりする特別な動物がいる。これをトーテムという。
犬(月氏)、虎(濊)、熊(狛)、鹿(扶餘)、蛇(・てん)などで、大陸から列島へ渡来した民族の出自を知るヒントになる。

 
■江南の倭人

倭人についての最古の記録は、中国後漢時代の王充が著した『論衡』という書物にある。

BC1,046頃
・周が宗主国の殷を倒し、周王朝を開く。

BC1,042〜1,021
・周の成王のとき、越常が白雉(キジ)を献じ、倭人が暢草(ちょうそう)を献じた。

越常とは中国南部に住んでいた諸族の総称で、呉越同舟でおなじみの春秋戦国時代の呉と越を建てた民族である。越族とか百越とも呼ばれる。
問題は「倭人」である。
紀元前11世紀といえば縄文時代。BC771年に洛邑に遷都するまで、周の都・鎬京(こうけい)は中国の西の端にあった。縄文人がそんなところまで朝貢したとは、たしかに考えにくい話である。
しかし倭人(倭族)もまた百越のひとつだったとする説がある。
もともと大陸に住んでいた倭人が海を渡って列島に定住したことから、中国人は列島を「倭」と呼んだというのだ。のちに「倭人=列島人」という意味に変質したわけである。
しかし『論衡』の倭人が百越のひとつの倭人であるならば、越常と倭人が同格のように並列して記載されているのはおかしいと言えばおかしい。

『論衡』が書かれたのは1世紀。その頃すでに「倭人=列島人」になっていたならば、たとえその内容が紀元前11世紀のことであっても、1世紀の著者が1世紀の読者に向けて「倭人」と書いているのだから、それは列島人のことなのではないか。
古代における移動は海路よりも陸路の方が困難なので、越常が鎬京まで行くのも大変だったことに変わりはない。むしろ、越常が行けるのなら縄文人だって行けないはずはないという言い方もできる。

倭人が周の成王に献上した暢草についてはウコン説があるが、桑の葉だったという説もある。倭人がすでに養蚕を営んでいた証拠だというのである。
江南文化圏に属する奄美大島で蚕を飼って絹を生産していた「倭人」が、はるか鎬京まで朝貢し、桑の葉を献じたというわけだ。ならば当時の倭(奄美大島)は国際的な貿易国家だったと言える。海のシルクロードの東のターミナルだったという話はここから来るのだ。
ただしこの話の弱点は、それなら成王への献上品は絹織物であるべきだろうという点である(笑)。
わざわざ蚕のエサを届けたという「暢草=桑の葉」説はちょっと苦しいと思うが、倭人が鎬京まで朝貢し、健康面に不安があったとされる成王に奄美大島もしくは琉球産のウコンを献上したのだとしても、それはそれで倭人の行動範囲の広さと国際性を物語る話には違いない。

さて、大陸から列島に渡って来たのはもちろん江南の倭人だけではなかった。

 
■燕の影響

BC1,000頃
・狛(こま)が北東アジアから朝鮮半島に南下。

BC800頃
韓氏が狛を征服。

長崎県の支石墓群は狛族の墓制である。
狛のルーツは遊牧民のモンゴル系、中国東北部土着のツングース系、両者の混血など諸説あるが定説はない。無文土器(日本の弥生式土器に相当)、青銅器、稲作などの文化を持つ。
その狛を征服したのが韓国という国名の由来になる韓氏で、当時はの家臣だった。
燕は周の分国で、場所は現在の北京あたり。
ちなみにのちに衛氏朝鮮の王になる衛氏も燕の家臣だった。
韓氏に征服された狛族の一部が対馬ルートで列島に亡命し、長崎に移り住んだと考えられる。

関東にも狛江という地名や、高麗川と書いて「こまがわ」と読むなどの痕跡がある。また神社の「狛犬」は全国に分布している。
英語のコリアの語源にもなった10〜14世紀の高麗(こうらい)が、その民族的ルーツから「こま」と呼ばれたので、それ以降、日本人が半島ゆかりのものに何でも「こま」を付けたという事実はあったと思う。しかし紀元前に北九州に上陸した狛族が実際に関東まで北上した可能性もあるし、もともと半島より北方に住んでいた民族だから日本海ルートで秋田や新潟に上陸し、関東に至ったグループがあったこともまた事実だろう。

最古の地理書とされる『山海経』(1世紀頃)に「大国燕の南に倭あり、北の倭は燕に属す」とある。
燕国の南に倭があり、その中でも北にある倭が燕に属している、つまり影響下にあったという意味だ。
春秋戦国時代後半(紀元前3世紀以後)、中国東北部から半島西部、さらに佐賀県の吉野ヶ里遺跡や宇木汲田遺跡から管玉(くだたま)や多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)がセットで出土している。弥生時代のこれらの地域の小国は燕に朝貢し、燕から珍しいガラス製品などが下賜されたと考えられる。
「北の倭」という表現は「南の倭」もあったことを意味する。燕の影響下にあった佐賀県以北が「北の倭」に該当するならば、燕の支配が及んでいなかった「南の倭」とは、やはり「倭」としての長い歴史を持つ南九州や奄美大島あたりのことだろう。

 
■大陸の動乱

大量の渡来人が列島に押し寄せた背景には、中国の易姓革命の動乱があった。

BC473
を滅ぼす。

呉の遺民が列島に渡り、呉太伯(呉の始祖とされる伝説の人物)の子孫と自称していたという(『晋書』など)。

BC334
が越を滅ぼす。

BC256
が周を滅ぼす。

BC223
・秦が楚を滅ぼす。

BC222
・秦が燕を滅ぼし、遼東郡などを置く。

BC221
・秦の始皇帝が中国を統一。

BC210
・始皇帝死去。各地で反乱が起こる。

BC209
・匈奴の冒頓(ぼくとつ)が大単于となる。

BC206
・秦が滅ぶ。

BC202
劉邦項羽を破り、秦の領地をほぼ継承して、の皇帝となる(前漢)。

BC195
漢の配下の衛満が、漢の了承を得ないまま半島の現在の平壌市を都として独立(衛氏朝鮮)。

BC141
漢の第7代、武帝が即位。

前漢〜後漢を通じて、この武帝のときが漢の最盛期だった。匈奴を西に追いやり、南はベトナムにまでその勢力を拡大した。
匈奴といえば秦や漢を悩ませた遊牧民で、日本には全く無関係な存在だと思われがちだが、匈奴の中には西アジアではなく南の日本列島に逃れたグループ、あるいはいったん西アジアに到達してから南下して列島に至ったグループもあったのだ。
古代列島には奴国、狗奴国、鬼奴国など「奴」が付く国名が多い。金印でおなじみの奴国は「なこく」と呼び習わされているが、確かな証拠があるわけではなく、「奴」が匈奴に由来するならば、正しい発音は「どこく」だったかもしれないのだ。
6世紀の継体(エフタル)以前の列島で支配者層を形成していたのも、匈奴、大月氏、鮮卑などの諸民族だったのである。(エフタルや突厥も匈奴から派生したという説がある。)彼らはのちの五胡十六国時代の主役でもあり、漢、秦、燕などの国名も彼らによって復活し、それぞれ列島に深く関係することになる。