武 烈

 
■百済東城王、武烈となる

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・東城王、暴虐だったので百済の国人によって殺される。(『三国史記』)

王が国民に殺される的な不名誉なことは『三国史記』でも記録しない方針だが、王が他国人だった場合は例外である。東城王は北燕の馮氏出身の昆支(雄略)の子・牟大だった。
しかし『書紀』には「国人遂徐、面立王嶋」(百済人が遂に東城王を除いて嶋を即位させた)とあって、殺されたとは書かれていない。嶋とは嶋君、武寧王のこと。
百済人は蓋鹵王の子の武寧王を選び、雄略の子の東城王を追放したのだ。東城王が殺されたというのは事実ではなく、倭国に戻ったのである。

・南朝斉滅ぶ。

502
・南朝建国。
・東城王、建国したばかりの梁に倭王武として送使(『梁書』本紀)。

梁の武帝は王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号した。
東城王が故意に父・雄略の「倭王武」をそのまま使ったのか、梁が両者を混同したのかは不明である。
そして生まれ故郷の列島に戻ってきた東城王は、雄略の忠臣だった大伴室屋により倭王に立てられた(武烈天皇)。

  牟大 = 東城王 = 武烈

武烈は仁賢の次に即位したので『書紀』には仁賢の子とあるが、雄略の子だったことは両者の和風諡号を見れば一目瞭然である。そして倭王武の「武」は両者に共通する。

  雄略:大泊瀬幼(おおはつせのわかたけ)
  烈:小泊瀬稚鷦鷯(おはつせのわかさざき)

しかし『百済本紀』に描かれている東城王と同様、暴虐でドSな天皇だったということばかり書かれていて、その内容についてはあまりにひどいのでここでは繰り返さない。『書紀』の編纂には百済からの帰化人が関わっているので、東城王時代の伝説がそのまま書かれているのかもしれないが、日本に来ても急に性格は変わらなかっただろう。

506
・武烈崩御。

「清寧」で述べたように、蘇我氏と大伴氏が倭国の両輪になり、天皇が不在でも基本的には豪族たちだけで国家を運営できるようになっていた。
しかし神武(綏靖)、ヤマトタケル、応神、仁徳、雄略など、世界制覇を目論み、その足がかりとして列島を征服したぐらいの倭王でなければ海外に対してにらみがきかなかったというのも事実だった。それは6〜7世紀も同様で、列島には継体(エフタル)、タリシヒコ(突厥)、そして天武(高句麗)ら海外勢による政権が立てられていく。

513
・新羅の智証、死去。

これも実際に死んだわけではなく、列島に戻り、山背に拠点を置いた。

519
・高句麗の高雲死去。

521
・百済武寧王、梁に送使。改めて百済王ならびに寧東大将軍に任じられる。

523
・武寧王死去。聖王即位。

下は『百済本紀』の系図だが、本当は「毗有王>蓋鹵王>武寧王」であり、武寧王は慕容氏最後の百済王だった。

  

聖王とは智証の息子。したがってエフタルである。

526
・智証、大和に入り即位(継体)。

「草原から来た天皇3」に続く・・・


■おわりに

紀元前11世紀の江南の倭人から始まり、伊氏、大夏の休氏(葛城氏)、大月氏(オオクニヌシ)、大武神、許氏(ヒミコ)、東川王(神武)、劉氏、慕容氏、応神と仁徳、そして馮氏まで、半年にわたって駆け抜けてきたが、まがりなりにも1本の川の流れのようにつながったとは言え、再検討の余地は無数に残されている。
特に、連載の途中における新たな発見により、すでにアップ済みの部分の修正を余儀なくされた場合、修正内容をあとから追加するという形をとり、とにかく前に進むことを優先してきた。したがって、もう一度最初から見直し、アップデートを施した「草原から来た天皇4.1」を書かなければならないと思っている。

今回の作業で難解な小林説の理解がかなり進んだのと、史料が少ない古い時代になればなるほど小林説とはまた違った推論も可能であるという発見がとてもおもしろかった。本稿は小林史学の入門編としても活用可能だが、「草原3」よりも私独自の見解がかなり多くなっている点にご注意いただきたい。
いずれにせよ学校で習う「日本史」とは全く異なる内容なので、テストで間違えてもそこは自己責任で!

このあとストーリーは「3」につながっていくわけだが、今回の考察に伴う認識のアップデートにより「3」も書き直したい部分が多々ある。お金のかからない道楽なので、来年以降も執筆を続けていくことになろうかと思う。「3」を修正したものが「5」ということになるだろう。
「4」の年表形式で時系列に沿って話を進めていくやり方は、自分で読み直すときにも非常に分かりやすいと思ったので、「5」でも採用したいと思う。