継 体  / 蘇我稲目 / 敏 達  / 蘇我馬子 / 用 明  / 崇 峻  / 上宮法王 / 山 背  /
古 人  / 孝 徳  / 新孝徳  / 斉 明  / 中 宮  / 天 智  / 弘 文  / 天 武  /
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称 徳  / 光 仁  / 桓 武  / 平 城  / 嵯 峨  / 淳 和 古代史系譜

蘇我稲目

としちん:
 平安京って、もともと秦氏の土地だったそうですね。
 私は、伊勢神宮の本殿が2つ(外宮と内宮)あるのと、正史が2つ(古事記と日本書紀)あるのは同じ理由で、どちらも秦氏と関係があるとにらんでいるのですが・・・。

ねこ:
 
藤原氏は、秦氏との婚姻によって、突然金持ちになった氏族のようです。
 ある意味では藤原氏が秦氏に取りこまれたような感じ。
 そして裏から桓武天皇の政治を操ったらしいということです。
 平安京は秦氏の財力の賜物だそうです。

としちん:
 もともと藤原氏は、不比等(私見では天武の子)を初代とし、唐の目をあざむくために藤原を名乗った「隠れ天武系」だと私は考えているので、もともと皇位にはつねに関心があったはずだと思います。
 だとすればなおさら、黒幕に徹するようになったのは、秦氏の影響があったのかもしれませんね。

ねこ:
 王はキリスト以外はつけないという聖書の鉄則があるのです。
 秦氏とは何者か、追っかけていくと古代イスラエルに必ずつながる氏族だそうです。
 聖徳太子と秦氏の関係を調べていくと謎はもっと解けるそうです。
 聖徳太子のお財布も秦氏だったようですよ。

 武寧王

 継体は新羅を攻めて新羅王(智証)となったのち、百済・武寧王(在位501〜523)をも服属させ、自分の息子を太子に立てさせた。
 524年、武寧王のあとを受けて百済王になった聖王こそ、欽明の正体である。
 (『書紀』は聖王に「明」の字を挿入して「聖明王」とし、欽明のモデルであることを暗示。)

 武寧王は百済中興の祖とあがめられている人物だが、1971年に韓国・公州から武寧王陵が108種3,000点余りの遺物と共に発掘されるまで、その存在はほとんど忘れ去られていたという。
 『書紀』には、武寧王は百済と大和朝廷の交流の途上、鎮西町加唐島と推定される島で生まれたので「嶋君」と呼ばれたことが記されている。この記事は韓国ではあまり信用されていなかったが、出生に関する同様の記録が武寧王陵からも発見され、信ぴょう性が高まっている。

 この武寧王、三島大社に祀られている大山積神の正体であるという説がある。
 三島大社の本社は伊予の大三島にある大山祇神社なのだが、『伊予国風土記』に「三島とは御嶋のことなり」と記されているのだ。
 「御嶋」と「嶋君」を結び付けただけの話かと言えばそうではない。
 伊豆七島には死者を悼む「哀号(アイゴー)」の風習があり、いまだに百済の伝統が残っている。
 また、天智天皇は武寧王の子孫だった可能性があるのだ。

 武寧王が百済民族の誇りであるならば、唐に母国を滅ぼされた百済系渡来人が、伊予、あるいは伊豆に定住し、日本人として暮らしながら、武寧王を神として祀ったというのはありうる話である。
 しかも、武寧王が単に日本で生まれたというだけでなく、天皇家のご先祖様でもあるならば、大山積神として祀られていることも十分納得できる。

 稲目は百済人だった

 蘇我稲目は『書紀』では唐突に現れた印象を受けるが、その理由は渡来人だったからであり、武寧王の家臣だったというのが私の仮説である。

 稲目の先祖に蘇我満致という人がいるが、百済の木満致のことであろう
 木満致は久爾辛王(在位420〜427)のとき、王に替わって国政を担当していたほどの有力者だ。
 木氏はもともとは交易氏族で、北九州や難波など、列島の主要な港や都市にも一族がちらばっていたのだろう。
 彼らがのちに蘇我氏と呼ばれることになったのは、稲目の子・馬子の時代だったのではないかと私は想像している。

 新羅の智証(継体)が列島に戻ってきた理由については触れなかったが、そのあと法興王が即位し、倭国は百済と共闘して新羅と敵対するようになる。
 磐井の反乱とは、筑紫と新羅が連合し、継体の大和軍と戦った戦争だったと述べたが、そのときの新羅王が法興王だった。
 智証は、法興王によって新羅から追い出されたのかもしれない。
 ならば、磐井の反乱の背景には、すでに両者の確執があったことになる。

 その継体が亡くなり、安閑朝を経て、宣化朝のときに稲目が登場する。
 継体(智証)の内政干渉によって継体の息子の聖王が太子に立てられたあと、武寧王の家臣だったとおぼしき稲目は、変わり身の早さでその聖王をサポートしたようだ。娘(堅塩媛)を聖王に嫁がせたのも、倭国ではなく百済での話だったのかもしれない。
 では、稲目はなぜ倭国にやって来たのだろうか。

 531年 倭国で安閑のクーデターが起こる。
 聖王の異母兄の宣化は、継体とは行動を共にせず、百済に身を寄せていたと思われるが、弟が百済王になったので、自身は列島に渡り、父の仇である安閑朝を滅ぼし、自ら倭王になろうとしたのではないか。
 稲目はそれに同行し、安閑の暗殺にも関与していたのかもしれない。
 535年、宣化が即位すると、そのまま稲目も倭国で大臣の地位につき、それまでの大伴金村、物部麁鹿火、春日山田皇女の3頭体制から蘇我氏の独裁へと移行する基礎を築いたのだった。

 二匹の戦う狼

 下の表は、継体一族(継体〜推古)の生年と在位年を一覧にしたものである。
 生まれてから即位までをグリーン、即位期間はピンクで示した。
 その正体が新羅王だった場合は右側にその在位年を水色で、百済王だった場合は黄色で示した。

 のちほど説明するが、宣化はのちに新羅に渡って亡き父のライバル・法興王を倒し、真興王となる。
 しかし、宣化〜真興王の生涯をトータルすると109歳になってしまう。
 宣化の生年は没年齢73から逆算されたものだが、その没年齢が本当は真興王のものだったとすれば、576年に73歳で没したとあるので、宣化は504年生まれとなり、欽明の5歳年上になる。

 私は最初、欽明が継体の「嫡子」とあることから、欽明が長男で宣化は次男ではないかと考えていたのだが、欽明の母が春日山田皇后だったのに対し、宣化の母はおそらく現地の新羅人女性で、宣化の方が長男だったのだろう。
 古代史には母方の血筋が原因で苦労した人物が少なからず登場するが、宣化もそのひとりだったと私は考える。

 『書紀』によると、宣化は那津に宮家を作って米を備蓄させ、537年、大伴金村大連の子・磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして任那を救援させ、539年に崩御したとある。
 一方『新羅本紀』によると、540年7月に法興王が亡くなり、8月に真興王が即位している。
 宣化は死んだのではなく、対新羅戦の準備を整えさせ、539年に自ら新羅へ出陣、智証(継体)を追放した法興王を倒して真興王になったのである。

 ちなみに『新羅本紀』は真興王の即位を7歳、『三国遺事』は15歳としているらしい。
 小林説は15歳説を採り、継体の孫としている。
 しかし、私はすでに述べたように、真興王を継体の長男で、504年生まれと考えているので、37歳即位としたい。
 『新羅本紀』と『三国遺事』の記述がバラバラで、しかも真興王が異常に若く描かれていることには何らかの理由があると思われるが、今のところ不明である。

 真興王が即位した540年、入れ替わるように聖王が来倭し「倭国の磯城(しき)郡の磯城島金刺宮」を建てる。
 聖王の実母である春日山田皇女と稲目が彼を倭国に呼び寄せたのだろうか。
 一方の宣化は再び列島に戻ることがなかったため、『書紀』では539年崩御とされている。

 翌541年3月、新羅に百済から使者が来て、新羅と百済が講和(『新羅本紀』)。
 この講和の意味はきわめて重要で、半島南部と列島が、聖王(欽明)、真興王(宣化)という継体一族によって固められたことを意味する。

 しかし、聖王が何の苦労もなく百済王と倭王を兼任するまでになったのに対し、兄である真興王にはあくまでも実力でその地位を築いたという自負があった。
 大陸には高句麗という、半島制圧を目指すもうひとつの勢力があり、真興王をそそのかして百済と新羅を離間させ、ついには悲劇的な結末を迎えることになる。

 秦大津父

 前章で「応神、継体、欽明という大王の全てに秦氏が関係している」と述べた。
 『書紀』の欽明条の冒頭部分に、次のような話がある。
 欽明が幼少のおり、夢に人が現れ、「秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」と言った。
 使者に捜させると、秦大津父は山城国紀郡の深草の里にいた。
 欽明が彼を呼び寄せると、彼はこんな話をした。

 伊勢より商売をしての帰り、山で二匹の狼が闘っているのを見ました。私は口手を洗い禊(みそぎ)して拝み、あなたがたは尊い神でいらっしゃるのになぜこんな荒々しいことをなさるのですかと言って争うのをやめさせ、血を拭いて放してやりました。

 欽明は夢のお告げ通り、秦大津父を手厚く遇し、秦大津父は大いに富を重ね、欽明即位後は大蔵の司に任じられた。

 秦大津父とは、聖徳太子のブレーンとして有名な秦河勝の先祖である。
 国宝第一号の弥勒菩薩像で有名な広隆寺は、太子の時代に河勝が建てた秦氏の氏寺・蜂岡寺を、のちに太秦(うずまさ)に移転したものであるという。
 秦氏の出自は、狼を始祖として崇拝する騎馬民族であろう。
 秦氏は、テュルクの技術(製鉄、武器製造)と新羅の技術(土木、建築、養蚕など)を倭国に持ち込み、産業の中心が継体朝の軍事産業から欽明朝以降の平和産業へと移行する間も、常に経済界をリードしていた一族である。
 聖王の倭国滞在中、秦氏の経済的な後ろ盾があった事実を『書紀』は伝えているのだ。

 しかし秦氏は、前章でお話ししたように、単に技能集団として列島に渡って来た集団ではなかった。
 騎馬民族国家は、領土の拡大とともにさまざまな民族を吸収していく。それに伴い、さまざまな宗教も流入し、テュルクにはマニ教徒、仏教徒、キリスト教徒もいたようである。
 まだ国家としての突厥が形成される前の4〜5世紀頃、聖書に「救世主が現れる」とされる東方の国を目指したテュルクの中の原始キリスト教団、それが秦氏だったと私は推測する。

 加羅の領有権を巡って、新羅に不穏な空気が漂い始めると、聖王は百済に帰国。
 547年、倭国は百済の要請で、援軍を派遣した(『書紀』)。
 552年、聖王は、援軍要請に応えた恩賞として、倭国に仏像や経論を送っている。
 これは一般に仏教公伝とされている。

 倭国滞在中の聖王のスポンサーだった秦氏がキリスト教なのに、聖王自身は仏教なのかと疑問に思われる方もあろう。
 当時の極東アジアにおける仏教は、まだ宗教というよりは政治家にとっての教養として、あるいは高度な寺院建築や仏像などの芸術を伴う「ハイテク」として受容されていたようだ。
 そのような大陸文化の華とも言える仏教に関するさまざまなグッズを、聖王は稲目に贈ったわけだ。
 むしろ「聖王」という名にはキリスト教の匂いを感じるし、稲目の子・「蘇我馬子」などはもっと顕著で、「我は蘇り、馬小屋の子」としか考えられないネーミングである。
 私は「厩戸皇子」というのも、本来は馬子の幼少時の名ではなかったかと思っている。
 逆に考えれば、百済の木氏が倭国で「蘇我氏」を名乗ったのも、のちに馬子が倭王になった時代のことだったのかもしれない。
 キリスト教の輪が、秦氏→継体→欽明(聖王)→蘇我氏へと拡がっていったわけである。

 このように、キリスト教を信じ、仏教をも愛好するインテリ肌であったとおぼしき聖王と、父親の武人魂をそのまま受け継ぎ、聖王に対するコンプレックスの塊と化していた真興王とでは、モチベーションの高さに歴然とした差があった。
 秦大津父の言う「二匹の戦う狼」とは、ともに騎馬民族エフタルの部族王・継体の子である聖王と真興王のことだったのである。
 その戦いは、554年、聖王の戦死によって終結した。

 なお、『書紀』は欽明崩御を571年としているが、これは蘇我稲目が死んだ欽明31年(571年)まで欽明朝が存続していたように見せるためで、稲目が実質的な倭王だったことを隠しているのである。
 さすがの真興王も、かつて自分が倭王になるときに尽力してくれた稲目に歯向かうことはなかったのだ。

 突厥の狼祖説話

 ユーラシア大陸では6世紀になると鉄勒が、東はモンゴル高原北部から西はカスピ海北岸あたりにまで広がる。
 鉄勒の一族である阿史那氏は、柔然に従属し、金山(アルタイ山脈)のあたりで鉄鍛冶を特技としていた。
 この阿史那氏から土門が出て、鉄勒と柔然を共に撃破。
 552年には伊利(イリ)可汗と号して独立。
 ここに大遊牧国家・突厥が誕生する。
(可汗はカガンと読み、王のこと。カン(干)、カーン、ハーンとも言う。チンギス・ハーンのハーンである。)
 ちなみに現在のトルコ共和国も552年を民族としての建国の年としている(ターキー=テュルク)。
 「突厥」の意味は兜で、アルタイ山系のかぶとの形をした山にちなんだ名前であるらしい。

 突厥の始祖神話によると、突厥はもともと匈奴の別種とされるが、隣国に滅ぼされ、10歳ほどの子供1人が生き残り、1匹のメス狼に育てられる。
 少年は成長するとそのメス狼と交わり、10人の男の子が生まれたという、いわゆる狼祖説話になっている。丁零にも似たような始祖神話がある。
 突厥民族は先祖が狼であることを忘れず、可汗の旗じるしには黄金の狼頭がついていたという。

 突厥は木杆(ムカン)可汗のときに高句麗と同盟し、のちに中国を統一するに対抗。
 高句麗は鮮卑と同じツングース系の夫余族が建てた国だが、鮮卑の拓跋部である隋の皇帝とは、言わば同族嫌悪の関係にあったと思われる。
 一方、土門の弟イステミ(ビザンツ史料ではシルジブロス)は西に向かい、ササン朝と結んで、エフタルを撃破する。

 572年、木杆が死去すると、弟の佗鉢(たはつ)可汗が即位。
 581年、沙鉢略(さはつりゃく)可汗が即位。これ以後の可汗は隋に臣属し、隋から冊立される。
 583年、木杆の子・阿波(アバ)が沙鉢略と対立、イステミの娘婿である達頭(タルドウ)のもとに身を寄せる。
 中国史料はこの年を突厥の東西分裂としている。
 阿波と達頭は、のちに日本列島にきわめて重大な影響を及ぼす人物となるので、その名を記憶しておいていただきたい。

 なお、突厥は630年に唐に大敗して滅び、682年に再興されるが、744年に再び滅亡する。