履 中

 
■腆支王、倭王となる(履中)

425
・宋、腆支王を百済王として承認。

腆支王は416年に東晋から百済王として冊封されている。そのときは仁徳系勢力が倭国と百済にまたがることを東晋が嫌い、あえて応神系の腆支王を百済王として承認したと思われるが、420年に東晋に代わって建国した南朝宋も同じような理由だったと思う。
しかし同時期に宋が倭王として承認した仁徳は、宋に送使する直前にすでに高璉に殺されていた。
高璉は自身が倭王になることが目的ではなかったと見え、その後半島に逃走したらしい。
しかし同じ応神の孫で、倭国で仁徳の監視下にあった腆支王は、かつて祖父の応神が支配していた倭国の奪回に向かって動き出した。

427
・腆支王、仁徳の子・住吉仲皇子を滅ぼす。

『書紀』によると、仁徳の皇子は葛城襲津彦の娘の磐之媛との間に履中住吉仲皇子反正允恭が、そして髪長媛との間に大草香皇子がいたという。
履中は黒媛という女性をめぐって二男の仲皇子と争いになり、三男の反正に、仲皇子を殺して自分への忠誠を証明せよと命じた。反正は仲皇子の部下のサシヒレという隼人を買収し、仲皇子を殺させたという。
しかしこれは黒媛を巡る争いではなく、仁徳の後継者争いだった。
履中が本当に仁徳の長男なら仲皇子を殺す必要はないし、反正のことももっと信頼していいはずである。
履中は仁徳の子ではなく、応神の孫の腆支王だったのだ。

  腆支王(餘映、直支) = 履中

  

仲皇子はいかにも三兄弟の真ん中っぽい名前だが、履中が兄ではなかったとすると、高句麗に残っている土王の太子・興が兄ということになろう。そして三番目が反正。大草香については後述する。允恭は次回にて。

  

 
■大草香皇子、百済・毗有王となる

・腆支王の子・久爾辛が亡くなり、毗有王餘毗(よび))が百済王に即位。

履中は仁徳の子・大草香皇子を百済王に立てた。
大草香は『古事記』では波多能太郎子(はたびのおおいらつこ)といい、毗有王と同じ「毗」の字がある。

  毗有王(餘毗) = 大草香皇子

ここで気になるのは、腆支王(映、よえい)と毗有王(毗、よび)が同じ餘姓であることだ。
腆支王の母の姓が餘で、ルーツが扶餘族だったりするのかもしれない。
即位させるにあたり、腆支王は大草香を養子として餘姓を名乗らせたのだろう。

大草香皇子は仁徳と髪長媛の子とされる。
『古事記』では、応神が日向国から召し上げた髪長媛に即位前のオオサザキ(仁徳)が一目惚れし、武内宿禰を通じて応神に譲ってもらえないかと頼み、これが聞き入れられて自分の妃としたという。
これは、応神が慕容煕に美人姉妹を贈ったのと同じ作戦で、土王にも美人を贈った事実があったことを物語っている。
仁徳は慕容煕ほどには美人に迷うことがなかったのでその作戦は失敗に終わったわけだが、その髪長媛が生んだ仁徳の子が大草香だったのである。
履中は仁徳の皇子たちよりも年長だったことと、百済王だった経験値にモノを言わせ、反正を手下とする一方、大草香を百済王に立てて仁徳派にも配慮したのである。
また仁徳派とも協力せざるをえなかったのは、半島には高璉や新羅の訥祇がいて、予断を許さない状況だったからだ。

428
・直支王(腆支王)が妹のシセツヒメ等を倭国に来させた。(『書紀』)

同じ『書紀』に直支王は414年に死んだとあるから明らかに矛盾しているが、腆支王は半島と列島を何度も往復していて、このときは履中として倭国にいた。仁徳が死んで、やっと安心して身内を呼び寄せたようだ。
履中は430年に宋に送使しているので、即位したのは429年あたりだろう。
腆支王がどれだけ半島と列島を行ったり来たりしたかをまとめてみる。

 394 百済阿華王の子・餘映(直支)、太子となる。応神の孫。
 397 → 人質として倭国に赴く。
 405 ← 百済に帰国。腆支王として即位。
 414 → 土王に追放され、列島の菟道稚郎子の元に戻る。
 417 ← 大和朝廷が土王に降伏、菟道稚郎子が自殺。腆支王は東韓の地へ逃れる。
 420 → 仁徳(土王)が腆支王を倭国に呼び寄せる。
 429 腆支王、履中として倭王即位。

履中の和風諡号は去来穂別(イザホワケ)天皇という。去来とは行ったり来たりした腆支王にふさわしい名前だが、氣比神宮の祭神の伊奢沙別命(イザサワケ)は応神の元の名で、応神は氣比大神(ホムツワケ)と名を交換してホムタワケになったという話を思い出していただきたい。履中が仁徳の子ではなく応神系であることが和風諡号にも暗示されているのである。

 
■北燕の馮丕、北魏に亡命

430
・北燕の馮跋死去。弟の馮弘が北燕王に。

馮跋の死後、馮丕馮弘という2人の弟が北燕王の座を巡って対立した。
結局、馮丕は弟の馮弘に即位を譲ったが、こともあろうに北燕を滅ぼそうとしている最大の敵国・北魏に亡命した。
なかなかの実力者だったようで、将軍として重用されるようになるが、この馮丕が仁徳を殺した高璉と個人的に結び付いたと私は考えている。

仁徳が朝廷で北燕の客をもてなしたとき、超人的パフォーマンスで北燕人に衝撃を与えたのが高璉だった。
その北燕の客の中に馮丕がいたのではないか。
翌年、高璉は仁徳を殺害して半島に逃走した。北燕は仁徳と友好関係にあったから、北燕にとっても高璉は犯罪者である。しかし馮丕が個人的に高璉をかくまった可能性はある。
そして弟の馮弘が北燕王になったのを機に、馮丕と高璉は共に北魏へ亡命したのだと思う。北燕と北魏の戦いは、いずれ北魏の勝利で終わることが彼らには見えていたのだろう。
それだけではない。当時の北燕領は高句麗そのものだったので、馮丕は南平壌にいた土王の太子・興とも接触し、興と高璉を結び付ける役割も果たしたのではないかと思う。仁徳への仇討ちを果たした高璉が、今度は興にとって父の仇になるという「仇討ちの連鎖」が始まるはずだったのだが、なんと両者はのちに共闘関係になるのである。

 
■宋は履中を倭王としては認めなかった

・履中と百済の毗有王(餘毗、大草香)、宋に送使。

履中は自身の倭国王即位と、百済の毗有王の即位の承認を宋に求めた。
毗有王は腆支王の爵号がそのまま授けられて百済王となった。仁徳の子であることも評価されたのだろう。
ところが、過去に百済王として冊封されていた腆支王は倭国王としては承認されなかった。2国を征服する意図が見え見えだったからだろう。
宋に送使した倭王は履中を入れて6人。しかし履中だけ倭王として承認されなかったから「倭の五王」なのである。

432
・北魏が北燕を攻撃し、高句麗の領土と人民を略奪。

馮弘は道武帝の孫にあたる太武帝にまたしても徹底的に攻められ、高句麗領を失い、北燕の領土は龍城周辺のみとなった。このとき馮丕と高璉はすでに北魏側の軍人として活躍したと思われる。

 
■2人の倭王(反正と市辺押磐)

432
・履中崩御。
・反正、宋に送使。倭王珍として承認される。

宋に倭国王として承認されなかった履中は、432年、息子の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に後事を託し、即位後わずか3年でこの世を去る。
ようやく仁徳の実子である反正が宋に送使し、こちらは無事に倭王珍として承認された。
『宋書』には、珍は讃(仁徳)の弟とある。履中が送使したときに讃の弟を名乗ったが承認されず、珍(仁徳の息子の反正)のときに「倭王は讃の弟」という情報だけが残っていて誤用されたのかもしれない。

『記紀』では履中の次の天皇が反正であり、兄弟による初の継承とされるが、すでに述べた通り、履中は阿華王の子で応神の孫、反正は仁徳の子だから赤の他人である。

一方、履中の子の市辺押磐について『播磨風土記』には「市邊押磐天皇命」とある。
市辺押磐には億計弘計という2人の息子がいて、彼らは身分を明かすときに「市邊宮で天下を治められた天萬國萬押磐尊の御裔(子孫)である」と言っている。
対外的には宋に承認された倭王珍(反正)がいたが、国内的には市辺押磐が畿内から吉備地方を統べる「倭王」だったのだ。
億計、弘計はのちの仁賢顕宗天皇だから、応神系の王統は武烈が即位する5世紀末まで存続していたのである。