対談「鸕野皇后は皇后だったのか?」

ねこ:
あたしは、今考えているのは天武天皇は鵜野皇后のことどう思っていたのかってこと。
本当に皇后だったのか。大田皇女が皇后ではなかったのか。
つまり『日本書紀』を書き換えたのではないか。

としちん:
おいらは、天武が即位したとき、大田皇女が亡くなっているのをいいことに、鸕野が力づくで皇后になったとしておきます。
そして、天武の後継者としての大津(大田の子)の内定を取り消し、草壁(鸕野の子)を太子とした。
そんな鸕野のワガママを許してしまった天武に、大津は殺意を抱くようになったと考えるわけです。
もし母・大田の死に鸕野が関わっていたとすればなおさらでしょうね。

ねこ:
鵜野はあんまり愛されていなかったような、そんな気がします。
頼りにされていたのは、もしくは利用されたのは額田だと思います。
愛したのは、間人皇后だと思います。

としちん:
間人への愛は感じますよね。

ねこ:
大田皇女は天武の正室として妃になったと思います。
小林女史の私見では鵜野は大田についていた侍女ではないか、ということです。
つまり二人は姉妹ではなかったということです。

としちん:
その小林説では、鸕野は河内国更荒郡鸕野邑出身で、金官加羅国の金庭興の子孫。
金庾信や、鏡王、額田王も同じ一族ですよね。
金庾信は花郎出身で、善徳女王時代に頭角を現わし、武烈王(金春秋)の即位にも貢献した人物。
彼は軍事力のみならず、妹を百済の武王に嫁がせ、生まれた娘を武烈王に嫁がせるという、外交に長けた人物でもありました。
その娘というのが額田王です。
金庾信は大海人とも強く結び付いていて、額田王の姉・鏡王は、大海人の子・法敏(のちの文武王=文武天皇)を生んでいます。
大海人はのちに鏡王を中臣鎌足に与えていますが、そのとき鏡王は天武の次男を妊娠していて、生まれたのが不比等だったとおいらは考えてます。

一方、武烈王に嫁いだ額田王は、武王の死をきっかけに離婚、中大兄らと共に来倭します。
倭国に来たばかりで、大海人の軍事力を必要としていた中大兄は、その額田王を大海人に嫁がせます。
生まれたのが十市皇女、のちの弘文(大友)の皇后ですが、もともと高市と恋仲だったので、大海人側のスパイとして暗躍していました。
額田王は斉明の侍女を勤めていましたが、斉明の死によって大海人と中大兄の仲が完全に決裂し、中大兄の方に戻ってきます。

そんなわけで、大海人は鏡王・額田王姉妹とはそれぞれ一時的にしか関係していないのですが、そのとき姉妹のどちらかが「女の子なんだけどすっごい軍師の才覚のあるコがいるよ!」と、同郷の鸕野を大海人に紹介したのではないかと私は想像してます。安心して夫に紹介できるほど、鸕野はすでにその時点で誰からも女扱いされないようなキャラだったのかも(笑)。

ねこ:
ねこは、大田が立后して皇后になったと思ってはいるのだけど、天武が天皇になったころと年号があわないの。小林女史にいわく、『書紀』は年号に関しては正確ですとのこと。

としちん:
天武即位は673年ですが、大田は667年に死んでますからね。
672年の壬申の乱のとき、高市と大津は、近江を脱出して吉野側に参加してます。
つまり、大津はもともと近江京にいたわけですが、それは大田が死んで、祖父の天智に引き取られていたからです。
天武にしてみれば、あとつぎの大津が無事に自分のもとに帰ってきたというわけです。

ねこ:
天武が倭国の地で生きていくには天智の力が不可欠だったのではないでしょうか。
その意味から、天智の娘が必要だったと思います。
天智も天武の力は知っていたので、娘を与えておけばとりあえずは戦にはならない、という考えがあったのではないでしょうか。
大田が夫と父の間でどのように動いたのかは定かではありませんが、うまく調整したのではないでしょうか。

としちん:
う〜ん、逆ではないかな。
大海人のほうが弱い立場だったら、「くれ」と言ってももらえるものではなかったと思いますよ。
さっきも言ったように、列島での基盤が弱かった中大兄の方が、大海人の軍事力に依存せざるをえなかったのです。
それで同母妹の間人(もと孝徳妃)、実の娘の大田、新田部、大江皇女らも、大海人に請われるままに差し出すしかなかったのではないでしょうか。
ちなみに中大兄の娘「4人」というのは鸕野も勘定に入っているわけですが、私はもともと、大田、新田部、大江の3人に、阿閉皇女を加えた「4人」だったのではないかと思います。

天智の母系は聖徳太子で、これはもう秦氏が崇める「神様」なんですけど、『本当は怖ろしい万葉集』によると、天智の父系のルーツは雄略なんですね。
雄略は百済系で、小林説では武寧王の父親。武寧王の次の聖王は継体の子なので別王朝なのですが、法王の次に百済王になった武王(舒明)が、おそらく武寧王の子孫です。
武寧王系の復活には、かつて武寧王の家臣だった百済の木氏、すなわち蘇我氏の働きかけがあったのではないかと想像します。
法王が列島入りして倭王(上宮法王=聖徳太子)になるにあたり、馬子から、百済における後継者には武寧王系の王を立ててくれというリクエストがあったのではないかと。

当時は、九州から関東まで、列島の大部分を制圧した最初の「倭王」は雄略だったという認識があったらしいんですね。
ですから、天武が天智娘を必要としたのは、あくまでも自分の子孫に、最初の倭王である雄略の血と、神である聖徳太子の血を入れるためなんです。

ねこ:
鵜野は、天武の手がついて妃にはなったけど、大田の死後皇后にはなれなかったのでないでしょうか。
天智の皇女3人がいつ妃になったのかはわからないけど、あの時代、血統が物を言う時代ですよね。
皇女の方が鵜野よりも下という事はねこには、ちょっと考えにくいのです。

としちん:
たしかに天武は「天智娘」の血統にはこだわってましたが、それはそれとして、皇女たちはしょせん壬申の乱の敗者側ですから。
吉野軍の勝利を導いたのは結局、鸕野の才覚と、戦力としての高市の存在でした。
その鸕野が、天智娘たちを押しのけて天武の皇后になるのは、成り行きとしてはむしろ当然だったのではないでしょうか。
そして鸕野が、もし草壁を皇太子にしなかったら、また高市と組んで、こんどはあなたを攻めますよと天武を脅迫したとすれば、天武にとってはもっとも敵に回したくない相手ですから、草壁を皇太子として認めるしかなかったはずです。
ただし、そうすると天武は大津を裏切る結果になるという、板挟みの形にならざるをえなかったわけです。

ねこ:
草壁が鵜野の生んだ子ではなくて、皇女が生んだということもありえるのではないでしょうか。

としちん:
天武が草壁に娶せた阿閉が、もともと天武が娶った「4人の天智娘」のひとりだったとすれば、草壁自身はその血統になかったことを物語っていると思うので、やはり草壁の母親は鸕野だったと思います。

ねこ:
斉明天皇が死に、唐との戦いに敗れたとき、天武はかなり立場的にはまずくなっていたようですよ。それは、天智も同じですが。
唐の怖さは二人とも知ってはいたけど、理解はしていなかったのでしょう。

としちん:
白村江の戦いでダメージを受けたのは圧倒的に中大兄だったと思います。
母国が消滅してしまったのですから。
でも、自分に残された道は、倭王となり、大海人と対決するしかない、そのためには唐と結ぶしかないと、腹をくくるきっかけにはなったと思います。
幸い、唐が目の敵にしているのは大海人ですから、中大兄は頭さえ下げれば唐の承認は得られる立場だったはずです。斉明の息子ですし。
白村江の戦いも、中大兄自身は指をくわえて見ていただけだったと思うので。

一方、大海人は百済はどうでもよくて、高句麗を救援するのが目的でした。
白村江の戦いに勝利した唐軍は続けざまに高句麗を攻め、このときは蓋蘇文(大海人)が防ぎきったのではないかと思います。
しかし、史料には蓋蘇文は666年に死んだとあり、それによって高句麗は内部から崩壊して、あっさり唐に滅ぼされたとされています。

唐の最初の高句麗攻めを防ぎきった大海人は、九州の朝倉宮に戻り、664年に間人を即位させます。中大兄が即位する前に、先手を打ったわけです。
ところがその間人が1年で死んでしまう。
唐は同年、ようやく中大兄を倭王として承認します。
万策尽き果てた大海人は、再び高句麗に渡り、666年、唐との最後の戦いに臨んだ。
その結果、高句麗が敗れ、消滅してしまったために、史料では蓋蘇文も「死んだ」とされたのでしょう。『書紀』には遺言まである。
でも実際は、まだ半島にはひそかに蓋蘇文を後援する文武王も金庾信もいた。
百済、高句麗と滅ぼしたあとの唐の狙いは半島の完全制覇ですから、たとえ表向きは唐と連合していた新羅も、内心は唐に強く反発していたわけです。
唐が天智を承認し、列島まで唐の手に落ちてしまったので、文武王と金庾信は、蓋蘇文にはなんとしても天智を倒して倭王になってもらわなければならなかった。
蓋蘇文もその期待に応えるべく、新羅経由で九州に戻っていたのでしょう。

ねこ:
天武は吉野に僧となって逃げ込むしかなかったようです。
鎌足が生きていたならば事態は変わっていたかもしれませんが。

としちん:
大海人が頭をまるめて近江京から吉野へ移ったという話はウソだと思います。
中大兄と大海人は、斉明の死に大海人が関わっていたということが決定的になって、白村江の戦いの時点では完全に決別していたはずです。
おまけに大海人は、勝手に天智妹の間人を即位させ、1年で死なせてしまっている。
大海人が近江入りするためには、天智に謝罪し、和解する必要がありますが、天智が大海人を許すはずがありません。
さらに、天智が唐に承認してもらっているという立場を考えても、もはや唐の宿敵である大海人と関わることはできなかったはずです。

ねこ:
吉野には天武の味方がいたので援助を求めたようです。
ここから、天武忍者説が出てくる。
とはいっても天武の腹心の部下はやはり鎌足でしょう。

としちん:
その鎌足は669年に死んでいますが、天智の懐刀である蘇我赤兄によって暗殺された可能性が高く、すでに壬申の乱は始まっていたと言えるほど、天智と大海人は完全に敵対していたのです。だから大海人の近江入りはありえない。
頭をまるめて吉野に入るという話は、すでに古人大兄が同じことをやってます。
そして孝徳の軍勢によって一族が皆殺しにされてます。
『書紀』は、大海人を、古人の悲劇とオーバーラップさせるために、古人と同じ舞台設定を用いたのではないでしょうか。もちろん近江側を悪役として描き、壬申の乱を正当化する目的で。

実際は、大海人は近江には入らず、天智との決着を付けるべく、九州から吉野へ向かって、そこを本拠地にしたと考えたほうが自然だと思います。
天智が瀬戸内海沿岸に築いたという水城(ほんとは「御築」らしいね)も、唐の侵略に備えるのが目的ではなく、大海人軍の侵略に備えるためのものだったとか。結果的には、あっさり突破されてしまうのですが。
もともと吉野宮は斉明のときに整備されたところですが、発案者は大海人だったと思います。こういうときのために備えていたのでしょうね。
また、大海人には、父親の高向玄理が築いた人脈というものも味方したのでしょう。
少なくとも、百済からの亡命王子である中大兄よりは。

ちなみに、中大兄の側近が蘇我赤兄だったり、妃にも蘇我氏の女性が多いのは、蘇我氏がもともと武寧王系の百済王家の家臣(木氏)だったというつながりによるものでしょうね。
中大兄は蘇我氏を滅ぼすためにやって来たような人ではあるのですが、蘇我氏なら誰でもというわけではなく、ターゲットあくまでも「馬子の子孫」だったのではないかな。

ねこ:
鵜野の策略を用いるのであれば、そのようなものが『書紀』に書かれていてもいいとは思うけど、書かれていないでしょう。
むしろ額田のほうが『書紀』ではないけど文献には書かれている。
で、ねこは(鵜野は)頭は良かったけど軍師にはなれなかった、と思うのであります。

としちん:
鸕野の作戦が吉野軍を勝利に導いたというエピソードが実際にあるならば、『書紀』には自慢気に書かれているはずだというご意見ですね。なるほど(笑)。
でも、天智娘の新田部・大江・阿閉らは、大海人にとってはあとつぎを生ませるための道具にすぎなかったのに対し、「戦友」として心を通わせていた女性は鸕野ただひとりだったということは言えるのではないでしょうか。
鸕野は、大海人と対等に(あるいはそれ以上に)モノが言えるという点で、大海人を取り巻く女性達の中ではもっとも強い立場にあったとおいらは想像してます。
キャラとしては、サッチーとか、落合夫人みたいなタイプだったのかも?(笑)

ところで、鸕野的には「天智娘」にコンプレックスに近いものを抱いていたと思うので、草壁の嫁の阿閉に対して、究極の嫁イビリみたいなこともあったんじゃないでしょうか。阿閉がもともと天武妃だったとすれば、なおさらでしょう。
そして、大津・草壁がともに死んでしまい、鸕野は持統(高市)を倒して天武の長男・文武を即位させるわけですが、この文武をめぐっても、鸕野と阿閉の間に女の戦いがあったはずです。
なにしろ鸕野は、吉野に何十回も通って文武とデートを重ねてたわけで、草壁亡きあとの彼女にとって、文武は生き甲斐ともいうべき存在だったはずです。
即位後の文武に皇后がいなかったのも、鸕野がその立場にあったからでしょう。

しかし、701年に生まれた文武の子・聖武は、どう考えても宮子が産んだ子ではありえず、文武と阿閉の間の子なんだよね。
そして、鸕野は翌702年に亡くなった。
これは女としても母としても、鸕野にとってはめちゃくちゃ敗北的な死だったことになるのではないでしょうか。

(小林惠子ファンの会MLより)