饒速日(2)

 
■伊氏は江南の倭族だった

今回は今まで書いてきたことと少し内容が異なるので、『書紀』の「一書曰(あるふみにいわく)」的なものとしてお読みいただきたい。

紀元前、江南の倭族は奄美大島に女王国(倭)を建てた。初代ヒミコを含む巫術者一族の名を伊氏という。のちの物部氏である。
物部神道は、江南の巫術に縄文のアニミズムや祖先崇拝が融合し、独自の進化を遂げたものだったのだ。

BC2世紀頃、漢の拡張政策がもたらした大陸の動乱で倭の貿易業が衰退、もしくは何らかの事情により、とにかくその拠点を北九州に移した。これが伊都国である。
北九州には天皇家の大和朝廷よりも古くから強大な王権があり、大和とは異なる文化があったと説く「九州王朝説」はそこまでは十分に正しい。当時は下の地図のほぼ全域を占めていたのではないかと思う。



■騶牟の子・沸流

BC57 スクナヒコナ、辰韓の初代王・赫居世となる。

スクナヒコナは大夏の休氏である。
過去の文を読み返してみると「大月氏の休氏」という表現があった。月氏が大夏を征服して大月氏になったわけだから「大月氏の休氏」でもたしかに間違ってはいないが、休氏は大月氏に支配されるのを嫌い、自由を求めて列島や辰韓に渡って来たのだから、それを大月氏と呼んでやるのはあまり適切ではないだろう。
今さらではあるが、大月氏のオオクニヌシ系と区別するためにも、休氏は「大夏の休氏」としておきたい。

  大月氏  :オオクニヌシ系
  大夏の休氏:スクナヒコナ系(葛城氏)、ニニギ系(神武)

しかし運命とは恐ろしい。大月氏の束縛から逃れてはるばる列島までやって来たスクナヒコナが、大和でも滇から来たオオクニヌシ(大月氏)に支配されることになってしまう。
スクナヒコナは娘をオオクニヌシに与えて忠誠を誓ったものの、結局、辰韓に追放されたのである。

BC37 解氏扶餘の騶牟が高句麗を建国。

BC19頃 前漢に追われた騶牟(タケミカヅチ)が列島を侵略し、出雲のオオクニヌシと丹波のタケミナカタ(オオクニヌシの子)を滅ぼした。このとき生まれたばかりのタケミナカタの子・脱解(のちの大武神)とその母親(スクナヒコナの娘)は辰韓に逃亡。

騶牟は鄒牟とも表記され、朱蒙東明聖王とも呼ばれる。
オオクニヌシを滅ぼしたことから私は騶牟をタケミカヅチに比定しているが、神話に登場する神々は必ずしも実在した人物と1:1で対応しているわけではない。タケミナカタについても同様である。
神様には民族や氏族や宗教の違いによってさまざまなイメージが投影され、名前は同じだが別神だったり、逆に名前は異なるが同一神だったりする。時代を経て、だんだん元がわからなくなっていくからでもあろう。
「騶牟=タケミカヅチ」も、タケミカヅチのいくつかのイメージの中のひとつとして考えるべきだろう。

騶牟には瑠璃王、沸流、温祚という3人の息子がいたという。
瑠璃王はBC19年に2代目高句麗王即位、温祚はBC18年に百済を建国。沸流は新しい国作りに失敗して死んだとされるが、別伝によれば沸流が百済の始祖だったりして、実ははっきりしない。
しかし私としては「フルノミタマ」に通じる沸流(フル)という名前を見過ごすわけにはいかない。

4 騶牟が辰韓に上陸。赫居世の子・南解王を即位させ傀儡とする。

以前、騶牟は北九州には手を出さなかったと述べたが、伊都国が国防上、騶牟と婚姻関係を結んだということは普通にありうる。騶牟が辰韓にいたときに伊都国から王の娘を娶り、生まれたのがフルだったのではないか。したがって大武神より1世代ほど若く、幼少期を半島で過ごした後、未来の伊都国王(イタケル)として列島に渡ったと思われる。
辰韓から伊都国に製鉄や武器製造の技術者を送り込んだのは騶牟だったのかもしれない。

騶牟は王莽に高句麗への復帰を許され、日本で言う「上皇」のような立場で再び高句麗の実権を握ったようだ。
騶牟が高句麗に戻ると、辰韓では密かにかくまわれていた脱解が南解王の娘婿となり、さらに大輔となって、辰韓の政治を動かすようになった。

8 王莽、漢を滅ぼし新王朝を建てる。

12 騶牟、王莽に殺害される。

14 解氏扶餘の残党が辰韓に上陸。

主君を殺された解氏扶餘が報復のために大陸に攻め込んだが、騶牟の死は、それまでじっとおとなしくしていた辰韓にとっても逆襲に転じる絶好のチャンスだった。脱解は解氏扶餘を返り討ちにし、さらに列島に渡って出雲や丹波の解氏扶餘の残存勢力も平定した。
このとき騶牟の子・フル(イタケル)が動いた様子がないのは、まだ子供だったからだろう。

18 脱解、解氏扶餘を平定した功を王莽に認められ、高句麗王即位(大武神)。

 
■イタケルの国譲り、からの東征

44 後漢光武帝、大武神が占拠する楽浪郡を討つ。

大武神は『後漢書』ではそのまま行方不明とされるが、実際は生まれ故郷の列島に戻り、当時の列島で最大の勢力だった伊都国へ侵入した。
そのときの伊都国王はイタケルで、30代後半ぐらいだったと思われるが、老練な大武神との不毛な争いは避け、父の騶牟も支配できなかったオオクニヌシ系大月氏の国・大和を目指し、大勢の家臣を率いて移動を開始した。つまり大武神に「国譲り」して、大和へ「東征の旅」に出たのだ。『記紀』における「国譲り」や「(神武)東征」は、イタケルの実話もモチーフになっているのである。
また、伊一族の末裔でもあるイタケルは、太陽信仰の祭主として、日立ちの場所、つまり日本列島の最東端を目指すという宗教的な使命感もあった。それがのちの伊勢神宮の創建につながっていく。

当時の大和王はナガスネヒコ(オオモノヌシ)。オオクニヌシの死から60年以上経っているから、その何代目かの子孫だろう。
中国最古の地理書『山海経』に、「西北の海の外、赤水の東に長脛の国がある」とある。
タクラマカン砂漠の北に亀慈、南に崑崙山があり、赤水はその崑崙山から砂漠に流れ出るとあるから、長脛の国はタリム盆地内、大月氏の行動範囲内にあったことになる。ナガスネヒコの名は長脛の国に由来する。
オオクニヌシはその名前からも、またスクナヒコナとの対比によっても大柄なイメージがあるが、ナガスネヒコという名も長身だったことを思わせる。名前に付けられるほど際立った身体的特徴を持つ一族だったようだ。

国生みの神・イザナギが最初に生んだとされる淡路島には、イザナギを祀る伊弉諾神宮がある。
おそらくイザナギは、伊氏の氏神的な存在だろう。天照大神=ヒミコもまた伊氏の一員だから、イザナギの方が天照大神の親(祖先)に当たるわけである。
淡路島が伊氏の聖地とされた理由は不明だが、イタケルが大和に攻め入るときの拠点ではあったのだろう。
結果、ナガスネヒコはイタケルに降伏。イタケルに妹のミカシキヤヒメを与え、ミカシキヤヒメはイタケルの子、ウマシマジを産んだ。

 
■『先代旧事本紀』

イタケルが何歳で死んだのかはわからないが、その死後、ナガスネヒコはウマシマジの伯父として再び実権を握ろうとし、伯父と甥の間で主導権争いが勃発したと見る。
『書紀』ではニギハヤヒがナガスネヒコを殺して神武に降ったとされるが、『先代旧事本紀』では、神武征討のときにニギハヤヒはすでに亡く、ウマシマジがナガスネヒコを殺したことになっているのだ。

『先代旧事本紀』は『旧事紀』ともいい、物部氏の私的な歴史書であると考えられている。
『旧事紀』に書かれている通り、ウマシマジがナガスネヒコを殺したというのが正解だろう。ただしそれは神武東征よりずっと前のことだった。神武軍に降伏したのは、ウマシマジから何代か後の王だったのである。
『魏志倭人伝』に奄美大島時代の女王国が描写されていたように、『記紀』の神武東征の物語には、オオクニヌシ〜ナガスネヒコ〜イタケル(ニギハヤヒ)〜ウマシマジと続いた大和の旧王朝の長い歴史が組み込まれているのだ。

ここから先は、ちょっと駆け足で。

57 大武神、辰韓王と倭王を兼任(漢委奴国王。委奴国=伊都国)。

73 ニニギ族、南九州に上陸。(のちに辰韓、さらに遼東へ。)

80 大武神死去。

146 倭国の大乱始まる。

172 伊都国、江南の巫術者許氏ヒミコを女王に擁立。

倭国の大乱によって伊都国は東西に分裂したと見る。亡命者のヒミコを女王に立てた伊都国は西側。その伊都国の難升米の情報を元に、東側は『魏志倭人伝』に「奴国」として記載されたと推測する。

奄美大島の初代ヒミコは伊氏だから、伊氏が建てた伊都国ほど女王国を復活させるのにふさわしい国はない。
許氏を受け容れるかどうかについては賛否両論あったかもしれないが、許氏ヒミコのカリスマ性が決め手になったのだろう。

197 高句麗、ニニギ族の山上王即位。

227 高句麗、山上王の子・東川王即位。

238 魏、ヒミコを親魏倭王に認定。

247 東川王、毌丘倹に高句麗を追われ、列島に渡ってヒミコを殺害。

248 東川王、東征を開始(神武)。しかしまもなく死去。

264 神武の子・綏靖の神武軍が大和のウマシマジ系一族を降伏させる。

綏靖は、ウマシマジ系一族に旧王朝スタイルの宮中祭祀を続けさせた。
そして伊氏は物部氏と名を変え、神武系王朝の中枢で祭祀や軍事などの重職を担った。
物部神道の祭祀は、もはや新王朝が別の新しい宗教と安易に取り換えられるようなレベルではなかったのだ。このことは重要である。神武系天皇家も、のちの天武系王朝も、日本の天皇の概念は物部神道という基礎の上に構築されることになったのである。

ちなみに「伊氏」と「休氏」が歴史からその名を消されているのは、いずれも大和において天皇家よりも古い大王家だったからだと思う。そして天皇家自身は、姓を持たないという選択肢をチョイスしたのである。
それでも『記紀』は、イタケルが神武系天皇家より古いことを暗示するため、言わば物部氏に忖度してホアカリ(イタケル)をニニギの兄に設定したのだろうと普通は考える。
しかし事実は逆だった。イザナギや天照大神を祖神とする伊氏の家系図に、神武系天皇家が先祖のニニギをホアカリの弟として入れ込んだのだ。天武を天智の弟として入れ込んだ手法と同じである。
逆に言えば、伊氏の歴史をそっくり天皇家の歴史に取り込み、それによって天皇家の祖神も天照大神になったのだ。これが神武もニギハヤヒも同じ「天孫」である理由である。

イタケルの痕跡は淡路、大和、伊勢のほか、出雲、丹波、熊野にも残されている。出雲の熊野大社は熊野三山の元津宮だとする古伝もある。
イタケル自身が諸国を巡っていたのだとすれば、伊都国を出てから大和へ侵入するまでの間か、あるいはウマシマジに譲位し、自由の身になってからのいずれかということになる。
当然、イタケル自身ではなく、その子孫が各地にイタケルを祖先神として祀ったということも考えられる。

なにしろほとんど想像で書くしかなく、中途半端感は否めないが、とりあえず「フル=イタケル=ニギハヤヒ」を論じてみた。あと少しだけ書いて、次回は話を前に進め、「欠史八代王朝」の真実に迫りたいと思う。

 
■フツヌシ


香取神宮

イタケルの本名「フル」に対して、「フツ」とは何だろう。
『書紀』によると、葦原中国の平定に経津主神(フツヌシ)という神が選ばれ、タケミカヅチも名乗り出て、2柱で出発したという話になっている。
タケミカヅチを祀るのが鹿島神宮(茨城県鹿島市)、フツヌシを祀るのが香取神宮(千葉県香取市)である。
『古事記』にはフツヌシは登場せず、タケミカヅチが単独で葦原中国に出発したことになっている。
フツヌシとは、タケミカヅチの布都御魂剣に宿る神霊なのであるらしい。ならば『書紀』はこれに人格を持たせ、1柱として数えたということなのだろうか。

鹿島神宮と香取神宮は、伊勢の内宮と外宮のようにペアとして存在する。
鹿島神宮はタケミカヅチを祀り、香取神宮はタケミカヅチの剣(フツ)を祀るという形になっているわけだが、ことによると「騶牟→沸流(フル)」という父子関係を「タケミカヅチ→フツ」と言い換えているのではなかろうか。
そうすると「フル=フツ」が成り立ち、実は香取神宮は「フツ=フル=イタケル=ニギハヤヒ」を祀っていることになる。

イタケルは「日立ちの国」を目指し、志摩までは到達したのかもしれない。しかし、のちに彼の子孫はもっと東にある常陸(ひたち)の国に到達して、鹿島神宮と香取神宮を建てた。そして騶牟(タケミカヅチ)とフル(イタケル)の父子が祀られたのだと思う。
騶牟は列島では山陰地方でしか活躍していないので、息子のフルが北九州から大和へ東征し、伝説的な大王になったからこそ、鹿島神宮と香取神宮は関東エリアの扶餘族の崇敬を集めることが可能になったのではないかと思う。

 
■籠(この)神社


籠神社

若狭湾は弥生時代にすでに塩の生産とそれを積み出す貿易港として栄えていた。
丹波(当時は丹後を含む)はオオクニヌシの子・タケミナカタが統治していた。その息子が脱解(大武神)である。

京都府宮津市にある丹後国一宮・籠神社は、剣や神宝に宿る神霊などという形でなく、また「フツヌシ」のように「フル」と似た名前の祭神を祀るのでもなく、堂々と彦火明命(ホアカリ)すなわちイタケルを主祭神としている。

籠神社はかつて天照大神を祀っていた元伊勢である。
伊勢神宮(外宮)の祭神である豊受大神もここからダイレクトに伊勢に遷っている。
つまり内宮と外宮の両方の元伊勢というとんでもない神社で、きっとさまざまなドラマがあったに違いない。

籠神社には、現存しないとされる十種神宝の中の「息津(おきつ)鏡」「辺津(へつ)鏡」と同じ名前の鏡が伝わっているという。十種神宝そのものなのかどうかの公式アナウンスはされていない。

奥の院である「真名井神社」は、日ユ同祖論には必ず出てくるスポットである。


籠神社の奥の院・真名井神社


塩土老翁の名前が。

『記紀』において時空を超えて登場する塩土老翁とは、歴代の丹波国王をイメージ化し、神格化したキャラクターだと思う。だから塩土老翁は何人もいたと思われるが、東川王(神武)に娘(「東海の美女」)を献上した塩土老翁が、綏靖の外祖父として、もっともリアリティがあると言えよう。