光 仁

光 仁

 光仁即位

 古代史ファンを自称する人ならば、天武系天皇の時代は称徳で終わり、光仁から天智系天皇が復活したとされていることはご存知だろう。私もそれは疑う余地のない事実だと思っていた。桓武(光仁の子)があれだけの規模の平城京をあっさりと捨てて平安京に遷都したのも、天武系勢力から離れたかったのだろうと。
 ただ、桓武という諡号に天武系を連想させる「武」が付いていることだけがひっかかっていた。

 770年 称徳天皇が崩御。
 藤原百川、永手、良継らが白壁王即位の宣命を作成し、白壁王は62歳にして光仁天皇となる。
 皇后は聖武の娘で、761年に白壁王との間に他戸(おさべ)王を産んだ井上内親王
 771年1月 他戸王立太子。

 しかし、これは金良相山部王、当時35歳)にとっては納得のいかない話だった。
 彼は光仁の長子(737年生まれ。母は武寧王の子孫・高野新笠)であり、光仁即位を軍事的に支えたのも彼だったからである。

 2人のシキ皇子

 光仁の父・志貴皇子について詳しく調べてみよう。
 『続日本紀』には「芝基」「志紀」の表記もあるが、ほぼ「志貴」となっている。
 『万葉集』では「志貴」に統一。
 ところが『日本書紀』のみ、天智の第七皇子として「芝基(施基)」、天武の子(忍壁皇子の弟)として「磯城」という2人のシキ皇子が登場する。

 高市皇子が大津皇子(当時は天皇)から政権を奪取し、朱鳥(あかみとり)と改元した686年。
 『書紀』ではまだ生きていることになっている天武が、皇太子(草壁皇子)・大津皇子・高市皇子にそれぞれ食封400戸、川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ100戸、芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられたとある。
 その後、磯城皇子(天武の子)に関する記述はなく、消息不明になってしまう。

 高市皇子(=持統天皇)の子で、天智の孫にあたる長屋親王は、天武の皇子たちを差し置いて元正を即位させ、これに反対した長皇子、穂積皇子、志貴皇子らは次々と謎の死を遂げた。物部麻呂の兵力によって屋敷を包囲され、暗殺されたと思われる。
 ここに含まれている志貴皇子は、もし天智の子なら高市(=持統)の異母弟で、長屋親王の叔父にあたり、こんな目にあうはずがない。何より、彼は天武系の文武天皇の時代に着々と出世を重ねたという事実がある。
 この志貴皇子は天武の子・磯城皇子だったと考えるのが自然だろう。
 むしろ、天智の第七皇子の芝基(施基)皇子こそ存在しなかったのではないか。

 「天武は天智の同母弟」としたときから正史は建前として天智系を正統としており、天武系はどこかで滅び、天智系が復活したことにしなければならなかった。
 『書紀』は「天智の子・芝基(施基)皇子」を捏造し、光仁の父に仕立てたのだ。
 そして『続日本紀』と『万葉集』は、光仁の本当の父である磯城皇子(天武の子)を抹殺し、志貴皇子(天智の子)と書き換えたのである。
 光仁に「武」を付けなかったのは内外に天智系の復活をアピールするためだったろうが、息子の桓武のときにはあっさりと「武」を復活させた。表向きは、これは「天武」の「武」ではなく、平安京の初代天皇という意味で「神武」にあやかった「武」ですよと。

 もし『書紀』の「天武の子・磯城皇子」の記述が平安時代に消されてしまっていたら、これらの推理は不可能だったろう。表面的な記述は大本営発表でも、ちゃんと真実を推理する手掛かりを残しているのが『書紀』編者のしたたかなところだ。
 本稿では光仁が天武系であることを強調するため、その父を「磯城皇子」と表記する。

  桓武 父:光仁   父父:磯城皇子  父父父:天武   
                     父父母:宍人臣大麻呂の娘    
            父母:紀諸人の娘 
     母:高野新笠

 磯城皇子の母は宍人臣(ししひとのおみ)大麻呂の娘。
 崇峻の家臣に宍人臣雁(かり)という人物がいたが、崇峻は欽明(=百済・聖王)の子なので、雁も百済から派遣された人物だったと思われる。
 磯城皇子の妃、つまり光仁の母である紀諸人の娘も、やはり崇峻の家臣・紀男麻呂(おまろ)の子孫と思われる。
 崇峻の死後、彼らは蘇我馬子の支配する倭国から逃れ、百済に帰国したのだろう。
 天武は宍人臣雁の子孫・大麻呂の娘を後宮に入れ、忍壁皇子と磯城皇子が生まれた。
 そして磯城皇子も、母と同じ百済系の紀諸人の娘を妃とし、白壁王(光仁)が生まれたのだ。

 このように、白壁王は母系が百済系で、その百済は天智の祖国であることから、天智系を日本国王として承認する唐に対しても「天智系」をアピールしたのだろう。
 武寧王という、天智と共通の祖先を持つ高野新笠を妃としたのもその一環だったのではないか(私見では武寧王〜彦人大兄〜武王〜天智)。

 井上母子の死

 771年6月 渤海国使・壱万福ら325人が出羽に上陸。
 772年1月 朝廷は壱万福に従三位を叙位。2月に帰国した。
 壱万福帰国直後の3月、密告により、井上内親王が呪詛による大逆を図ったとして皇后を廃され、5月に他戸親王も皇太子から外された。
 すでに自ら皇后となり、息子も皇太子になっている井上内親王が、それほど先が長くもない光仁を呪詛するなどというリスキーな行為に及ぶとは考えられない。
 やはりこの事件には、325人もの軍勢を率いてきた壱万福が関係していたと考えるべきだろう。

 かつて仲麻呂と同盟関係にあった渤海の大欽茂は、新羅軍を率いて仲麻呂にとどめを刺した金良相(山部王)や、それによって即位した光仁とは敵対関係にあったはずだ。
 ところが、光仁が金良相を裏切ったことで、大欽茂と金良相にとって光仁が共通の敵となった。
 また金良相のバックには、強大な軍事力を持つ中国東北部の土着勢力、朱泚もいた。
 金良相は、親唐政策をとるようになってからの渤海が唐〜日本間のメッセンジャーの役割を担っていたことを利用し、渤海使の壱万福を使って、聖武の娘である皇后と皇太子の廃位を「唐の命令」として日本に伝えさせのかもしれない。唐が聖武(天武系)を嫌っていたのは事実だし、そもそも光仁が「天智系」を装っていたのもそれが理由だ。
 実際に唐が日本の皇后の出自にまでクレームを付けたことはなかったと思うが、下手に逆らうと光仁自身が天武系であることにまで調査が及ぶかもしれないと疑心暗鬼に陥った可能性はある。

 773年1月 光仁は、しぶしぶ山部王を立太子させた。
 10月 井上内親王は難波内親王をも呪詛したとして、他戸王と共に幽閉された。
 774年3月 新羅使者235人が太宰府に到着。またしても藤原清河の書簡を持ってきたという。
 これも金良相の派遣した軍勢で、目的はさらに井上・他戸母子を追いつめることだった。
 4月 井上内親王と他戸王がともに死亡。藤原房前の五男・魚名によって殺されたとする説もある。

 吐 蕃

 774年7月 陸奥国の海沿いに住む蝦夷が桃生(ものう)城を攻撃。
 この後、811年に陸奥按察使だった文室綿麻呂が征夷将軍に任命され、同年、事実上最後の蝦夷征討が行われるまで、朝廷は38年間に及ぶ征夷の時代に突入する。

 蝦夷(えみし)とは朝廷への帰属を拒否する東北地方の異民族のことで、朝廷側の支配に服した場合は俘囚と呼び名が変わる。
 特にこの時代の蝦夷が攻撃的だったのは、前章でも少し触れたが、7世紀初めに史上に現れ、大陸で突厥に代わって猛威を振るっていた遊牧民族の吐蕃(とばん。隋や唐と同じく鮮卑拓抜部の出身とする説もあるが定かではない)が中国東北部から半島や列島に南下していたからである。

 光仁崩御

 778年 この頃、光仁崩御。
 しかし皇太子の山部王はまだ金良相として新羅にあり、すぐに日本国王になれる状態ではなかったため、光仁の喪は伏せられた。
 この年から785年まで、日本を実質的に治めていたのは山部王の同母弟の早良親王。軍事力を担っていたのは大伴家持だった。
 779年 唐の代宗崩御。息子の徳宗が即位した。
 780年 新羅で金良相が内乱を起こし、恵恭王を殺害。
 金良相が即位して宣徳王となり、朱泚と共に、吐蕃の半島から列島への南下を防いだ。

  新羅・宣徳王 = 山部王(のちの桓武)

 781年4月 光仁が病を理由に皇太子の山部王に譲位し、桓武が即位したとある。
 早良親王が皇太弟に、大伴家持が東宮大夫になった。
 12月 光仁崩御が公表される。
 782年 延暦に改元。
 しかし桓武は2年前に宣徳王になったばかりで、しばらくは新羅と日本の国王を兼任していたようだ。
 桓武はこのように国際的に活躍した人物だったからこそ、当時の最新の仏教である密教にもいち早く関心を示し、最澄を留学僧として唐に派遣して密教を学ばせ、比叡山を与えて最高の地位に就けることもできた。東大寺を中心とする旧態依然とした世界の中でのみ生きていた人だったら、そんな大胆なイノベーションは不可能だっただろう。

 大伴家持と『万葉集』

 大伴家持は753年に聖武上皇(新聖武)の命により、橘諸兄と共に『万葉集』の編纂を開始し、自身も数多くの歌を残した歌人。諸兄の死後はこの編纂作業をひとりで行ない、仲麻呂全盛時代の759年に完成させた。
 しかし仲麻呂から道鏡の時代まで朝廷に出仕していた気配はなく、光仁朝で復帰。
 どうやら光仁〜早良親子にのみ忠誠を誓っていた人物のようだ。
 『万葉集』は10世紀初め、紀貫之らによって現在のように全20巻にまとめられたが、そのとき家持による序文が抹消されたと考えられている。
 『日本書紀』『続日本紀』が表向き天智系賛美の正史であるのに対し、『万葉集』は正史に記載されなかった真実が当事者たちによる歌に託されている。その序文にも天武系を正統とする内容が含まれていたと考えられ、醍醐天皇によってカットされたのであろう。

2014/1/3改訂