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平 城

 平城即位と伊予親王母子の死

 桓武の死が公表されぬまま、安殿は日本に定着。
 803年 新羅・哀荘王が反日に転じ、藤原葛野麻呂の遣唐船を妨害すべく、海路を封鎖。
 804年 再び葛野麻呂に節刀。
 この遣唐船に留学生として橘逸勢(はやなり。諸兄の曾孫)と共に最澄空海が乗船していたことは有名だが、新羅沖を通ることができず、航海上危険な南路を採らざるをえなかったため、4隻の船団のうち2隻は遭難したという。
 そんな決死の入唐を果たした葛野麻呂に、徳宗は平城を日本国王として承認する意向を伝えたようだ。
 しかし翌805年1月、徳宗が没し、長子の順宗が即位。
 空海を長安に残し、葛野麻呂らは帰国した。
 9月 順宗、即位して間もなく脳溢血に倒れ、長子の憲宗に譲位。

 このように唐の皇帝がコロコロ変わったことに日本も振り回されたようだが、ともあれ806年3月に桓武崩御が公表され、安殿皇太子が即位して平城天皇となった。
 即位に伴い、賀美能親王が皇太弟に立てられた。
 しかし、平城の母系がアテルイ一族だったこと、父親の桓武を殺していること、その桓武と同じく大陸育ちゆえ日本的な合議制ではなく全てを独断で決めるワンマンな天皇だったことから、平城即位の直後、朝廷の最高責任者だった神王(みわおう。桓武の従兄弟)が亡くなると、さっそく賀美能皇太弟と同い年の大伴親王(藤原旅子の子、のちの淳和天皇)が平城に強く反発。皇族からの離脱を願い出たが、朝廷はこれを拒否した。
 一方、藤原氏を母に持つ桓武皇子の中で最年長ながら、南家ゆえに皇太子に立てられなかった伊予親王は、大宰帥への就任を平城に志願し、承認された。

  伊予親王     父:桓武
           母:藤原吉子  母父:藤原是公 母父父:藤原乙麻呂(南家)

  賀美能親王(嵯峨)父:桓武
           母:藤原乙牟漏 母父:藤原良継 母父父:藤原宇合(式家)

  大伴親王(淳和) 父:桓武
           母:藤原旅子  母父:藤原百川 母父父:藤原宇合(式家)

 806年10月 憲宗の使者と共に、空海と橘逸勢が帰国。
 憲宗は祖父の遺志どおり、平城即位祝賀の唐使を派遣したようだ。
 ところが大宰帥として唐使を出迎えた伊予親王は、桓武の喪中を理由に彼らを太宰府に留め置いて上京を許さず、唐使は仕方なく九州の香椎宮に奉幣して帰国した。言わば門前払いを食わされたのである。
 このことはすぐに平城の耳に入ったはずだが、「平城降ろし」は藤原氏の総意だったので誰も動こうとせず、アテルイという軍事力を持たない平城自身もどうすることもできなかった。
 このとき観世音寺に滞在していた空海は、詳しくは次章で述べるが、帰国した806年、密かに上京し、平城に曼荼羅や経などを奉献していたようだ。
 そして809年に山城国の高雄山寺、811年には乙訓寺へ移った。

 平城が嵯峨に譲位した直接の理由は、唐使を門前払いしたことで憲宗の信頼を失い、唐から退位を言い渡されたからだろう。
 その事件から1年もたった807年10月、伊予親王の謀反計画が右大臣の藤原内麻呂に密告され、翌11月に伊予親王母子を川原寺に幽閉、母子は自死した。
 内麻呂は、自分の息がかかった賀美能親王の即位を画策していた。
 どうやら、言葉巧みに伊予親王をそそのかして太宰府に送り込み、唐使を上京させなかったのも内麻呂だったのだろう。結果的に、平城、伊予親王を2人まとめて排除することにまんまと成功したわけである。
 嵯峨とその次の淳和の母系は共に式家だが、百川の死後はこの内麻呂(北家・房前の孫)が藤原氏のトップになり、のちの北家繁栄の礎を築いた。