允 恭

 
■ここまでのまとめ

今回は允恭だが、『書紀』はまだ仁徳さえ即位していない菟道稚郎子時代の412年を允恭の即位年としている。
その理由について考えるにあたり、ここまでの復習を兼ね、今にして思うことも少し書き加えながら、412〜439年を振り返ってみよう。

412 新羅の実聖尼師今、奈勿尼師今の王子・卜好(ぼくこう)を人質として高句麗に送る。

高句麗の広開土王は北燕の馮跋との衝突を回避すべく、南平壌というエリア限定で高句麗王家を存続させることを条件に、高句麗領を北燕に明け渡した。そして卜好を高句麗王代行に立て、長男のを太子として南平壌に残し、土王自身は倭国に拠点を移す準備段階に入った。
卜好はのちの新羅王訥祇だが、『書紀』がこの年を允恭即位としているのは、訥祇と允恭が同一人物であることを暗示しているようである。允恭は仁徳の子ではなかったのだ。しかし天皇系譜に加える意味のある人物であり、加える以上は仁徳の子とせざるをえなかったというわけである。

  

413 東晋、土王を倭国王として承認(倭王讃)。
414 土王、百済腆支王を追放し、久爾辛王即位。
416 土王、淡路島に拠点を置く。
417 菟道稚郎子自殺。
   土王、卜好に命じて新羅の実聖尼師今を殺害。卜好はそのまま即位して訥祇麻立干となる。
419 土王、難波の大隅宮で倭王として即位(仁徳)。
420 東晋の家臣の劉裕、東晋を滅ぼしを建国。
421 仁徳、宋の建国を祝賀するために阿知使主を派遣。このとき馮跋が建康への道案内を務めた。
424 宋、北燕の馮跋を「高句麗王」に任じる。
425 仁徳、宋に二度目の送使。宋に倭王讃として承認されるが、仁徳自身はその前に高璉に殺される。

仁徳は自称高句麗王と倭王を兼任したまま死んだので、土王から興を預かる形で高句麗王代行を務めたこともある訥祇は、本来なら興の高句麗王就任を宋に報告し、承認してもらうべき立場だった。しかし宋は前年、すでに馮跋を高句麗王に任じていた。
「燕王」ではなく、あえて「高句麗王」としてもらったのは馮跋側のリクエストだったのかもしれない。
馮跋と仁徳は友好関係にはあったが、馮跋の本音は、仁徳が死んだら南平壌の高句麗も消滅する形にしておきたかったのではないか。それが思いがけず、わずか1年後に現実となったのである。
424年以降、訥祇は高句麗と称して宋に何度も送使している。すでに馮跋が高句麗王に決まっているのになぜ無駄なことをしているのかと疑問だったが、これはまさに宋が北燕と高句麗を混同していることに対する異議申し立てだったのではないか。馮跋はあくまでも北燕王であって、高句麗王は自分もしくは興であると言いたかったのではないか。

427 腆支王、仁徳の子・住吉仲皇子を殺害。
   腆支王、百済に毗有王を即位させる。正体は仁徳の子・大草香皇子。
429 腆支王、倭王即位(履中)。
430 馮跋死去。弟の馮弘が北燕王即位。
432 北魏、北燕を攻め高句麗領と人民を略奪。
   履中崩御。息子の市辺押磐が倭王を継ぐ。一方、宋は仁徳の子・反正倭王珍として承認。
435 宋、馮弘を「燕王」に任じる。(北燕は高句麗領を失ったので、馮跋のように「高句麗王」ではなくなった。)
   北魏、高璉を高句麗王に立て、高句麗を国として復活させる。
438 高璉、馮弘を殺害(北燕滅亡)。
   宋、訥祇を倭の王族と見なして倭隋と命名し、平西将軍(主に新羅の軍事権を行使)に任命。
   反正崩御。
439 宋、高璉を高句麗王として承認。

反正崩御後、倭国は宋が承認する倭国王が5年間(438〜443)不在となった。
国内的には市辺押磐が倭王だったが、列島生まれで国際情勢には疎かったのか、宋に朝貢するという発想はなかったらしい。
私見では市辺押磐の叔父である高璉も、甥っ子のために国際的に働きかけるということはしなかった。なぜなら市辺押磐以外に意中の人物がいたからだ。それはなんと仁徳の長男のである。

 
■訥祇、倭王済(允恭)となる

440
・「倭人」が南と東から2回わたって新羅の辺境に侵入してきた。(『新羅本紀』)

高璉は日本海ルートで列島に上陸し、列島の劉氏系(残存する応神系)勢力を結集した軍勢を率いて列島から新羅を攻撃した。これなら高句麗から攻めるより、訥祇を平西将軍に任じている宋に気付かれにくいという利点もあった。

・訥祇、宋に送使。
・宋、倭隋(訥祇)を安東将軍と倭国王(倭王済)に任じる。

訥祇は高句麗と称して宋に送使しても相手にされず、反正の宋への送使に便乗してようやく倭隋という名で平西将軍の称号を得ていた。平西将軍とは新羅の軍事権を有する者であって、新羅王ではない。
つまり訥祇は一度も高句麗王としても新羅王としても承認されたことがなかったのだが、反正の死後はそのことがプラスに作用し、珍(反正)と同じ安東将軍と倭国王に任じられたのだ。履中が百済王だったという理由で倭王として承認されなかったのとは対称的である。
宋の前身は東晋だから、伝統的に劉氏系(応神系)よりも慕容氏系(仁徳系)を重んじていたということもあろう。

  卜好 = 訥祇(倭隋) = 允恭(倭王済)

『記紀』は倭王済を允恭天皇としているが、その軸足はほとんど新羅に置かれていて、435年から没年とされる453年までの18年間、『書紀』には允恭に関する記載がない。同じように高璉も440年から450年までの10年間『高句麗本紀』に出てこない。両者は新羅を舞台に激しく戦っていたのである。

444
・倭人、金城(新羅の王城)を10日間包囲。(『新羅本紀』)

この「倭人」も高璉の軍だが、新羅は王城が包囲されるまでに追い込まれていた。
しかし倭人の軍が食料が尽きて撤退するところを訥祇が自ら追撃したという。
その後も新羅を攻めあぐねた高璉は、ついに切り札を投入した。

 
■興、倭王興(安康)となる

451
・高句麗王の高璉、宋に朝貢。
・宋、済(允恭)の倭国王を取り消し、興を倭国王として承認(倭王興)。

高璉は、仁徳の実子である興を倭国王として承認することを宋に要求した。高句麗の軍事力をアテにしている宋はこれを受け容れざるをえず、一度は承認した済(允恭)の倭国王を取り消した。済は「倭隋」に逆戻りしたのである。
宋の決定に対する異議申し立てというのは、かつて馮跋の高句麗王の件で、ほかならぬ訥祇がやったことである。それは無視されたのに、自分がようやく承認された倭王就任はあっさり反故にされてしまったのだから、これはもう気の毒としか言いようがない。それだけ新羅が国として低く扱われていたということなのだろう。

高璉が興のために倭国王の称号を宋から取り付けたのは、訥祇を国際的に孤立させるためであると同時に、本来なら土王の太子である興が継ぐべき高句麗王の地位に自分が就いてしまったので、興をせめて倭王讃(仁徳)の後継者とし、2人で半島〜列島を制覇しようとしたのだ。倭王興は、のちに安康として即位する。

  倭の五王 讃:仁徳
       珍:反正
       済:允恭 (=倭隋:新羅王訥祇)
       興:安康
       武:武烈

馮丕、高璉、そして興の三者には強い連帯意識があったのだと思う。
高璉は土王に自殺に追い込まれた菟道稚郎子の子(私見)であり、興はその高璉に殺された仁徳(土王)の子である。仇討ちの連鎖が興で止まったのは、彼は幼い自分を高句麗に置き去りにして倭王になった父に関してほとんど記憶がなかったとも考えられ、高璉を父の仇として恨むより、武人として尊敬する念の方が上回っていたのではないか。
高璉自身も、馮丕の引き立てがなければ高句麗王にはなれなかったことを認識し、今度は自分が興を倭国王にしてやるべきだと思ったのだろう。馮丕も興をかわいがっていたと思われるので、馮丕への恩返しにもなる。

一方、訥祇は土王(仁徳)から信頼され、興が高句麗王を継ぐまでの中継ぎ的な役割を任じられていたが、結局、訥祇自身はそこまで土王と興の父子に忠誠を尽くす義理がある立場の人間ではなかったということだ。それはおそらく興にも見抜かれていただろうし、興は「土王の太子」という自身の肩書きにも空虚さを感じ、訥祇が新羅に去ってからは、馮丕や高璉のようなナチュラルに「強い男」に傾倒していったのではないかと思う。
仁徳の死後、訥祇と興が敵対関係になるのは必然だったのかもしれない。

高璉は、ついに高句麗の新羅侵攻に対しても宋から承認を得たようで、史料からは新羅を攻めていた「倭人」が消え、「高句麗」に変わっている。「倭人」の後に隠れることなく、堂々と高句麗王の高璉として新羅を攻めるようになったのである。

・倭隋(允恭)、宋に二度目の送使。

宋は倭隋を加使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓慕韓・六国諸軍事、安東将軍に叙したとある。
秦韓は辰韓と混同されがちだが、すでに任那と加羅が出ているので辰韓とは考えにくい。
ここには百済がないから、帯方郡を含めた百済地方の苻氏系勢力を秦韓、慕容氏系勢力を慕韓としているようだ。
要するに、半島南部と倭国の軍事権は認められたわけだが、「倭国王」はたしかに抹消されている。

・北魏の太武帝、宦官に殺される。翌年、太武帝の孫の高宗文成が即位。

北魏は国として安定すると、たちまち宮廷内で陰湿な陰謀が横行するようになった。

453
・允恭崩御。(『書紀』)

『書紀』によると、允恭が没した時、新羅は驚き悲しんで貢ぎの船80般や楽人を連れて対馬に来て大いに哭泣し、筑紫に着くと再び哭泣したという。さらに難波に来てからは素服(喪服)に着替えて葬礼の列を整え、京(場所不明)まで舞い踊ったり、哭泣したりしながら殯宮に詣でたという。このような大掛かりな新羅人による葬儀も、允恭が新羅王訥祇としてほとんど新羅にいたからこそであろう。
しかし『新羅本紀』には「秋七月に狼の群れが始林(直都慶州を指す)に入った」とある。
狼は犬戎を意味し、訥祇が新羅に多くの倭兵(おそらく仁徳派)を連れてきたことを暗示している。
允恭の葬儀の描写は、のちに実際に訥祇が死んだときの新羅の様子が挿入されているのではないか。

とにかく、453年の段階では訥祇はまだ死んではおらず、高璉との戦いは終わってはいなかったのである。