吐火羅と舎衛


『日本書紀』には聞いたこともないような名前の国が登場する。
たとえば、吐火羅(とから)と舎衛(しゃえ)。
講談社学術文庫『日本書紀(下)』の注釈には、次のように書かれている。

 吐火羅「タイ国のメコン河下流にあったドヴァラヴァティ王国と考えられ」

 舎 衛「ガンジス河中流のシュラーヴァスティか」

いずれの書き方も断定的ではなく、推測の域を出るものではない以上、ここもトンデモが介入する余地は十分にありそうだ(笑)。

『書紀』における、吐火羅と舎衛の主な登場シーンをピックアップしておこう。

(1)孝徳天皇の白雉5年(654年)4月、吐火羅国の男2人、女2人、舎衛の女1人、風に会って日向に漂着した。

(2)斉明天皇の3年(657年)7月、都貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着。
「私どもははじめ奄美の島に漂着しました」と言った。
朝廷は駅馬を使って彼らを都に迎え、飛鳥寺の西に須弥山(しゅみせん)を象ったものを作り、盂蘭盆会(うらぼんえ)を行ない、饗を賜った。

(3)同5年(659年)3月1日、斉明は吉野で大宴会を催し、3日、近江へ移動。
10日、吐火羅の人が妻の舎衛の婦人と共にやってきた。

(4)同6年(660年)7月、都貨羅人乾豆波斯達阿は帰国を申し出た。
「のち再び日本に来てお仕えしたい。そのしるしに妻を残して参ります」と言い、西海の帰途についた。

(5)天武天皇の4年(675年)元日、大学寮の諸学生・陰陽寮(おんみょうのつかさ)・外薬寮(とのくすりのつかさ)および舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇にたてまつった。

 
(1)と(2)を比べてみると、最初は男2・女3だったが、3年後には男2・女4になっている。
両者は別のグループかもしれないが、同じグループだったとすると途中で女が1人増えたことになる。
同じグループだった場合、日向(宮崎県)に漂着してから次に筑紫に漂着するまでの3年3ヵ月もの間、いったいどこでどうしていたのかが疑問だ。
「はじめ奄美の島に漂着しました」と言っているが、奄美で3年も暮らしていたのか?

駅馬を使って彼らを都に迎え、飛鳥寺の西に須弥山を象ったものを作り、盂蘭盆会を行ない、饗を賜ったとあるように、朝廷による彼らのもてなしぶりが尋常ではないことも不思議。

(3)〜(5)より、吐火羅人の男の中に乾豆波斯達阿という者があり、舎衛の女はその妻で、男は660年に妻を残して帰国したという。
675年、天武天皇に捧げ物をした人たちの中に「舎衛の女」がいるが、乾豆波斯達阿が残していった妻のことだろうか。

(2)の、須弥山と盂蘭盆会について。

奈良時代が仏教の力で国民を統治する時代だったことは、奈良の大仏の規模を見ても明らかであろう。
そんな時代に、正史として、しかも日本国の建国宣言書として書かれたのが『日本書紀』だから、幻の初代天皇である厩戸皇子にも「日本仏教の祖」みたいなポジションが与えられているのだと私は考えている。
しかし、本当に聖徳太子や斉明の時代から仏教がそんなに強かったと信じる必要はないのだ。

須弥山も、一般に仏教の概念とされ、いま上野に来ている阿修羅もその近くに住んでいたという。
しかし、須弥山をサンスクリットでは「スメール」と発音し、シュメールとの類似が指摘されている。
シュメール神話に登場する最高神が「アンシャル」(=アシュラ)というのもできすぎた話だ。

推古天皇の20年(612年)、天皇が路子工(みちのこのたくみ)という渡来人に、御所の庭に須弥山と呉橋を築かせたという記事がある。
私の考えでは、当時のヤマトの大王は推古ではなく聖徳太子(ペルシア出身)である。
(ぼちぼちトンデモが始まってまっせ!)
この書紀の記述は、太子がペルシアから大勢の技術者を招き、土木工事や造園の技術を持ち込んだという話であろう。

盂蘭盆会も、もともと仏教ではなく、祖霊を迎え入れて祀るゾロアスター教の行事がインドに伝えられたのが起源だとする説がある。

推古が天皇でなかったならば、大和朝廷の最初の女王は斉明だったことになる。
彼女が過去に前例のない女王になれたのは、聖徳太子の娘だったからだと私は考えている。
実際、斉明天皇には拝火教(ゾロアスター教)の信者だった形跡があるという。

したがって、ときの女王に手厚くもてなされた「吐火羅人」のグループも、単なる漂流者ではありえず、聖徳太子や斉明と同じペルシア系の、非常に身分の高い人たちだったと考えられるのだ。
 
ササン朝ペルシアは、長年にわたってエフタルの侵攻に苦しめられていたが、ホスロー1世(在位531〜579)のとき、突厥と同盟関係を結び、突厥と共にエフタルを挟撃する作戦で、567年、ついにエフタルを滅ぼした。
たしかホルムズド4世(在位579〜590)の母か、あるいはその息子のホスロー2世(在位590〜628)の母が突厥王女だったはずだ。(詳しい人、フォローしてクダサイ(^^;)。)
突厥可汗シルジブロスの娘のササン家への嫁入りは、両国の同盟の証であろう。

一方、シルジブロスの後継者になるのが、小林惠子氏が聖徳太子の正体であると論じている達頭(タルドウ)可汗である。
達頭はシルジブロスの娘婿だったらしいので、シルジブロスには少なくとも娘が2人いて、姉はササン家に嫁ぎ、妹は父の元に留まって達頭を婿に取ったことになる。

この達頭の出自に関しては記録がないそうだが、私はホルムズド4世の兄弟、つまりホスロー1世の王子だったと推測する。
シルジブロスの娘がホスロー1世に嫁ぎ、そのかわり、ホスロー1世の息子で、シルジブロスの後継者たりうる軍事的センスの高い人物が、その妹に婿入りしたわけだ。
これらの婚姻外交はいずれにしても突厥側に有利なもので、どうやらササン朝ペルシアよりも突厥の方が強い立場にあったようだ。逆に言えば、ササン朝ペルシアがもっとも敵に回したくない相手が突厥であり、気を使う必要があったのだろう。

のちに西突厥可汗となった達頭は、隋と幾度か交戦し、最後は行方不明となって史上から姿を消す。
戦死したのなら戦死したと書かれているはずなので、彼は連合国だった高句麗を後ろ盾に、百済及び日本列島に進駐し、百済では法王、ヤマトでは上宮法王(対外的にはアラビトガミを意味する天照日子(アマテラスヒコ→アメノタリシヒコ))と呼ばれることになる人物へと変貌した可能性は高い。

法隆寺夢殿の救世観音は聖徳太子の等身仏と言われ、頭部の宝冠のデザインはホスロー2世の宝冠とそっくりであるという(小林惠子)。
聖徳太子が倭王だったと考えられる期間(604〜622頃)は、ホスロー2世の在位期間(590〜628)にすっぽりとおさまっている。616年に東ローマ帝国からシリア・エジプトを奪うなど、ちょうどホスロー2世の全盛時代だった。
聖徳太子がホスロー1世の子なら、ホスロー2世とは叔父・甥の関係にあたる。
正倉院のペルシア製ガラス器も、王室が所有するクラスの名品なので、ホスロー2世から贈られたものかもしれない。

太子はのちに遣隋使の派遣という、高句麗に対する裏切り行為を働いているが、結果的に、隋は対高句麗戦でのダメージが原因で、618年に唐に滅ぼされてしまう。
しかし翌619年、高句麗も嬰陽王の死と共に勢いを失い、唐の意のままになる栄留王が即位する。
太子には「騎馬民族の大王」と「宗教的カリスマ」という極端な2面性がある。
しかしどちらかと言えば彼の本質は、もともと神官の家系だったというササン家の王子の方にあったのかもしれない。
高句麗との連合関係を自ら破棄した太子の目的は、極東にまで突厥の版図を拡げるというよりも、ホスロー2世と連携し、日本列島に「第2ペルシア帝国」を建設することにあったのではないか。

唐とササン朝ペルシアは、お互いに騎馬民族の侵攻に手を焼く者同士、「敵の敵は味方」の論理で、それほど仲は悪くなかったようだ。
唐が、聖徳太子の娘とおぼしき斉明の即位を認め、それ以降も、蓋蘇文の天武系ではなく、斉明の血筋である天智系を承認し続けたのも、それがペルシアの王統ゆえに尊重されたのかもしれない。
唐にとっても、倭国が「突厥化」あるいは「高句麗化」するよりは、「ペルシア化」する方がずっとマシだったはずだから。

達頭がシルジブロスのあとをついで可汗になったのは、575年のこと。
聖徳太子=達頭ならば、日本書紀は太子の年齢について20歳ぐらいサバを読んでいることになる。

太子は父の父が欽明天皇、母の父も欽明天皇という近親婚の子とされ、叔母の推古天皇を摂政として補佐していたことになっている。
書紀の厩戸皇子関連の記事は、太子の子孫で、藤原氏に殺された長屋王の祟りを怖れた光明皇后によって加筆されたというのが私の仮説である。太子を厩戸皇子なる日本史上最高の聖者として描き、そこに長屋王(父の父は天智、母の父も天智)を投影したわけだ。

もうひとつ、太子には「用明の子」とすべき理由があった。
「聖王〜威徳王〜恵王〜法王〜武王」という百済王の系譜と、書紀の「欽明〜敏達〜用明〜厩戸皇子〜舒明」を対応させるためである。
大王は、必ずしも父から子、あるいは兄から弟へと年齢順に即位したわけではなく、政変によって前王よりも年長の王(しかも赤の他人)が新たに即位するケースもある。
万世一系をタテマエとする正史はそのような史実をあからさまに記録するわけにいかないので、王の年齢に手を加えたり、天武のように年齢を記載しなかったりするわけだ。
厩戸皇子は即位しなかったことになってはいるものの、用明の子で、推古の甥っ子という設定上、574年頃生まれたことにしなければならなかったのである。

ところで、小林惠子氏によると、ホスロー1世とシルジブロスの娘との間に生まれたのがホルムズド4世であるらしい。
達頭は550年代生まれと推定され、ササン朝が突厥と同盟を結んだのもその頃なので、ホルムズド4世と同様、達頭もホスロー1世とシルジブロスの娘との間に生まれた可能性がある。
その場合、達頭はホスロー1世の子であると同時にシルジブロスの孫にあたり、突厥に戻って、母の妹、つまり叔母さんに婿入りしたことになる。
(このような近親婚は騎馬民族においては珍しいことではなく、ペルシアにおいてもゾロアスター教は近親婚をむしろ尊んでいる。)

日本に上陸した達頭は、赤の他人である推古に婿入りしたというのが事実だと思う。
それはあくまでも達頭が倭王(アメノタリシヒコ)として君臨するためであり、推古は王妃だったのだ。推古が554年生まれなら、両者は同世代だったことになろう。
用明と推古がたしかに兄妹ならば、推古が聖徳太子の叔母という設定は必然的にそうならざるをえない話だが、かつて達頭が「叔母に婿入り」して西突厥可汗になった事実があったとすれば、まるで日本書紀はそのこと、つまり「厩戸皇子=達頭」を暗示しているかのように読めるところがおもしろい。(そんな読み方をするのは私1人かもしれないが。)
 
ササン朝ペルシアはアラブ軍に侵攻され、651年、最後の大王ヤズデゲルド三世の死とともに崩壊した。
大王の息子・ペーローズは現アフガニスタン北部にあたるトハラ(トハリスターン。中国では吐火羅(トカラ)という)に逃れたらしく、唐に援軍を要請するが、唐も突厥との戦いで余裕がなく、654年、トハラ軍が駆り出されたという。

この654年という年は、吐火羅国の男2人、女2人、舎衛の女1人、風に会って日向に漂着したとされる年である。
吐火羅とは、ドヴァラヴァティ王国ではなく、トハラのことだろう。
トハラ軍出兵もさほどの戦果はなかったようで、行き場を失ったペーローズが向かう先といえば、極東の「第二ペルシア王国」すなわち日本列島しかなかったはずだ。
5人はこの年に「日向」、つまり「日本に向かい」、3年後の657年に筑紫に漂着したのである。

男の1人は乾豆波斯達阿といい、女の1人はその妻で「舎衛の婦人」である。
『ペルシア文化渡来考』の著者・伊藤義教氏によれば、「達阿」は「ダーラーイ」で、アケメネス朝のダレイオスにちなんで王統を表す名前。「乾豆波斯達阿」は「トハラのクンドゥスから来たペルシア人の王」の意味であるという。
小林惠子氏は、乾豆波斯達阿をペーローズその人であると論じている。

一方、「舎衛」は国名(シュラーヴァスティ)ではなく、伊藤氏によれば、中世ペルシア語で王を意味する「シャーフ」からくるという。
つまり「舎衛の女」とは「王妃」を意味し、ペーローズの妻のことなのだ。

660年、唐は百済を滅ぼす(白村江の戦い(663)の発端)。
斉明はその前年、近江に避難し、乾豆波斯達阿(ペーローズ)もそれに従っていた。
ササン朝の再興のためには唐の力が不可欠であるペーローズは、そのまま倭国に留まって唐との戦いに突入するわけにもいかず、妻と娘を人質として倭国に残して唐に渡り、661年、長安に至った。

675年、「舎衛の女」と「堕羅の女」が天武天皇に捧げ物をしている。
吐火羅人グループが漂着したときに女が1人増えていたのは、654〜657年の間に、ペーローズと妻の間に女の子が生まれたことを示している。
「堕羅の女」は「ダーラーイの娘」、つまりペーローズの娘で、天武に捧げ物をしたときは数え年19〜22になっていた。

小林氏は、このペーローズの娘こそ、処刑された大津皇子に殉死した山辺皇女だという。
書紀では、山辺皇女は天智天皇と蘇我赤兄の娘・常陸娘の間に生まれたとされる。
彼女は大津皇子と草壁皇子の両方から求婚され、大津皇子を選んだふしがあるという。
天智や赤兄に庇護され、大津京で育ったとすれば、たしかに大津とは幼なじみだったはずだ。
大津が謀反の罪で処刑される際、髪を振り乱し、はだしで駆け出して殉死し、人々の涙を誘ったとあるが(書紀)、当時、大津は即位して天武の次の天皇になっていたと思われるので、山辺は皇后だったことになる。
たしかに、彼女が聖徳太子や斉明のルーツであるササン朝ペルシアからの亡命王女だったとすれば、大津と草壁の両方から求婚されたことも、また、大津なしではとても生きていけない天涯孤独な身の上だったことも説明がつく。