垂 仁


■慕容皝、丹波を征服

劉曜が倭国から去ると、たちまち九州を除いて、慕容氏が倭国を支配することになった。

317
慕容皝、衆を率いて征討する。(『載紀』)

慕容廆の長子は翰、正妻の子とされるのが皝、仁、昭。皝が正式な後継ぎである。
いったいどこを征討したのか書かれていないが、高句麗と連合関係にある丹波王国を降伏させるために来倭したのだ。
丹波道主や懿徳(西川王)はすでになく、丹波道主の子・狭穂彦の代になっていた。
皝の片腕になったのは、298年に父の儒礼尼師今を劉曜に殺され、315年に倭国に亡命し、劉氏側の吉備津彦を倒した辰韓王子・アメノヒボコだった。
皝はアメノヒボコを丹波王国の新城の近く、但馬の出石(いずし)に住まわせた。

皝、新城を攻撃。
狹穂彦は皝に妹の狹穂姫を差し出して降伏し、皝は新しい丹波の国王として但馬に4年間留まったようだ。
狹穂姫は皝の子・ホムツワケを産んだ。
狹穂彦は、こっそり妹の狭穂姫に短剣を渡し、皝の暗殺を命じた。
これがバレて、皝はただちにアメノヒボコ軍勢を狭穂彦討伐に出陣させた。
狭穂彦は稲城に籠城した。
狹穂姫もホムツワケを抱いて稲城に入り、皝の再三の呼びかけにも応じなかった。
ついに皝が稲城に火を着けさせたとき、狭穂姫が子供を抱いて出てきた。
「私が兄の稲城に入ったのは私と子供に免じて兄の罪が許されるかと思ったからです。今、免れないと知りました。私に罪があります。でも私は捕らわれるくらいなら死にます。天皇の恩愛は忘れはしません。私が死んだら妹たち(丹波道主の5人の娘)を後宮に納めてください」
そう言って子供を包囲軍に渡し、自分は救助の手を振り切って稲城に戻り、兄の狭穂彦と運命を共にした。

もちろん『書紀』では皝ではなく「垂仁」だが、ホムツワケは母を父に焼き殺された運命の子として倭国で生まれたのである。そしてホムツワケという名では二度と登場しない。

  慕容皝 = 垂仁

  ホムツワケ 父:慕容皝 父父:慕容廆
        母:狹穂姫 母父:丹波道主 母父父:彦坐王

彦坐王は『古事記』では日子坐王と表記。崇神に丹波に派遣されたとあり、『書紀』の丹波道主と混同されている。
『書紀』では彦坐王は丹波道主の父、そして景行の曽祖父とされている。
上の血統表では、彦坐王がホムツワケの曽祖父でもある点に注目してほしい。

 
■慕容仁は大彦命の孫

318
・西晋の皇族だった司馬睿(えい)、皇帝に即位し(元帝)、建康(南京)に晋を再興(東晋)。
・慕容廆の息子の、鮮卑の宇文氏・段氏・高句麗の三国連合と戦い勝利。

東晋が建国すると、慕容廆はその勢力を東北アジアに向けてきた。
高句麗の美川王(西川王の孫)とは一応和解し、翰・仁は遼東を支配。

皝の同母弟とされている仁だが、これがどうもアヤシイのだ。兄の皝よりも異母兄の翰と行動を共にしているし、のちに燕国主になった皝を殺そうとしてクーデターも起こしている。
『書紀』に、垂仁の母親は大彦命の娘のミマキヒメ(御間城姫)とある。
大彦命は廆と主従関係を結ぶにあたって娘を差し出し、廆とミマキヒメの間に生まれたのが仁だったと推定される。仁はある程度の年齢までは列島で育ったのだ。

  慕容仁 父:慕容廆
      母:ミマキヒメ 母父:大彦命

垂仁のモデルは2人いた。狹穂彦らを焼き殺した慕容皝と、垂仁の「仁」にその名を残す列島生まれの慕容仁である。
仁はのちに遼東から倭国を間接的に支配することになる。

 
■劉曜、「漢」を「趙」に変更

318
・漢の劉聡死去、劉曜即位。国名をと改める。

漢という国名にこだわらないあたり、やはり劉曜は本当の劉氏ではなかったのだ。
趙という国名は、戦国時代に趙襄子(無恤)が建てた国が趙だったことにちなむ。趙襄子が滅ぼした国も「晋」だったのである。
すでに書いたように、高句麗の大武神に同じ無恤の名があるのは、趙襄子が晋を簒奪して趙、代2国の王になったように、大武神も高句麗、伊都国、辰韓という複数の国の王になったことを暗示している。

319
・趙の将軍・石勒、独立して後趙を建国。

石勒はもともと姓がない羯族の出身で、勝手に石氏を名乗っていたようだ。ちなみに父の姓は周だったという。
奴隷の身分から趙の将軍にまで出世したが、劉曜と対立し、319年に趙から独立して後趙を建国した。
美川王の即位には列島にあった懿徳(西川王)の後押しもあっただろう。
前回述べたように、石勒の娘は300年に即位した高句麗・美川王の妃である。
石勒は274年生まれらしい。300年には26歳の若さで、もう娘が美川王に嫁いでいたことになる。まあ、当時ならありうることなのかもしれない。

 
■ツヌガアラシトの正体は美川王

320
ツヌガアラシト、敦賀に上陸。

『書紀』の垂仁条に、崇神の世の話として、額に角のある人が穴門(山口県豊浦郡)に着いて大加羅国の王子ツヌガアラシトを名乗り、日本の国に聖王がいると聞いてやって来たと言った。しかしその国のイツツヒコに「自分の他に2人の王はいない」と言われ、その後道に迷いながら越の国の笥飯(けひ)の浦に着いた。そこを名付けて角鹿(つぬが、現在の敦賀)という。
しかしその間に崇神は崩御。垂仁に仕えて3年経ち、帰国を申し出ると、垂仁は「お前の本国の名を御間城天皇(崇神)の御名をとって「任那」と改めよ」と言い、赤絹を持たせて帰国させたという。

高句麗の美川王は320年から10年間、辰韓の訖解尼師今もほぼ同じ期間、所在が不明である。
両者は共に劉氏派で、美川王は318年に慕容翰・仁と戦って敗れている。
列島に残る劉氏派をたよって亡命したこの2人がツヌガアラシトに投影されていると見る。

  ツヌガアラシト = 高句麗・美川王 & 辰韓・訖解尼師今

大加羅国とは固有名詞ではなく、加羅諸国を代表する国というような意味で、文脈によって金官国だったり任那だったりするようだ。
劉淵の半島における本拠地が任那だった。その劉淵の誕生伝説に頭に2本の角を持つ大魚が登場する。

美川王が訖解尼師今と行動を共にしていたかどうかは不明だが、美川王が列島に上陸しようとしたところ、北九州〜山口は同じ劉氏派のイツツヒコが治めていたので、敦賀から上陸したという話だろう。
イツツヒコはおそらくイサセリヒコ(吉備津彦)と同族、つまり伊氏(九州の物部氏)だと思われる。

美川王は西川王の孫に当たることもあり、大和の王朝(いわゆる欠史八代王朝)がこれを迎え、特に慕容氏勢力に楯突くこともなく暮らしたようだ。懿徳(西川王)の次の孝昭天皇は、劉氏系を表わす「孝」が付くから、劉氏派だった美川王のことであろう。

  孝昭天皇 = 美川王

孝昭のあとも孝安、孝霊、孝元と続くので、東川王系の血筋が継承されたようだ。慕容氏は欠史八代王朝に対しては一貫して寛容だったようである。

一方の訖解尼師今は、垂仁(皝)が「お前の本国の名を、御間城天皇の御名をとって「任那」と改めよ」と言い、赤絹を持たせ帰国させた相手である。
つまり、訖解尼師今も辰韓への復帰を認められたのだ。

321
・慕容皝、倭国を去る。

東晋が慕容廆を遼東公に冊封。その後継ぎに指名された皝が、遼東に帰っていった。
その後の倭国は遼東の平郭にいた仁が間接統治していたらしい。

 
■劉氏の滅亡

329
・後趙の石勒、劉曜とその息子を殺害し、前趙を滅ぼす。

319年に石勒が趙から独立して後趙を建国しているので、もともとの趙を「前趙」と言う。
304年の劉氏の漢の建国から25年、劉氏の天下は三代(劉淵〜劉聡〜劉曜)で終わってしまったのである。

330
・美川王、後趙に朝貢。

このときの美川王はすでに倭王の孝昭である。石勒とは親戚でもあり、共に反慕容氏だった。

 
■慕容仁の死

333
・慕容廆、65歳で病没。皝が遼東公を継ぐ。

慕容廆が亡くなると息子たちの兄弟争いが激化。正嫡の皝に協調性がなかったのが最大の原因のようではある。

・皝の兄の翰、段遼のもとに逃れる。
・皝の弟の仁と昭がクーデターを計画。昭は殺されたが、仁は遼東一帯を占拠して遼東公を自称。
・石勒、死去。

334
・慕容皝、東晋から遼東公に任じられ、仁の形勢が不利に。
・慕容皝、を太子に任命。
・後趙の石虎、3代皇帝となる。

残虐非道な人物として有名な石虎は石勒の父の養子で、石勒は弟として扱っていた。

336
・慕容皝、仁を海から奇襲。仁は捕らえられ、自殺。

『書紀』に、アメノヒボコの子孫の田道間守(タジマモリ)が垂仁に命じられて常世の国に橘を探しに行き、10年間探してようやく持ち帰ったとき、すでに天皇は亡くなっていたので、彼は落胆のあまり陵の前にひれ伏したまま死んでしまったという話がある。
『魏志倭人伝』によると橘は邪馬臺国(奄美大島)の特産品で、気候的には九州や本州にもあっただろうから、列島にいれば常世の国にまで探しに行く必要はない。しかし寒い遼東に橘の木はなかった。仁は列島生まれだから、幼い時に食べた橘をもう一度味わいたかったのではないか。年代的にみてアメノヒボコの子か孫にあたる田道間守が、遼東にいた仁に頼まれて橘を持って行ったとき、すでに仁は殺されていたという話だろう(小林惠子)。