神代3 漢委奴国王の正体

 
■オオクニヌシの孫 脱解

『漢書地理志』に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」とある。
ここには「倭人」とあってまだ「倭国」ではないが、畿内を本拠地とするヤマトが出雲に上陸したオオクニヌシを大王として迎え、その勢力範囲を全国的に拡大しつつあった。
一方、楽浪郡へのアクセスが比較的容易な北九州の国々は朝貢を重ね、漢の支配下に身を置くことでヤマトとは一線を画していた。
そんなとき、漢に追われて列島に逃げた騶牟の解氏扶餘勢力が出雲でオオクニヌシを滅ぼし、さらに丹波のヤマト勢力を制圧した。

BC19
倭国の東北千里の場所にある多婆那(タバナ)国の王が娶った女国(不明)の王女が大きな卵を産んだ。卵は海に捨てられ、流されて金官国に流れ着いたが人々は怪しんで拾わず、辰韓の海辺で拾われ脱解と名付けられた。(『新羅本紀』)

ここには「倭国」とある。その中心を北九州とすると「東北千里の場所にある多婆那」に該当するのは丹波(タンバ)であろう。現在の兵庫県丹波市は内陸だが、律令制以前の丹波は但馬や丹後を含み、若狭湾に面した宮津や舞鶴も丹波だった。
多婆那国とは、実は5〜6世紀中央アジアに実在したエフタルの国の名前で、紀元前にはまだ存在しなかった。
継体が日本海ルートで列島に渡り、定着した場所を(休氏の「ヤマト」のように)「タバナ」と呼んだのが訛って「タンバ」になったのだろう。つまり継体の故郷が多婆那国であり、継体がエフタルだったことを証明する地名なのだ。
『新羅本紀』はさらに後年に書かれたものだが、倭国の東北千里の場所とは丹波のことで、その地名の由来が中央アジアの多婆那国であることを知っていたのだ。「女国」というのも、3世紀前半のヒミコを盟主とする列島が「女王国」と呼ばれていたことから、倭国を暗示していることは確実だろう。
『新羅本紀』は脱解が列島出身であることを隠蔽するためにこの話を作ったわけだが、丹波はオオクニヌシの出雲勢力の支配下にあったので、私は丹波王だった脱解の父をオオクニヌシの息子タケミナカタに比定しておきたい。
母親の女国の王女とは、オオクニヌシが列島に侵入するまでヤマト王だったと思しきスクナヒコナの娘だと思う。オオクニヌシに差し出され、オオクニヌシはその娘をタケミナカタの妃として与えたと見る。名前はヤサカトミと伝えられている。

  多婆那国王 = オオクニヌシの息子・タケミナカタ
  女国の王女 = スクナヒコナの娘・ヤサカトミ

真偽はさておき、騶牟が出雲を滅ぼし、丹波にも迫ってきたので、タケミナカタはとにかく山の方に逃げて逃げて、諏訪にたどり着いたという話なのだろう。
しかしタケミナカタには子供が産まれたばかりだった。一族は大事な跡取りだけは守らなければならないと、宮津あたりから船を出して母方の祖父のスクナヒコナが王として君臨する辰韓に運び込んだのだ。
海に捨てられ辰韓の海辺で拾われた脱解とは、オオクニヌシの孫であり、スクナヒコナの孫だったとしておく。

  脱 解  父:タケミナカタ  父父:オオクニヌシ
       母:ヤサカトミ   母父:スクナヒコナ

紀元元年
東倭が漢に朝貢。(『晋書』)

出雲や丹波は、北九州と区別する意味で『晋書』には「東倭」と書かれている。
紀元前後になると漢は若くて頼りない皇帝が続き、外戚の王莽がほぼ実権を握っていた。
山陰地方を制圧した騶牟は、漢のニューリーダーである王莽に東倭王としての承認を求めて送使したようだ。
騶牟が漢の支配下にあった北九州には侵攻しなかったのはこの日のためだった。
しかし、王莽はまだこの時点では色よい返事をしなかった。

4
・赫居世が辰韓王の座を去り、子の南解王が即位。

騶牟は出雲の分国とも言える辰韓に攻め込み、赫居世を退位させた。そして赫居世の息子に解の一字を与え、南解王という傀儡の王にした。南解とはつまり「南の解氏」である。

ここで王莽もようやく騶牟の実力を認め、高句麗王としての返り咲きを黙認したようだ。

8
・王莽、漢を滅ぼし王朝を建てる。

「新王朝」とは「新しい王朝」ではなく(それも間違ってはいないが)、「新」という名前の王朝であることは言うまでもない。

・辰韓の南解王、脱解を娘婿に迎える。

10
・南解王、脱解を大輔(たいふ)にして政治を任せる。

南解王は表向きは騶牟に臣従していたが、騶牟が高句麗王に復帰していなくなると、かくまっていた脱解を娘の婿とし、辰韓のリーダーの座に就けたのだ。脱解が赫居世の孫でなければこんな好待遇はありえないだろう。
南解王の娘と脱解は「いとこ婚」になるが、古代ではごく普通であり、日本では今でも法的に認められている。

12
・王莽、騶牟を殺害。

王莽は匈奴征伐に際して高句麗から兵を徴集しようとしたが、大量の高句麗人が逃げ出したため、新の軍勢が高句麗に侵攻した。王莽に高句麗王に戻してもらっていた騶牟だが、さすがに人民を徴集されることには強く抵抗したようで、結局、新の軍勢に殺されてしまう。
これには出雲に残っていた騶牟の後継者たちが黙っていなかった。

14
・解氏扶餘が兵船百余隻で辰韓の海辺に侵入し、首都金城(きんじょう)を攻撃。

出雲の解氏扶餘の残党が、打倒王莽のために大陸に逆上陸した。
辰韓では彼らが征服した丹波からの亡命王子・脱解が実権を握っていたので、解氏扶餘は行きがけの駄賃にこいつを征伐してやろうと思ったようだ。
ところが、騶牟がいない解氏扶餘軍団はそれほど強くなかったのかもしれないが、脱解はこれを全滅させてしまう。その勢いで故郷の列島に渡り、日本海沿いに残っていた解氏扶餘勢力まで残らず平定した。まるで祖父オオクニヌシの魂が憑依したかのように。
出雲大社の御神体が西向きなのは、オオクニヌシが辰韓に渡った孫の脱解を見守る姿を表わしているのかもしれない。

解氏扶餘式の四隅突出古墳はこの後200〜300年後も存在するが、いったん根付いた文化は支配者が滅ぼされてもしばらく継承されるようだ。

 
■脱解、大武神となる

18
大武神即位(『高句麗本紀』)。

この大武神こそ、丹波国の王子として生まれ、辰韓の南解王の娘婿となった脱解である。
大武神の本名は大解朱留王(だいかいするおう)といい、舅である南解王の解と、五行思想で辰韓の色を表わす朱が入っている。
王莽は騶牟の残存勢力を残らず平定した脱解を新たな高句麗王に大抜擢したのだ。

ところが、王莽という人は意識が高すぎて民衆および周辺民族をバカにしすぎたらしい。そのくせ経済などの実務に関しては全く無能だったようで、豪族や農民らの不満は頂点に達し、反乱が続発した。

23
・混乱の中で王莽が死去。

王莽の新王朝はわずか1代で終わってしまった。

24
・南解王が死去。太子の儒理王が即位。(『新羅本紀』)

南解王の実子である儒理王は脱解に王位を譲ろうとしたという、日本の『記紀』でもおなじみの王位を譲り合う一幕があったとされるが、脱解はすでに高句麗王(大武神)だったのでありえない。しかし『三国史記』は他国の王になったりなられたりすることは書かない主義だったので、脱解と儒理王はどちらも赫居世の孫で、王位継承権的には互角であった事実を言いたかったのだろう。

25
劉秀、漢を復興(後漢)。光武帝が即位。

26
・大武神、鴨緑江(おうりょくこう)の北東にあった蓋馬(がいば)国の王を殺す。

大武神は王莽によって高句麗王に立てられた人なので、後漢の光武帝との関係は微妙だった。
勝手に蓋馬国の王を殺すことは後漢への反逆である。光武帝は遼東太守に高句麗を攻めさせ、大武神の高句麗王位を剥奪した。大武神はただちに謝罪したので遼東太守は兵を引いたという。

32
・光武帝、大武神を改めて初代高句麗王として承認。

大武神は数年間おとなしくしていたことが功を奏し、改めて高句麗王として承認された。
しかし高句麗という国は地理的に領土が中国と接していることもあり、騶牟や大武神のような野心家はつねに中国と敵対する宿命を背負っていた。

37
・大武神、楽浪郡を襲い、滅ぼす。

中華思想では、皇帝とは天上の最高神である天帝を祀ることができる唯一の人間で、天命によって天下を治めることができる。皇帝が治める国を中国(世界の中心の国)といい、周辺諸国の君主たちは皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するというシステムになっている。
そのそもこの中華思想が、実力で皇帝の座を勝ち取った劉秀らが自らを正当化するために確立したものだから、易姓革命を否定するものではなく、実力があれば誰でも皇帝になれることを保証する理論でもあった。だから中国の王朝がコロコロ変わる原因にもなったのである。
周辺諸国の王が皇帝からお墨付きをもらって冊封されることも、野心を抱く王にとっては、いずれ下克上で自分が皇帝の座を奪うための1ステップにすぎなかった。全ての新王朝は前王朝に対する裏切りと反逆によって成立する。
楽浪郡を滅ぼすというのは完全なるクーデターである。大武神も目指すゴールは皇帝という世界の王だったのだろう。

44
・光武帝が海上から大武神が占拠する楽浪郡を討ち、高句麗軍を追い払い、再び郡・県を設置。

光武帝からの強烈な反撃をくらい、大武神は『高句麗本紀』には同年10月に没したとある。
しかし『後漢書』では消息不明になっている。後漢軍が討ち取ったのなら「大武神の首は洛陽まで運ばれた」的な記事があるはずだ。

大武神は半島の東海岸から故郷の丹波に戻り、それから北九州に向かって早良国などを滅ぼし、委奴(いど)国を建てたと見る。国名についてはあとで解説する。
オオクニヌシの出雲勢力も、騶牟の解氏扶餘も、漢に遠慮して北九州には手を付けなかった。そこを躊躇なく攻撃できるのは後漢を完全に敵に回している大武神しかいないのである。

48
・匈奴が南北に分裂。南匈奴は後漢に降った。

53
・高句麗、瑠璃王の孫の太祖大王が即位。諱(いみな。幼い頃の名)は(きゅう)という。

44年に大武神が去ってから高句麗では実力のない王が二代続いたが、宮はきわめて攻撃的で、後漢にとって大きな脅威となった。
宮は遼西に城を設け、沿海州周辺諸国に侵略を開始した。

 
■大武神、辰韓と委奴国の王になる

57
・辰韓の儒理王死去。脱解、4代目の辰韓王となる。
倭奴国の使者が後漢に朝貢し、光武帝から印綬を授かった。光武帝はその翌月、62歳で亡くなる。(『後漢書』)

日本古代史上、非常に重要な年である。
脱解と言えば初代高句麗王になった大武神であり、列島に渡って委奴国王になった人物である。
そして脱解が辰韓王になったのと同じ年、倭奴国の使者が後漢に朝貢して光武帝から印綬を授かっている。
つまり、高句麗から逃げた大武神が、辰韓と倭奴国の2国の王として承認されたと解釈できるのだ。そんなことがありうるだろうか。

 

江戸時代の1784(天明4)年、福岡県の志賀島で発見された金印。「漢委奴国王」と刻され、光武帝から下賜された印綬に間違いない。
つまみが蛇のデザインなのはかつて滇が武帝から授かった金印と同様で、蛇はオオクニヌシのシンボルでもあった。オオクニヌシの孫である委奴国王にふさわしいと言える。

いや、待て。『後漢書』の原文は「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」となっているが、金印は「委奴國」で、ニンベンがない。同じ国のことを言っているのだからどちらかが間違っているとしか考えられないが、一般に、金印の「委」はニンベンを省略したもので、あくまでも「倭」なのだと考えられている。
しかし中国は列島を「倭」と呼んでいたので、『後漢書』が「委奴国」を「倭奴国」と書いてしまった可能性は否定できないと思う。

漢委奴国王の読みは「かんのわのなのこくおう」であると、私も学校で教わった。
しかし昔は「かんいどこくおう」と読んだらしい。
下は金印の印面を左右反転させた画像。

 

奴国が「どこく」ならば委奴国も「いどこく」と読め、伊都国(いとこく、現在の糸島)とも結び付く。奴国を「なこく」と読むかぎりこの発想にはたどり着けない。
私は3世紀の女王国の所在地は伊都国であり、それは1世紀の委奴国のことだと思っているのだ。次回のヒミコのときに詳しく解説したい。

光武帝が大武神を委奴国と辰韓の2国の王として認めることは常識的にはありえない。これには裏があった。
光武帝は委奴国が送使した翌月に亡くなったとされるが、皇帝や国王の崩御の記事の常として、実際はその数ヵ月前に亡くなっていたのだ。大武神は、光武帝が死んだタイミングを狙って朝貢したのである。
後漢の重臣たちは、大武神が高句麗王の宮と連合するという最悪のシナリオも想定し、懐柔策として大武神の求めるまま2国の王に任命せざるをえなかったのではないか。

  大武神 = 委奴国王 = 辰韓王脱解

このことを証明するのが「大武神の姓は高、諱は無恤(ぶじゅつ)」という『高句麗本紀』の記述である。
春秋時代から戦国時代にかけて、当時の晋国の大臣だった趙簡子が、犬戎の下女に産ませた子の名前が無恤なのだ。
無恤は長じて晋国を簒奪して趙国の初代(趙襄子)となり、代国も併呑した。
『高句麗本紀』は、大武神の出自が趙襄子と同じく犬戎であり、やがて趙襄子のように複数の国の王になることを暗示するために、大武神の諱を無恤としたのである。

「大武神」というのも「聖徳太子」のように後世に付けられた名前で、生前は大解朱留王だった。
大武神の名付け親は『記紀』と『三国史記』の両方の編纂に関与できた天武だった(小林惠子)。
高句麗の初代王を「大武神」とし、日本の初代天皇はそれをひっくり返して「神武」にしたというのだ。
もちろん大武神は1世紀、神武は3世紀の人で、同一人物ではない。直接的な血のつながりもないが、民族的には神武も大武神と同じ犬戎(休氏)だったことはこのあと証明する。

ここまで書いてくると「大武神の姓は高」という情報も素直には信じられなくなってくる(笑)。
前回「高句麗という国名はのちに高氏が王になってからのものだから、騶牟の時代は厳密には高句麗ではなく「解氏句麗」だった」と書いたが、高句麗という名前の由来には諸説あり、本当のことはわかっていないらしい。
高向玄理の子で、高氏を先祖に持つ天武が、大武神を勝手に高氏とし、高句麗の高は高氏を表わすという話をデッチ上げた可能性も高い。なにしろ中国の史書ではなく『高句麗本紀』なので。

 
■ニニギ族

少し時間をさかのぼって、金官加羅国の初代首露王に関する次の記事だけ紹介しておく。

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亀旨(くじ)の方から、新しい住処を加羅国に決めたと大きな声が聞こえた。加羅国(弁韓)の人々が仰いでみていると天から紫の縄が垂れ、先に赤い包みがあり七つの金の卵が入っていた。卵から孵った童子は容貌魅偉で威厳があったので、みな伏し拝んだという。(『三国遺事(駕洛国記)』)

これと非常によく似た話が『新羅本紀』に出てくる。

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・金城の西で鶏が鳴いたので脱解が瓠公に見に行かせると、木の枝に金の箱がかかっており、下に白い鶏がいた。金の箱の中には男の子がいた。金の箱から出たので金閼智(きん あち)と名付け、箱があった場所を鶏林とし、辰韓の国名にした。

新羅になる前の「辰韓」は地域名であって国名ではなく、国名は王が自由に付けていたらしい。
それはともかく、金閼智は新羅の金氏王統の初代とされる。実際に金氏で最初に新羅王になったのは263年即位の味騶王だからずいぶん先の話なのだが、そのあと金氏の王朝が続いたので、ご先祖様(始祖)の金閼智が神格化されたのだろう。
韓国人の約2割が「金さん」であるらしいがその発祥はさまざまで、首露王を始祖とする金海金氏と、金閼智を始祖とする新羅王族系の金氏は別系統のようだ。

首露王は卵から生まれたとあるが、高句麗の始祖とされる騶牟、初代辰韓王の赫居世、そして脱解も卵から生まれたことになっている。金閼智は金の箱の中から出てきたが、下に白い鶏がいたという描写で、そもそも箱の中にあったのは白い鶏が産んだ卵だったことを想像させる。
以下のように、朝鮮の主要氏族はいずれも卵生神話を持っている。

  騶 牟:高句麗と百済の始祖
  赫居世:新羅の朴氏の始祖
  脱 解:新羅の昔氏の始祖
  首露王:新羅の金海金氏の始祖
  金閼智:新羅王族系の金氏の始祖

『三国史記』は、高句麗・百済・新羅の3国はそれぞれ古くから独立国家として存在していたことになっていて、他国から移ってきた王についてそのことを正直に記してはいない。だから卵生神話が多いのである。
鶏や卵はペルシア系民族の象徴でもある。
鶏と聞いて伊勢神宮を思い浮かべる方は立派な古代史ファンだが、ここではその話は置いておく(笑)。

首露王の話に出てくる亀旨とは、あの大月氏の休氏の本拠地、亀茲のことである。
金閼智も、金の箱から出てくるところを見たのが脱解と瓠公であり、箱があった鶏林を辰韓の国名にしたというほどの大歓迎ぶりから見ても、首露王と金閼智は、赫居世や脱解や瓠公と同族の休氏だったのだろう。
当時、後漢の威光はタリム盆地にまでは及ばず、騒乱が続いていたので、首露王や金閼智も先人達と同じ南海ルートをとって加羅国に侵入したと考えられるのである。

首露王と金閼智だけではなく、我が国の『古事記』にも、天照大神の命を受けて孫のニニギノミコトが地上の国を治めるために日向の高千穂の峰のクジフルタケに天下ったとある。
クジフルタケは亀茲東北にある金山を表わす。それは金海金氏の金、金閼智の金でもある。
首露王、金閼智、そして日本の初代天皇・神武の先祖であるニニギの3者の始祖神話がほとんど同じなのは、3人とも同じ始祖神話を共有する同族、すなわち大夏の休氏だったからである。ニニギも首露王らと同じように亀茲の戦乱を避け、南海ルートで南九州に上陸した実在の人物なのだ。

古代の「日向」は宮崎と鹿児島を含む広域だった。
日向に降臨したニニギに、塩土老翁なる人物が国を提供したという。
ニニギ〜山彦〜ウガヤフキアエズ3代の陵は、宮内庁によって鹿児島県内に治定されている。
ニニギは「ここは韓国に向かい、笠沙の前を通って朝日の差し込む国、夕日の照るよい場所だ」と言った。
笠沙はたしかに鹿児島の地名で、朝日・夕日の観光スポットだが、「韓国に向かい」とは言い難い。
ニニギ族は、北九州には後漢に承認された委奴国が存在することを知っていたのかもしれないが、鹿児島を去り、九州の西側の海を渡って半島に向かったことを「韓国に向かい」で暗示しているのではないか。
神武の先祖が「日向三代」などと呼ばれ、鹿児島から出ていないことになっている理由は、彼らは本当は神武が北九州に出現するまでの間、再び列島を離れていたからなのだ。

73
・倭人が木出島(不明)に侵略してきたが、辰韓は勝てなかった。(『新羅本紀』)

この倭人こそ、首露や金閼智と始祖神話を共有するニニギ族であろう。
辰韓すなわち脱解は勝てなかったとあるが、滅ぼされたような気配もない。
脱解もルーツは休氏だから、血で血を洗うような抗争はなかったのかもしれない。
そしてニニギ族は史料上は100年以上に渡って消息不明となる。

80
・脱解(大武神)死去。儒理尼師今の子、婆娑(ばさ)尼師今が辰韓王に。

脱解はBC19年生まれだから、98歳ぐらいまで生きたことになる。
彼は委奴国王も兼任していたわけだが、その死後、委奴国はどうなっただろうか。

 
■帥升と遂成

101
・江南の巫術(呪術)の名門だった許氏一族(許聖)が後漢に反乱。

中国では漢代から道教系の巫術が信仰され、特に江南の巫女は民衆から絶大な支持を得ていた。
許氏は巫術者の腕を買われ、後漢の宮中深くに入り込んでいた時期もあった。
なお「江南の巫女」からは、誰もが知るアノ人が出てくることになる。

107
・外戚が専横する後漢で、倭国王帥升が生口160人を献じて会見を願い出た(『後漢書(東夷伝)』)。

中国の史書に初めて名前付きで登場した倭人・帥升とは、大武神の子か孫にあたる人だろう。
この頃、後漢と高句麗の関係が悪化していたが、それ以外にも後漢の内紛に乗じて江南の許氏が反乱を起こしたり、中国東北部に勢力を持つ騎馬民族の鮮卑(慕容氏)が挙兵したりして、後漢は兵力の不足にあえいでいた。
帥升が献上した生口160人とは帥升に従った将たち、すなわち後漢が何よりも求めていた軍事力であろう。
委奴国王の帥升は後漢と共闘して高句麗王の宮を滅ぼし、父祖の大武神の高句麗を再び手に入れたかったのである。

111
・宮、濊(半島東海岸沿いの住人)と狛(高句麗人)を率いて後漢太守のいる玄菟郡に侵攻。

宮は後漢に送使して玄菟郡を高句麗に服属させるよう求めたが、もちろん許されなかった。

118
・宮、再び玄菟郡を襲う。

121
・幽州刺史が玄菟・遼東の太守を率いて高句麗側の濊・狛を攻撃。
・高句麗王の宮、死去。(『後漢書』)
・宮の同腹の弟と称する遂成なる者が突然現われ、高句麗に援軍を派遣し、後漢に勝利。しかし宮は王の座を追われ、母の里の扶餘に亡命。(『高句麗本紀』)

『後漢書』と『高句麗本紀』の内容がまるで違っている。
委奴国王の帥升(スイショウ)と『高句麗本紀』にみえる遂成(スイジョウ or スイセイ)は同一人物と考えられる。

  帥升 = 遂成

107年に後漢に朝貢した帥升はその後、実は何食わぬ顔で宮にも接近して、高句麗のために戦うとウソをついていたらしい。宮は帥升を信頼して兵を預けてしまったから勝てるわけがない。『後漢書』の記述通り、敗れたのは高句麗で、宮は121年に死んだのである。
『高句麗本紀』に、宮が母の里の扶餘に亡命したとあるのは、遂成が高句麗王になる146年まで宮が生きていて、遂成に譲位したという形にしたかったからである。
しかし高句麗人たちは、いくら大武神の子孫とは言え、列島からやって来てペテンにかけて宮を死なせた帥升を、ただちに高句麗王としては受け入れなかった。

132
・遂成、倭山で狩をした。(『高句麗本紀』)

狩は戦いとか一般男性を徴発して兵にする場合の隠語である。倭山は列島のことだろう。
遂成は一旦列島に戻り、兵を集めたのである。

146
・後漢、桓帝即位。
・高句麗、遂成(帥升)即位。
・倭国の大乱始まる。

後漢の桓帝は自らの即位と同時に、後漢側として働いた遂成を高句麗王に任じた。遂成の願いが成就したのだ。
しかし、国民はもともと遂成によい感情を持っていなかった上、高句麗に戻ってきた遂成が、留守中に高句麗を治めていた右輔の高福章や、宮の縁戚まで殺してしまったので、いっそう反発が強まった。

一方、帥升が高句麗に去ったあとの列島も主を失って混乱していた。『後漢書(東夷伝)』に「恒・霊帝の間(146〜187)、倭国に大乱があって互いに相攻め、暦年、主なし」とある。

158
・遂成、家臣に殺される。

『三国史記』の歴代の王で、家臣に殺されたことが明記されているのは遂成だけである。家臣の王殺しは国にとって不名誉なこととして伏されるのが普通だから、遂成の正体が委奴国王・帥升だった何よりの証拠である。高句麗人にとって、遂成は高句麗を纂奪した倭人にすぎなかったのだ。