神 武(2)

 
■神武、宇佐に上陸

神武は東征前に語った。「塩土の翁に聞くと東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗ってとび降ってきた者があると。思うにその土地は大業をひろめ天下を治めるのによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者はニギハヤヒというものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」
東倭王である塩土の翁は、神武に大和という目的地を示したのだ。けっして神武に東倭王の地位を譲ろうという話ではない。
もともと大和も東倭もオオクニヌシの勢力下にあったが、大和にニギハヤヒ政権が誕生してから東倭との関係が悪くなったのではないか。塩土の翁はこの状況を打開できるのは神武しかいないと思ったのだ。

神武の一行は博多湾から船出。速吸之門(はやすいなと、豊予海峡)に現れた椎根津彦(珍彦、うずひこ)の案内で、宇佐に着いた。柁鼻神社にその痕跡がある。


柁鼻神社(かじばなじんじゃ、宇佐市)

御祭神:
鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
彦五瀬尊(ひこいつせのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)

御由緒:
八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟とされ、椎根津彦命(椎宮の御祭神)に先導された神武天皇一行はこの柁鼻の地に上陸されたと言われている。
『日本書紀』によれば、宇佐の豪族、莵狹津彦・莵狹津媛の御兄弟が天皇の御一行に一柱騰宮を建てて大御饗(食事)を奉りお迎えしたと伝えられるのが、この宇佐の地である。
また、この時神武天皇の勅諚により天種子命(後 藤原氏)は莵狹津媛を妻としたことによって大和朝廷と宇佐との関係がより深くなる。よって、此の柁鼻の地に三柱の神を祀りお社を建てたのが柁鼻神社の始まりである。
八幡宮御祭神の神功皇后は三韓出兵に際し、和間の浜において軍船を築造し、ここにて柁神を祀ると言われている。
また、勅使・和気清麿公上陸の地とされ、東側に船繋石の遺跡がある。


船繋石

神武は東川王時代、高句麗の領土を拡大しようとして魏の毌丘倹に阻まれ、毌丘倹と司馬懿の政争に巻き込まれながら自身は列島への亡命を余儀なくされ、なりゆき上、女王国を滅ぼさざるをえなかった。女王国に対して個人的には何の怨みもなかっただろう。
神武と張政の協議で、神武は女王国を宇佐に遷都する手助けを命じられたのだと思う。臺與が二代目女王になっても伊都国は周りに敵が多すぎるからだ。神武は東征の前に臺與を宇佐まで送ってきたのである。

北九州と国東半島の位置は、ちょうど大和と伊勢の関係にある。海から太陽が昇る宇佐は女王国にとって特別な場所であり、ヒミコの支配も強く及んでいた土地なのだろう。のちに伊都国にヒミコの墓(平原古墳)が完成すると伊都国の遺臣たちもそっくり移住してきて、少なくとも応神が秦氏をこの地に引き連れて来るまでは九州限定の小国として独自の道を歩んだのではないか。
あまりにもベタすぎてかえって誰も本気にしないだろうが、大分を「豊の国」というのは、案外、本当に「臺與の国」だったからかもしれない。

小林惠子氏は、神武は臺與を大和にまで連れて行ったと論じている。そして大和の名目上の女王となり、天照大神を祀った。箸墓古墳は臺與の墓だというのである。
邪馬臺国が北九州から大和に東遷したと考えれば、当然そうなる。邪馬臺国と大和の連続性にとって臺與は欠かせない存在だろう。
しかし私はすでに述べたように、大和は最初からヤマトだったと考える。それが倭と同じ意味を持つに至り、魏が女王国のことをヤマトに漢字を当てて「邪馬臺国」と記したにすぎない。女王国の本当の名は伊都国だった。
だいたい、神武が自ら滅ぼした国の名前(ヤマト)を新しい国に付けるというのは、どう考えても不自然ではないか。

古代史ファンなら、天照大神はもともと男神だったという話を聞いたことがあるだろう。
天照大神が臺與によって初めて大和にもたらされたのなら最初から女神だったと思う。別名の「大日孁貴神」にはヒミコが投影されているとしか考えられないからだ。
しかし、ヤマトという国名のみならず、天照大神も神武が来る前から大和に存在したのである。天照大神という名前に関しても大和の方が先で、伊都国のヒミコが祀っていた太陽神は、のちに大和の天照大神と習合して天照大神になったのではないか。

 
■東川王死す

248
・東川王死去。子の中川王即位。(『高句麗本紀』)

東川王は没し、柴原(しばら)に葬ったとあるが場所も明らかではない。
過去の傾向から、列島に渡った東川王を死んだことにしたのだろうと思いがちだが、ここは記述通り、広島県の安芸に到着した248年9月頃、神武は没したらしい。
安芸に入るにあたり、現地の反東川王派が抵抗した可能性もあるが、なにしろ『記紀』では神武は大和への東征を果たしたことになっているので、その死因はわからない。
18年後(266年)に大和で即位したのはその息子で、『記紀』で言えば2代目の綏靖だった。
このページのタイトルも最初は「綏靖」だったのだが、『記紀』がせっかく大和で即位した初代天皇を神武としているので、ページのタイトルだけは父子2代あわせて神武ということにしておく。

綏靖の母は「東海の美女」すなわち東倭王女だから、248年当時、綏靖はまだ1〜2歳だった。
『古事記』には、神武の一行は安芸に7年間、岡山県の吉備に8年間滞在したとある。
15年もの長い旅になったのは、もちろん大将の神武を失ったことが最大の原因だろう。しかし綏靖が立派な若武者に成長するために必要な時間だったとも言える。
東征の旅を主導したのは神武の息子たちだった。東征中に命を落としたとされる「神武の3人の兄」は本当は神武の息子たちで、「綏靖の3人の異母兄」だったのである。

249
・司馬懿がクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅。皇帝の曹芳を傀儡とし、魏の権力を完全に掌握した。
・倭人が辰韓に葛那古(かつなご)を使者として派遣。

葛那古は東川王との和解を願ってきた辰韓への返礼の使者だが、帰らずにそのまま辰韓に居残ってしまう。

251
・司馬懿、73歳で死去。

のちに孫の司馬炎が禅譲を受けて皇帝に即位し、晋(西晋)を建国する。
その基盤を築いたとして司馬懿は「裏切り者」と評価されることが多い。無理もないだろう。

 
■「塩奴」の謎

253
・倭人の軍勢が辰韓を襲い、于老を殺害。

辰韓の大臣の于老は、245年に将軍として東川王と戦って敗れた人物。
彼が宴席で、倭人の葛那古に「近いうちにお前の王を塩奴(塩作りの奴隷)にし、王妃を飯炊きにするよ」と冗談めかして言った。この話を聞いた倭王は軍勢を派遣して于老を捕らえ、柴を積んだ上に于老を載せて焼き殺してしまったという。(『三国史記・列伝』)

東川王も『高句麗本紀』に「柴原に葬った」と書かれていた。
柴の上で焼き殺すというのは、罪を犯した巫術者を処刑する方法だったらしい。
毌丘倹派の王頎あたりから見れば女王国を滅ぼした東川王は罪人だからそのように記述されたのだろうが、于老は本当に焼き殺されてしまったようだ。

于老が言う「お前の王」も「この話を聞いた倭王」も、普通は神武のことだと解釈されるだろうが、問題は「塩奴」である。
于老は「東海の美女」と言われた綏靖の母の出身地が東倭という塩の産地であることを侮辱したのだ。
やはりこの時点で神武はすでに亡くなっていたのであり、于老は君主を失った神武勢を見くびって「お前の王」すなわちまだ幼い2代目の綏靖を塩奴に、神武の王妃=綏靖の母を飯炊きにすると言ったのである(小林惠子)。
塩奴から塩の産地・東倭を連想し、そこに東海の美女を結び付け、神武が死んでいることまで証明した、これは小林惠子説の中でも傑作の推理である。

 
■備前車塚古墳は神武の墓である

255
・毌丘倹が司馬氏の排斥を上奏し反乱を起こしたが、逆に討伐されて死去。
・神武軍、吉備を征服。

毌丘倹の死と、神武軍の安芸から吉備への移動は無関係ではないだろう。
すでに魏の実権を司馬懿に握られてしまった毌丘倹だが、死ぬまで司馬氏に反抗し続けたその執念は、女王国を滅ぼした神武軍にも監視の目を光らせ続け、吉備への侵入を食い止めていたと想像される。

神武軍は吉備を征服して8年間滞在し、その間に神武の陵・備前車塚古墳(岡山市)を築造している。もし大和が攻略不可能だったら、そのまま吉備王国に定住する気持ちも半分ぐらいあったのではないか。

ヒミコが太陽神の化身と考えられた一方、道教に由来する古代中国の思想では、北極星が天帝(天皇大帝)と見なされた。これを北辰信仰といい、のちに仏教と習合して妙見信仰となる。
北極星は地球の地軸(自転軸)の延長上すなわち真北の方向にあるから動かない。そして動かない北極星を軸にして回転する北斗七星は天帝の乗り物、車に見立てられた。その「車」が冠された車塚古墳は、被葬者が天皇などの最高権力者であることを示しているらしい。
高句麗の墳墓である方墳が2つ合わさった前方後方墳で、それぞれ高句麗・東川王と、倭王・神武を表わしていると考えられる。

備前車塚古墳からは初期の良質な三角縁神獣鏡が13面も出土している。
三角縁神獣鏡は九州から東北まで広い範囲で出土するが、特に多いのは大和を中心とする近畿地方なので、邪馬臺国近畿説論者はこれをヒミコと結び付けたがる。しかしヒミコのレガリアは内行花文鏡であり、三角縁神獣鏡は神武のレガリアである。
東川王時代に東倭の使者に持たせた鏡は中国東北部で作らせたものだろうが、備前車塚古墳から出土したものは国産であろう。その後、綏靖が大和で即位してから本格的に作られ、各地の豪族に配られた。だから三角縁神獣鏡はほとんどが国産品なのである。


三角縁神獣鏡(宗像大社)

 
■吉備から大和へ

259
・高句麗の中川王、魏軍との戦いに勝利し、高句麗の勢力を遼東まで拡張。

半島に残された東川王の息子・中川王はなかなかのツワモノで、ある意味、父親以上だったかもしれない。
高句麗が息を吹き返したことは、のちのち列島にとっても大きな意味を持ってくる。

262
・辰韓、味鄒王が即位。
・神武軍、吉備から大和に向かう。

東川王が王頎に追われて辰韓の竹嶺まで来た時、命がけで東川王を救って重傷を負った蜜友なる部下がいた。神武軍は分隊を派遣し、この蜜友を辰韓王に立てたと考えられる。
味鄒王は金氏初の王で、金閼智の7世孫、父は金仇道葛文王とされる。金閼智は65年の脱解の時代に金の箱から出たという伝説の人物である。その7世孫というのは辰韓の万世一系思想的なものが反映されているだけだと思うが、父の金仇道葛文王に葛城氏一族を表わす「葛文王」があるから、味鄒王は東川王の縁戚でもあったのだ。
味鄒王は即位すると馬韓と戦い、半島中南部を平定。遼東から半島のほぼ全域を東川王系が支配するようになった。
これが列島の神武軍への追い風となり、ついに神武軍は大和への侵攻を開始した。

264
・味鄒王、東部に巡行して海を見た。(『新羅本紀』)

海を見に行っただけなら史書に記録されるはずがない。東部とは列島で、味鄒王は大和に進軍する神武軍に辰韓の海岸から救援の兵を送ったか、あるいは自ら参戦したのかもしれない。

 
■神武軍、大和を制圧

以下は『書紀』の要約。「神武」は全て「二代目神武」(綏靖)と置き換えて読んでいただきたい。

神武軍が河内から生駒山に入った時、ニギハヤヒの家臣・ナガスネヒコが迎え撃ち、神武の兄の五瀬命が戦死した。そこで神武軍は紀の国(和歌山県)に転戦。熊野に出た時、暴風に遭って神武の2人の兄(稲飯命・三毛入野命)も常世に去った。
同年12月に神武軍はナガスネヒコと再戦。このとき金鵄(金色の鳶(とび))が現われ、神武軍を勝利に導いた。
ニギハヤヒは降伏し、従わないナガスネヒコを殺害した。(『書紀』)


金 鵄(きんし)

金鵄の出現は神武軍が単独では勝てなかったことを意味しているから、高句麗、辰韓、あるいは東倭からの援軍があったのだろう。金鵄に例えられた理由は不明だが。

結局、ニギハヤヒとは何者だったのだろうか。
小林説では、ニギハヤヒは「1〜2代前に辰韓から渡来し、婚姻を通じてナガスネヒコ勢力に入り込んだ新勢力」という感じで、わりとサラッと流している。それはそれでよくわかる。ニギハヤヒは古代史論では避けて通れない巨人であるが、ほとんど想像で論じるしか手立てがない、非常に危険なテーマではある。
しかし、本稿は時間軸に沿って論じるのが基本ルールだが、次回のみ、特別にニギハヤヒについて考察し、神武東征のさらなる真相に迫ってみたい。
ここはとりあえず話を前に進めよう。

 
■西晋は倭国を承認しなかった

265
・魏の元帝、司馬炎(武帝)に禅譲。新王朝「」が誕生した。

のちに東晋が建国されるので、一般に西晋と呼ばれている。

266
綏靖即位

『書紀』では初代神武は畝傍山の東南の橿原に都を開き、綏靖のときに葛城の高岡に遷ったとされる。おそらく綏靖の最初の都が橿原で、のちに高岡に遷ったということではないか。

・倭人が晋に送使し、あわせて円丘・方丘を南北に祀った。(『晋書・武帝紀』)

『書紀』に「神功66年、この年は晋の武帝の泰初2年である。晋の国の太子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初2年10月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している」とある。
『書紀』には邪馬臺国も卑弥呼も出てこない。そのかわり神功皇后の時代を3世紀に置き、あたかも神功=卑弥呼であるかのようにこれを記述したのだろう。
ただし神功66年は266年で、すでに卑弥呼は亡い。倭の女王とは誰のことだろうか。

中国では円は天、方は地を表わす。晋は天地を祀るセレモニーに倭人を列席させたようだ。
このときの倭人の見聞がのちの前方後円墳に取り入れられた。最初期の前方後円墳は大和の箸墓古墳で、『書紀』にはヤマトトトビモモソヒメの墓とある。(小林説では「臺與=ヤマトトトビモモソヒメ」である。)

綏靖は西晋に送使し、建国を祝うと共に、ヤマトトトビモモソヒメなる人物を倭の女王として承認してもらえないか打診したのではないか。西晋の中身は魏と同じ司馬氏だから、綏靖はさすがに東川王の息子である自分では承認されないと思ったのだ。
魏の時代の司馬懿は東川王側にあった東倭の王を「倭王」として承認したことがあるが、それは毌丘倹との戦いにおけるアヤのようなもので、西晋はとにかく「倭国」自体を認めない方針だった。高句麗の中川王がその勢力を拡大していたことも大きな要因だったろう。高句麗と列島を同じ東川王系が支配して強大化するのは、西晋にとって好ましいことではないからだ。
綏靖の使いの者たちは前方後円墳のアイデアをもらっただけで、本来の目的は果たせなかったのである。

270
・高句麗、中川王死去。息子の西川王即位。

280
・西晋の司馬炎、呉を滅ぼして中国をおよそ100年ぶりに統一。

 
■神武の即位年

『草原から来た天皇3』にも書いたが、『書紀』の神武の即位年は中国の辛酉革命説をとる讖緯(しんい)説にもとづくものと見る。1元を60年、21元すなわち1260年を1蔀(ほう)として、1260年毎に辛酉の年に天命が革(あらた)まるというものである。
神武天皇の即位を紀元前660年(辛酉)に設定した理由は、逆に、その1260年後に何があったかを調べればよい。

601年(辛酉)5月
・天皇(推古)は耳梨の行宮においでになった。このとき大雨が降り、河の水が溢れて宮廷に満ちた。

耳梨の行宮なる場所において馬子、推古、タリシヒコの三者会談が行なわれ、馬子からタリシヒコに倭王が禅譲されたと見る。「大雨が降り、河の水が溢れて宮廷に満ちた」という表現で蘇我馬子王朝の終焉を表している。
つまり601年とは、幻の初代天皇・タリシヒコ即位の年だったのである。これぐらいの事件がなければその1260年前を神武の即位年にしようという発想は出てこなかっただろう。

なお小林先生は、神武天皇の即位年はアケメネス王朝初代のキュロス一世の即位年(紀元前660年)に合わせたという意見である。さすがです(笑)。