淳 仁

淳 仁

 安禄山の乱(安史の乱、755〜763)

 安禄山は康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血児だったと言われている。
 玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽など北方の辺境地域の三つの節度使(唐の官職。辺境警備隊隊長のようなもの)を兼任していた。
 軍事力を手に入れた安禄山の野望はエスカレートし、755年に反乱を起こして、玄宗が首都長安を去って放浪するという事態になった。
 756年 安禄山は一時的に唐を滅ぼし、燕国を僭称したが、757年1月、自分の息子によって殺されてしまった。
 燕国は安慶緒、さらに史思明に引き継がれたので「安史の乱」とも呼ばれ、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いた。

 758年8月 安禄山の乱による唐の混乱に乗じ、日本では孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇となった。仲麻呂がドサクサまぎれに天武系男子の即位を強行したのである。
 安禄山勢力は渤海や中国東北部勢力を支配下に置き、渤海と共闘体制を取っていた仲麻呂も自然の成り行きとして安禄山側についた。
 仲麻呂は唐の威光が目障りな鑑真を引退させ、良弁を大僧都とした。
 760年 光明皇后没。仲麻呂の完全な独裁政治が始まった。 

 762年 唐の玄宗・粛宗が相次いで没し、代宗が即位。
 763年 唐軍が史朝義を滅ぼし、安禄山の乱が終結した。
 代宗は渤海に対しては懐柔作戦を採り、大欽茂を渤海郡王から渤海国王に格上げすると、渤海は完全に唐に臣従する政策に転換したため、渤海の軍事力が頼りだった仲麻呂は国際的に孤立してしまった。
 国内でも、道鏡が仲麻呂を失脚させるための準備を着々と進行させていた。

 道 鏡

 道鏡について『続日本紀』には以下のように記されている。

 道鏡は俗姓は弓削連、河内国人なり。略梵文(サンスクリット文字)に渉りて、禅行を以て聞ゆ。是に由りて内道場に入り、列して禅師となる。宝字五年(761年)、(称徳が)保良(宮)に幸せしより、時に看病に侍して、稍く寵幸せらる。

 弓削氏は物部守屋(突厥系)から派生し、天武朝末期、物部氏と枝分かれした。
 実際、道鏡も守屋の子孫と考えられていたらしい。
 道鏡は自ら天皇になろうとし、称徳(孝謙が重祚)もそれを是認していたことはよく知られているが、あの仲麻呂でさえ淳仁を傀儡とし、自ら即位しようという発想はなかったように、天智もしくは天武の血筋でない者はいかに実力があろうと天皇にはなれないというルールは不動のものだった。
 道鏡は単なる僧侶ではなく、ちゃんと皇統につながる血筋だったからこそ即位の野望を抱いたのである。
 
 若き日の道鏡は、葛木山で禅師の修業(のちに孝謙の病気を治療)を積んでいた。
 小林惠子氏は、702年に22歳で新羅王になった聖徳王は、文武天皇の四男(日本生まれ)で、葛木山で修業していた役行者として知られている人物がその正体だという。
 道鏡の弟子の円興なる人物は、役行者の子孫とされる賀茂氏一族である。
 道鏡は、葛木山では役行者の後継者と目されていたようで、賀茂氏一族とはじっこんの間柄だったのだろう。

 聖徳王はその後、新聖武に対して反抗的になったため、736年に大和朝廷の圧力で没し、孝成王が即位した。
 この孝成王こそ道鏡であると小林氏は推理している。
 親聖武は、聖徳王(役行者)の後任として、葛木山でも役行者の後継者と目されていた道鏡がうってつけであると考えたのかもしれない。

  新羅・孝成王 = 道鏡

 天武の子に弓削皇子がいるが、母は天智娘の大江皇女で、祖母は忍海造小龍(おしうむのつくりこたつ)の娘。忍海一族は兵器の製造を職としていた。
 弓削皇子は文武天皇即位に反対し、699年に若くして没した。
 道鏡が弓削皇子の子だったとすれば、半島に亡命した白壁王(志貴皇子の子)と同様、大和朝廷からは追放状態だったと考えられ、ゆえに葛木山で修業をしていたのだろう。

 道鏡 父:弓削皇子 父父:天武                        
           父母:大江皇女  父母父:天智
                    父母母:忍海造小龍の娘
    母:不明

 (なお、小林惠子氏の新説では、道鏡を新聖武の弟(元明に譲位して大陸に渡り、高文簡となった文武天皇の子)としている。いずれにせよ、道鏡が天武の孫であることには違いない。)

 742年 孝成王が死去。しかし実際は、文武の時と同様、火葬して東海に散骨したという記録を残して日本に亡命。
 来日した頃の孝成王は、日本における俗姓を林王といい、仏名を道鏡といったようだ。

 天武の孫ならば、新聖武の次の日本国王の座を狙ったとしても不思議ではない。
 しかし前述のように、新羅勢をバックにした武力による道鏡即位は失敗に終わった(752年)。
 そこで道鏡は、男性であっても宮中の奥深くに出入りできる禅師の立場を利用し、孝謙の内道場に入り、信任される時機が来るのを待った。
 孝謙が保良宮で道鏡の看病を受けたのを契機に、両者は急接近した。
 孝謙が淳仁や仲麻呂との離別を決意したのも、道鏡から国際情勢を学び、仲麻呂が孤立している事実を知ったからだ。

 孝謙は保良宮から平城京に帰ると、常祀(祭礼・儀式)や小事は淳仁が行い、国家的事件や賞罰は孝謙自身が行うと宣言した。もともとは全て仲麻呂が独断的にやっていたことなので、これは仲麻呂に対する宣戦布告であった。
 朝廷でも、渤海がたよりにならなくなった仲麻呂よりも新羅をバックに付けた道鏡の発言力の方が強くなってきた。

 763年2月 金体信ら新羅使者211人が来日。道鏡が仲麻呂追討に備えて呼び寄せたと思われる。
 5月 鑑真が没し、9月に道鏡が少僧都に就任。
 764年1月 吉備真備が造東大寺長官として太宰府から帰京。道鏡と共に反仲麻呂勢力を形成した。

 仲麻呂の乱

 764年9月 近衛兵の物部磯浪なる者が、仲麻呂が天皇のしるしの鈴印を奪おうとしていると孝謙上皇に報告した。
 孝謙はただちに淳仁のいる中宮院に少納言の山村王を行かせ、鈴印を奪わせた。
 仲麻呂は息子の久須麻呂をやって奪い返そうとしたが、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)がこれを殺害。
 続いて中衛将監の矢田部老を武装させて行かせたが、紀船守に射殺された。
 ついに仲麻呂は近江に逃走したが、最終的には琵琶湖の高島で拘束され、斬り殺された。

 天皇のしるしの鈴印を奪ったのは孝謙側だから、これは正しくは孝謙の淳仁に対するクーデターだった。
 仲麻呂は当時の最高権力者ゆえ「乱」など起こす必要はなく、「仲麻呂の乱」という名前もおかしいのだが、歴史はいつも勝った方が正義だから、負けた方は謀反の罪を着せられ、殺されてしまうのである。

 対仲麻呂戦に功があった山村王らはみな昇進し、白壁王も中納言、正三位に急上昇した。
 道鏡は大臣禅師に任命された。
 こうして仲麻呂打倒という共通の目的を果たしたあと、白壁王と道鏡はひとつしかない天皇の座を巡って激しく対立することになる。

 金良相

 安禄山の乱の頃、新羅では761年に侍中の金良相が安禄山勢力と結んでクーデターを起こし景徳王が中国に亡命。恵恭王が即位するまでの4年間、金良相が新羅王室に入り込んで実権を握った。
 小林惠子氏は、この金良相こそ百済王女天(=白壁王)が百済王族の末裔・高野新笠との間にもうけた山部王、若き日の桓武であると推理している(当時25歳)。

  金良相 = 山部王(桓武)

 金良相は、父・白壁王の政敵である仲麻呂を討伐するために兵を募集し、私的な軍隊を形成した。
 近江に逃走した仲麻呂は琵琶湖の高島で拘束され、斬り殺されたが、この地に陣取っていたのが金良相率いる新羅軍だったのである。
 乱後、白壁王が中納言、正三位に急上昇したしたのも、仲麻呂一族に最後のとどめを刺した息子の働きが大きくものを言ったからであろう。

 孝謙のバックには、百済王女天(志貴皇子の子・白壁王)、新羅・孝成王(天武の孫・道鏡)という、共にかつて朝廷から追放され、国際社会で活躍した皇孫たちがいた。
 そして、中国東北部勢力と結び、さらに新羅の実権を掌握して兵を集めた金良相(白壁王の子・山部王)の軍事力があり、日本国内にはこれに対抗できる軍団は存在しなかったのである。