神代2 葛城氏とオオクニヌシ

 
■大月氏の休氏

匈奴に追われた月氏の一部が安息国内の大夏を服属させ、大月氏となったことはすでに述べた。
その土地はトハーリスタン(トハラ)と呼ばれ、中国では吐火羅(とから)と表記する。
吐火羅の支配者は大月氏からのちにクシャーナ朝→エフタル→突厥→ササン朝ペルシアと変わっていく。

大夏は休氏の休蜜(きゅうみつ)を筆頭とする五侯の長老政治だったが、大月氏に征服されてまもなく五侯たちはお互いに離反していった。休氏の本拠地はタリム盆地のシルクロード上のオアシス都市・亀茲(クチャ)の東北金山あたりだったが、やがて江南に南下し、さらに東南アジアに向かった。

中国では中華思想に基づき、漢民族でない周辺民族を中国から見たときの方角で東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼んだ。倭人は東夷に属する。
大月氏は西戎だが、犬(狼)を祖神として崇めることから犬戎とも呼ばれる。

東南アジアの高辛(こうしん)国に犬戎が攻めてきたとき、王は犬戎の将軍の首を取った者には黄金千金を褒美とし、娘と結婚させるというふれを国中に出した。
ある日、王の飼っていた大きな槃瓠(ばんこ)という犬が犬戎の将軍の首をくわえて帰ってきた。
盤瓠は大型犬で5色の毛を持ち、なんと、もともとは三寸ほどの金虫だったという。玉盤(大皿)に入れ、瓠(ひょうたん)の葉で蓋をして飼われていたのがその名の由来である。
王は大喜びしたが、なにしろ相手が犬なのでそのままにした。ところが王の娘が「王に二言があってはならない」と、自ら槃瓠に嫁入りすることを申し出た。槃瓠は姫を背負い、人跡未踏の山に入って姫との間に12人の子供を産んだ。子供たちは五色の尾のある着物を着たという。(『後漢書』)

この頃、東南アジアでは波状的に犬戎が南下して国を荒らすので、先に南下した犬戎を服属させ、新しく南下した犬戎から国を守っていたようだ。ところが傭兵だった犬戎が王女を連れて逃げた事件があって、それが伝説化されたのであろう。

BC111
・武帝、北ベトナムから海南島にいたる東南アジア一帯に出兵。

『山海経』(海内北経)に「槃瓠は会稽の東、海中の三百里の地に封じられた」とある。
槃瓠伝説中の「人跡未踏の山」とは、海中に浮かぶ山、すなわち琉球や奄美大島など列島の南西諸島を意味していたのである。
つまり槃瓠とは、漢の拡張政策により東南アジアからさらに列島に逃れた大月氏、特に大夏の休氏のことなのだ。

  槃瓠 = 大月氏(大夏の休氏)

 
■休氏、大和へ

休氏はかつて表玄関として栄えた奄美大島にも上陸したに違いないが、大陸の動乱によって貿易業が衰退し、江南ルーツの倭人たちは北九州に拠点を移していた。
休氏は南九州の土着民(隼人)を服属させながら北上したが、北九州はすでに倭人、狛、匈奴らによって飽和状態だったので、新天地を求めて本州に上陸し、大和地方に入り込んだ。

「大和」の原形は「倭」である。
「倭」はそもそも中国人が江南の倭族にちなんで付けた名で、読み方は「wa」である。
これに尊称の「大」を付けて「大倭」、さらに奈良時代に「大和」と改められた。
倭を和に変えたのは、中国に押し付けられた漢字を嫌い、同じ音で、タリシヒコが重んじた「和」を採用することによって中国と対等な国になろうとする7〜8世紀の日本人の心意気であったと想像する。
しかし「大和」そのものは国号というより「大和盆地」のようにローカルな地名として用いられた。「大和朝廷」も所在地にちなむ名称である。
国号としては、同じ奈良時代に「日本」という新たな国号が定められた。
「ニホン」「ニッポン」という読みは中国式で、もともとは「ヒノモト」だったろう。やはり日出ずる国という意味である。

「大倭」や「大和」の読みは「ダイワ」ではなく、最初から「ヤマト」だったと思う。倭人はけっこう早い段階で「倭」を「ヤマト」と読み替えていたのではないか。
列島に「ヤマト」という言葉を持ち込んだのも大夏の休氏だったと私は考えている。おそらくはタリム盆地にあった休氏ゆかりの地名か何かに由来し、彼らは故郷の雰囲気を思わせる大和盆地を「ヤマト」と呼んだのではないかと。
そして言葉は生き物だから、やがて独り歩きを始める。言葉の響きのよさも手伝い、「ヤマト」は休氏以外の渡来人たちの間でも流行語のように広まって、「倭」という概念にも「ヤマト」という言葉が用いられるようになったと想像している。何の根拠もない妄想だと思われるかもしれないが、あとで邪馬臺国のときに「ヤマト」という名が問題になってくるのである。
 

■葛城氏の正体

『書紀』によると、神武が東征したとき、吉野で井戸の中から尾を持った光り輝く人が現われ国神の井光(いひか)と名乗り、同じように尾を持った人が岩を押し分けて現われ、これがのちの吉野の国栖(くず)の先祖であるという。
また、大和の高尾張邑に土蜘蛛がいて、皇軍は葛の網をかぶせて一網打尽にし、その邑を改めて葛城としたという。

尾がある人からは尾張氏が、葛城からは葛城氏が連想される。「葛」は吉野の国栖と同じ「くず」と読める。
高尾張邑にも「尾」があり、子供たちが五色の尾のある着物を着ていたという槃瓠伝説が思い起こされる。

彼らは神武に討伐されたり、服属儀礼をした様子もなく、国つ神として尊重された。
現在でも、大嘗祭の時には隼人の犬吠(いぬぼえ)や吉野の国栖奏(くずそう)があるという。

葛城氏や尾張氏の正体は、大夏の休氏だったのである。

休氏のレガリア(王を象徴する品)は銅鐸である。
呉越の地域から、紀元前5世紀までの春秋時代に使われた青銅の打楽器が出土している。祭祀に使われたり、戦時には合図の鐘として用いられた可能性もある。
休氏はこの文化を江南から列島に持ち込み、支配地域(近畿から東海・四国)に配布した。それが列島で独自の進化を遂げ、大型化したのが銅鐸であろう。

『魏志倭人伝』の馬韓の条にも「大木に鈴鼓を吊るして鬼神を祈る」とある。
馬韓の中にはその名も月支(氏)国がある。大月氏の一部が北九州から半島に渡り、馬韓に住み着いたのだろう。

 
■滇から来たオオクニヌシ

ここで古代の大王家のあり方について、『草原から来た天皇3』の復習をしてみよう。
6世紀の推古天皇は本当は女帝ではなく、敏達〜蘇我馬子〜用明〜タリシヒコの4代にわたる王妃で、山背大兄は馬子と推古の間に生まれた蘇我氏の本宗家だったという私見を述べた。
遊牧民は母系で繋がる血縁を重視していた。父親と違い、母親は自分で産んだ子供を間違えることはないし、実力主義の世界においてはできの悪い息子に跡を継がせるよりも娘に優秀な婿を迎えるシステムの方がはるかに合理的である。
推古の祖父の継体は遊牧民のエフタル。母系は蘇我氏(百済の木氏)である。

 

推古の父・欽明とは百済の聖王のことである。
(『記紀』では欽明の「明」の字を加えて聖明王としている。)
赤で示した欽明の母系は春日氏で、古くは和珥(和邇、わに)氏〜春日和珥氏である。
春日氏は蘇我氏の台頭とともに没落したという。

神武を初代とする『記紀』の天皇系譜には3つの欺瞞がある。

(1)母系ではなく父系でつなげているため、赤の他人を父子(あるいは兄弟)にしていること。
(2)高句麗や百済など外国の王も含まれていること。
(3)新しい倭王が前王の皇后に婿入りすることがあった事実を隠蔽し、それぞれの皇后を別人としていること。「先の皇后を尊んで皇太后と申し上げた」という場合はだいたいアヤシイ。
 
『記紀』では天皇家が初代神武からずっと父系でつながっていることになっていて、天皇に后妃を出す氏族は「外戚」と呼ばれている。しかし天皇が父子相続とされたのは天武以降だから、藤原氏はたしかに外戚と言えるが、それ以前の蘇我氏、和珥氏(春日氏)、葛城氏は、彼らの「婿」あるいは「子」が大王だった。つまり彼らこそが大王家だったのである。

蘇我氏のルーツは百済の木氏で、稲目が娘の堅塩媛を聖王の王妃としたことがその繁栄の出発点だった。その時点ではたしかに「外戚」だったが、拠点を列島に移して蘇我氏となってからは蘇我氏そのものが大王家となり、蘇我氏の娘に婿入りするか、蘇我氏の母から生まれるかのいずれかが倭王の条件となった。推古に婿入りして倭王になったタリシヒコも例外ではなかった。

このように、天武以前の大和の王朝は、葛城王朝〜和珥(春日)王朝〜蘇我王朝だったと考えられる。大化改新で蘇我氏を滅ぼしたとされる天智でさえ、皇后は古人大兄の娘だから蘇我氏だった。おまけに天智の即位前の名は葛城皇子という念入りさである。

なお、蘇我氏には物部氏というライバルが存在し、物部王朝と呼べそうな時代もあった。いわゆる蘇我物部戦争は仏教と神道の宗教戦争だったとされるが、実際はどちらが倭国の大王家になるかという主導権争いだったのだ。もちろん天皇家の履歴書である『記紀』にそんな事実は記録されるわけがない。

古代の大王の条件は大王家に婿入りするか、大王家の母から生まれるかのいずれかであり、国が発展するかどうかは大王自身の実力次第だった。
葛城王朝発展のキーマンとなった大王、それは休氏より一足遅れて列島入りしたオオクニヌシであった。

BC109
・武帝、雲南にあった土着勢力を征服し、(てん)国王に封じる。

雲南の石寨(せきさい)山の滇王の墓から独特の形をした銅鉾が出土している。
『書紀』によるとオオクニヌシのレガリアも広鉾であって、銅鐸ではない。
滇が武帝から授かった金印のつまみは蛇のデザインだった。出雲大社や三輪山の主神も蛇である。
オオクニヌシは休氏ではなさそうだが、休氏と同様、トハーリスタンから南下した大月氏だった。滇の傭兵として名を上げたのち、漢の南進政策の一翼を担って列島に渡って来たのである。

オオクニヌシ勢力は出雲から北陸、さらに大和地方に侵入した。
オオクニヌシは同じ大月氏である休氏に婿入りするという形で大王となり、列島での勢力を拡げていった。
そして休氏の銅鐸は大月氏のレガリアとなり、大型化していったのである。


銅 鐸

■扶餘の南下

BC108
・武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、半島に楽浪郡など4郡を設置。

楽浪郡が設置されると半島および北九州以北の倭人は漢の支配下に降り、楽浪郡に朝貢するようになった。
楽浪郡以外の郡は設置から数十年のうちに在地勢力によって消滅したが、楽浪郡だけは西晋末の313年まで形だけは存在した。

BC106
・武帝が全国を13州に分割し、各州に刺史(しし)を設置。

かつての周の分国・燕(北京市周辺)は幽州刺史の統治下となった。
しかし前漢の武力が低下するに伴い、燕周辺は扶餘によって支配されるようになっていく。
扶餘は中国東北部の松花江沿いに発生したが、民族的に狛と大きな違いはない。

やがて扶餘も北西から来た匈奴に追われ、次第に南下を始めた。
彼らは部族単位で半島や列島に生活の場を求め、北九州の倭人国群に溶け込んでいった。
紀元前後から北九州を中心に数多くの甕棺が出土する。扶餘が、燕の墓制である甕棺文化を半島全域および列島に拡げたのである。

 
■スクナヒコナ

BC69
・林の中で馬がいなないたので行ってみると瓠のような大きな卵があり、その卵から赫居世が生まれた。(『新羅本紀』)

BC57
・赫居世、13歳で初代新羅王となる。

紀元前に新羅という国はまだ存在しないから、赫居世は正しくは初代「辰韓王」である。
赫居世は朴氏の始祖とされるが、朴には瓠の意味があるらしい。
卵から生まれたとして出自が曖昧にされているが、側近の大臣・瓠公(ここう)はひょうたんを腰につるして海を渡ってきた倭人だったという、赫居世も列島から来たと言わんばかりの話がある。
赫居世の孫の3代目儒理王(在位24〜57)の王妃は葛文王の娘だったという。新羅では葛文王という名の人がたびたび登場する。

新羅の始祖神話がひょうたんづくしの話になっているのは、ひょうたんの葉で蓋をして飼われていたという盤瓠伝説に由来するものであろう。そして葛文王は赫居世の一族で、葛城氏出身、つまり休氏であることを意味している。

『書紀』によると、オオクニヌシとスクナヒコナが力を合わせて天下を統治し、やがてスクナヒコナは熊野(島根県)から常世に去ったとある。
初代辰韓王の赫居世こそ、出雲から辰韓に渡ったスクナヒコナのモデルであろう。

辰韓は大陸から列島への入り口に位置し、経済的にも軍事的にも重要な場所である。オオクニヌシは、ヤマトで高い統治能力を発揮していたスクナヒコナを辰韓王に抜擢したと考えられる。
あるいは、同じ国に王は2人もいらないと、スクナヒコナが半島に飛ばされたというのが事実だったかもしれない。
漢が公認した滇から列島を支配するために乗り込んできたオオクニヌシと、逆に漢に追われて列島に亡命してきたスクナヒコナは、名前の「大」と「少」にそのまま力関係が反映されていたと思われる。

 
■国譲りの真相

BC37
高句麗の始祖・騶牟(すうむ)が即位。

甕棺文化の扶餘が南下したあと、少し遅れて北京市周辺に定着したのは、同じ扶餘族だが解という姓を持つ解氏扶餘だった。
広開土王碑文によると、高句麗の始祖は北扶餘出身の騶牟。父は天帝、母は河の女神で、卵から生まれたという。
また『高句麗本紀』では、高句麗の始祖は東明聖王(扶餘の始祖とされる伝説の人物)、諱は朱蒙(あるいは騶牟)。父は天帝の子・解慕漱とあり、ここに解という姓が見える。

高句麗と馬韓(のちの百済)はどちらも朱蒙(=騶牟)を始祖として共有する。
高句麗という国名はのちに高氏が王になってからのものだから、騶牟の時代は厳密には高句麗ではなく「解氏句麗」だった。
騶牟に次ぐ二代目の瑠璃王の名は北京市郊外にある瑠璃河に由来する。瑠璃河河畔にはかなり大型の四隅突出型方墳がある。解氏の墓制は燕の甕棺ではなく、四隅突出型方墳だったようだ。

騶牟は漢に反抗的で、楽浪郡とも敵対していたので、漢は騶牟を正式に高句麗王として承認したことはない。
『高句麗本紀』に、瑠璃王の母親が「お前の父(騶牟)は国に容れられず、南の地(高句麗から見た南の列島)に逃げて王となっているよ」と言ったとある。

出雲大社のあたりに同時期の人骨や石斧など戦闘のあった遺跡がある。
荒神谷遺跡からは銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土し、国宝に指定されている。銅剣の一ヵ所からの出土数としては最多である。
また、瑠璃河の古墳よりもはるかに小型ながら四隅突出型古墳が残っている。

騶牟は漢に追われて列島に逃げ、出雲のオオクニヌシ勢力と戦い、解氏扶餘がその地を占領したと考えられる。このときの戦いが『記紀』にはオオクニヌシからタケミカヅチへの国譲りとして記されているのではないか。

  タケミカヅチ = 騶牟

オオクニヌシを祭神として祀っている出雲大社は写真のように巨大なお社だが、古代においてはさらに倍の高さがあったと考えられている。


出雲大社


かつての柱の跡

縄文時代の神道は山や巨石や大木に宿る神を崇める自然崇拝だったが、オオクニヌシのように人格を伴う神は、実在した人物が神として崇められたことを意味する。とりわけ天災や疫病の流行は、強大な力を持った人が死んで「祟り神」になっているせいだとまじめに考えられた。後世の太宰府天満宮(菅原道真)や神田明神(平将門)と同様、かつての出雲大社の規模を考えれば、神話では「国譲り」によって政権から去ったことになっているオオクニヌシが、実際は非業の死を遂げ、強大な「祟り神」として恐れられたのかもしれない。

扶餘のトーテムは白い鹿。鹿島神宮や春日大社(奈良公園)で鹿が飼われているのは、列島に渡来した扶餘の神が、そのまま日本人の神として定着しているということだ。
特に鹿島神宮の祭神がタケミカヅチであることが注目される。
出雲大社は国譲りの敗者オオクニヌシを祀り、鹿島神宮は勝者のタケミカヅチを祀っているのだ。


鹿島神宮のシカ


タケミカヅチ(鹿島神宮)

一般に、神社の本殿と御神体はどちらも南向きが常識なのだが、鹿島神宮の本殿は北向き、中の御神体は東向き。一方、出雲大社は本殿が南向き、御神体は西向きであるらしい。
鹿島神宮がある常陸(日立ち)は日の出の方位、出雲大社がある山陰は日没の方位である。出雲大社のさらに西にある日御碕(ひのみさき)神社は別名を日沈宮(ひしずみのみや)という。

 
日御碕神社と日御碕灯台

このように鹿島神宮と出雲大社はどちらもタケミカヅチに関連し、意図的としか思えない真逆の性質と構造を持つ。
また、鹿島神宮と出雲大社のほぼ中間の長野県に、タケミナカタを祀る諏訪大社がある。タケミナカタはオオクニヌシの子で、国譲りの際に抵抗したが、タケミカヅチに相撲で負けた。相撲の起源とされている話である。
オオクニヌシの跡取り息子も騶牟に殺されてしまったという事実に基づいた話なのかもしれない。
それならオオクニヌシの怨みは当然であり、丁重に祀られたのも道理である。

『記紀』の編纂を命じた天武は高句麗・蓋蘇文だから、高句麗や百済で始祖として崇められている騶牟を、日本神話においても重要な天つ神に組み込んだのだろう。オオクニヌシを破ったタケミカヅチは戦闘の神とされ、大和朝廷はその神威と共に北関東や中部地方にも勢力を拡大していった。そのことが鹿島神宮や諏訪大社の立地にも反映されているのである。