清 寧

 
■清寧即位

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・大和で雄略の子・清寧即位。

雄略が没すると、かつて任那に行かされた吉備上道臣田狭の妻で、雄略が後室に入れた稚媛(わかひめ)が、雄略との間に生まれた星川皇子に「天下を取るならまず(国の財政を扱う)大蔵の役所を取りなさい」と言った。星川皇子は母の意向に従い、大蔵の役所を取った。しかし大伴室屋大連が大蔵に火を付け、一族は焼死したという。

室屋は清寧を即位させた。清寧は雄略の三男(前回の系図参照)で、母は円大臣の娘・韓媛である。
室屋の先祖の大伴武以(たけもち)は仲哀天皇に仕えていた。仲哀は百済の近肖古王でもあったから、武以も百済人だった可能性が高い。
武以と室屋は数世代離れているが、雄略の忠臣だった室屋も百済系だろう。
この頃から大蔵を手中にした蘇我氏も百済の木氏だから、つねに北魏や高句麗の影響化に置かれていることに嫌気がさした百済の中枢が、本拠地を列島に移したようにさえ見える。あまり倭国と百済を厳密に別々の国として考えすぎない方がこの時代の実情には即しているようである。
いずれにせよ、雄略をきっかけにして、共に百済系である蘇我氏の経済力と大伴氏の軍事力が倭国の両輪となり、天皇が誰であれ、国家が破綻しないシステムが確立されたことは事実だろう。

この時期、倭国(清寧)・百済(東城王)・新羅(炤知)の3国は連合し、高句麗に対抗した。
一方の高璉は履中の従兄弟だから倭国内の旧勢力(とりわけ応神系)と同族であり、彼は市邊押磐の2人の息子(したがって履中の孫)、億計弘計に目を付けた。

なお、講談社学術文庫『日本書紀』には「億計(おけ)」「弘計(をけ)」というルビがふられていて、人をバカにしているのかと思ったが、奈良時代までは「oke / woke」と明確に区別して発音されていたらしい。

 
■億計・弘計と飯豊皇女

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・播磨に隠れていた億計、弘計が明石に迎えられた。(『書紀』)

清寧は子供がいなかったので「これで後継ぎができた」と喜んだという。
子供がいない以前に、清寧にはそもそも皇后に関する記録もない。
一方、市辺押倭の娘で、億計、弘計の姉にあたる飯豊皇女が突然現れ、「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ」などと過激な発言をしていったん姿を消す。

本当は飯豊皇女が清寧の皇后だったのではないか。大伴室屋が、億計、弘計という即位可能な人材を抱える市辺押倭ファミリーに配慮するのは当然のことだからだ。飯豊皇女に関する記事は少なく、皇后だったとすればなぜその記録が抹消されたのかはわからないが、エピソード通り、子作りを拒否して皇后をクビになったのか、あるいは億計、弘計が高貴な身分であることを明かすシーンをドラマチックなものにするために、彼らが「皇后の弟」だったことが伏せられたのかもしれない。

482
・東城王、靺鞨と漢山で戦い勝利。

東城王は靺鞨人によって構成された北魏軍と戦い、これに勝利して、蓋鹵王が475年に殺されて失った旧都の周辺を高句麗から取り戻しつつあった。

484
・清寧崩御。

『書紀』では億計と弘計が譲り合って長く天皇が決まらず、姉の飯豊皇女が朝政を見たという。
後世の『扶桑略記』や『本朝皇胤紹運録』には、飯豊皇女は飯豊天皇として即位したことになっているが、この時期のことを指しているのだろう。
しかし清寧が1月に崩御した同じ484年の11月に飯豊皇女も「崩御された」とあり、政権は1年も続かなかった。