仁 徳

 
■後燕から北燕へ

405
・百済、腆支王即位。

『書紀』と『百済本紀』の説明をそれぞれ見てみよう。

「天皇が人質として倭国にあった直支(とき)を百済に帰国させ、東韓の地(甘羅城、高難城、爾林城)を賜り、百済王(腆支王)として即位させた。」(『書紀』)

「倭国に人質になっていた餘映(よえい)が阿華王が死んだと聞いて倭王に帰国を請うた。倭王は100人の兵士を付けて帰国させたが、百済では餘映の2人の弟が後継者の座を争い、なかなか入国できなかった。次弟を殺して即位した末弟も、結局は国人に殺され、405年に餘映を百済王(腆支王)として迎え入れた。」(『百済本紀』)

『百済本紀』の方はずいぶんな内容だが、これが事実だったのだろうか。
ちなみにこのときの天皇(倭王)はすでに応神ではなく、菟道稚郎子だった。
また、餘映が『書紀』では直支となっている。呼び名がいっぱいあって混乱するので、本稿では今後「腆支王」で統一する。

  直支 = 餘映 = 腆支王

腆支王は阿華王の子、応神の孫。

  

天皇系譜に高句麗王や百済王が混ざっていたり、崇神以降も欠史八代王朝が大和に並行して存在したことを知らない人にとっては上の系図は衝撃的だろう。
しかし応神を慕容氏系の仲哀の子とするより、東川王系の孝昭の子の方が由緒正しい倭王という感じはする。
『書紀』に事実を書けなかったのは欠史八代をまるごと崇神の前に置いてしまったからだが、そこでは孝昭は紀元前5世紀の人ということになっている(笑)。

・後燕、高句麗と戦い敗北。

慕容煕は、応神が殺されたのを機に同じ慕容氏である広開土王と和平するチャンスもあったはずだが、応神の一族から嫁いでいた苻訓英が夫をリベンジに駆り立てた。なんでも訓英の言いなりだった煕は土王と戦い、もちろん敗北。

407
・苻訓英、病没。
・後燕の将軍・馮跋(ふうばつ)、慕容煕を廃して慕容雲を即位させる。

煕が訓英を失って腑抜けのようになっている間に馮跋がクーデターを起こし、龍城を乗っ取った。
馮跋の傀儡として即位した雲は2代皇帝・慕容宝の養子で、もともと宝に仕えた高句麗氏族だった。元の名を高雲という。しかし一般に後燕は慕容垂〜宝〜盛〜煕の4代とされ、雲は5代としてカウントされない。

・慕容雲、慕容熙を殺害。後燕滅亡

408
・馮跋、北燕を建国。慕容雲を初代皇帝とする。

409
・慕容雲が側近に殺され、馮跋が自ら北燕の2代皇帝として即位する。
・北魏の道武帝、慕容氏を大量殺戮。その後、息子に殺される。

道武帝は祖母が慕容皝の娘であり、また自身も慕容宝の娘を皇后に迎えた。

  道武帝 父:献明帝   父父:昭成王
              父母:慕容氏 父母父:慕容皝
      母:献明賀皇后 母父:賀野干

晩年の道武帝は酒色に溺れ、また道士の調合した薬で精神に異常をきたしていたらしく、家臣だった慕容氏の一族を殺戮した。
さらに自分の妃で、母の姪にあたる賀氏を幽閉して殺そうとしたので、二男の紹に殺害された。
(紹は兄の嗣に殺され、嗣が北魏二代目の明元帝となる。)

 
■広開土王、淡路島に上陸

409
阿知使主都加使主の父子が一族一七県の民を引き連れて移住してきた。(『書紀』)

土王は北魏での難を逃れた慕容氏の亡命を受け容れた。その中にいたのが土王の腹心の部下となる阿知使主(あちのおみ)の一族である。
阿知使主は後漢霊帝の末裔で、後漢が曹操の魏に滅ぼされてから北魏に移り住んでいたという。
北魏はその草創期から各地の亡命者を受け入れていたようで、土王自身も北魏に亡命した安氏だったので阿知使主らの災難を他人事とは思えなかったのだろう。
409年は『書紀』では応神20年だから阿知使主の来倭も応神朝とされているが、このときも倭王は菟道稚郎子だった。

馮跋の北燕は建国当初から北魏に遼東を押さえられ、領土を求めて高句麗に侵攻するしかなかった。
土王は当時、後ろ盾だった慕容垂・宝父子や個人的に連合していた道武帝を相次いで失い、応神や慕容煕との戦いで戦力も消耗しきっていた。
土王は北燕との無益な戦いは避け、阿知使主の亡命を機に、自身も彼らと共に列島に居を移そうと考えた。

・広開土王が南を巡回した。(『高句麗本記』)

土王は、まずは下見のために淡路島にやって来たようだ。
淡路島はかつてイタケルの要衝だったことからイザナギ・イザナミが一番最初に生んだ島とされたと思われるが、大陸からの騎馬民族にとって侵略ルートの拠点でもあった。ここを占拠されると大和朝廷側は日本海側に逃げるしかない。
応神は孝昭の子として倭国で生まれたが、土王はヤマトタケルと同じ慕容氏に籍があるというにすぎず、列島における地盤はなきに等しかった。性格的に、武力で強引に制圧するタイプではない土王が倭王になるためには列島の諸勢力への周到な根回しが必要だった。

 
■東晋、広開土王を倭王に任じる

411
・土王、いったん高句麗へ帰国。

412
・新羅の実聖尼師今、奈勿尼師今の王子・卜好(ぼくこう)を人質として高句麗に送る。

実聖は奈勿によって高句麗に人質に出されていた人だから、自分が奈勿にされたことをその息子にやり返した形になっているが、これは土王の要請だったと思う。
奈勿は一貫して土王に対して従順だったので、土王は奈勿の王子である卜好にも信頼を寄せていたようだ。
実は、土王にはという幼い跡取り息子がいた。
土王は北燕の馮跋と協議し、高句麗王朝を南平壌エリアに限定して存続させるという条件で、それ以外の高句麗領を北燕に明け渡したのだと思う。そして興が即位できる年になるまで、世が世ならとっくに新羅王になっていたはずの卜好を高句麗王代行に立てたのである。

413
・高句麗と倭国が遣使して方物を献上した。(『晋書』)

高句麗王と倭王の名前は記されていない。
東晋は420年に滅び、宋が建国するが、『宋書』では421年に「倭讃が万里から貢物を修めたので、爵号を与えるよう命じた」とある。
413年の東晋への送使も同じ倭讃だったろうと考えられている。中国の史書における倭の五王の最初の記述である。
しかし413年当時の倭王は菟道稚郎子だが、東晋にも高句麗にも遣使したという記録はない。

高句麗の土王が倭王になる認可を東晋に求め、東晋がこれを承認したのが倭讃であろう。
東晋は滅亡寸前だったが、中国からのお墨付きに変わりはない。
土王はそれまで一度も東晋に送使したことがなく、したがって東晋も土王を一度も高句麗王として承認したことはなかった。それが幸いして土王は倭王に任じられたようだ。倭国での諡は仁徳である。
しかし土王が高句麗王だったことは周知の事実で、その土王をさらに倭王にも任じたとは記録できなかったので、「高句麗と倭国が遣使して」という書き方になったのだ。倭王になることを承認しなかったのなら「高句麗が遣使して方物を献上した」だけでよく、「高句麗と倭国が」にする必要はなかったはずである。

  広開土王 = 倭王讃 = 仁徳


■高璉(長寿王)の謎

413
高璉、高句麗王(長寿王)として即位。(『高句麗本紀』)
・高句麗王の高璉が晋に馬を献じた。(『宋書』)

『高句麗本紀』では、高句麗を去った土王は前年の412年に崩御し、長子の高璉が即位したことになっている。
『宋書』にも同じ年の高句麗王は高璉だったと書かれているからウソではないように見える。
しかし土王は安氏であり、姓は譜とされているから、高姓である高璉と親子であるはずがない。
前述の通り、土王は高句麗を去るにあたり、人質の卜好に南平壌を任せてはいるが、王位は誰にも譲っていないのである。

『高句麗本紀』は、より成立の古い『宋書』の記述に合わせた可能性がある。
少し先の話になるが、高璉を初めて高句麗王として承認したのは北魏だった。435年のことである。
ところが北魏と高璉の関係が悪くなり、439年、高璉は北魏のライバルである宋に加担して800頭の馬を送った。その年あたりに宋は高璉を高句麗王として承認したようだ。
それをまだ宋が建国していない413年に持ってきて、東晋の話にしたのはなぜか。
『宋書』は、東晋が広開土王を倭王讃(仁徳)として承認したことを『晋書』に「高句麗と倭国が遣使して方物を献上した」と表現したのを受け、同じ413年に高璉が高句麗王として即位したことにして、土王が高句麗王のまま倭王を兼任して列島に渡った事実を消し去ったのである。

これは『高句麗本紀』にとっても好都合な話だった。
土王が高句麗を去ると、412年から430年までは馮跋、430年以降は弟の馮弘が北燕王として高句麗のほぼ全域を支配していた。『高句麗本紀』は馮氏を正当な高句麗王としては認めていないが、かと言って新羅からの人質である卜好を高句麗王として記録するわけにもいかず、『宋書』に便乗し、本当は435年だった高璉の即位年を413年に前倒ししたのである。
高璉は57年間も王位にあったことから長寿王と呼ばれたのだが、史料上では即位が前倒しされて在位期間が79年に引き伸ばされ、なおさら「長寿」になってしまった。394年に生まれ491年に亡くなったとされるが、逆に、即位年とされる413年にはまだ生まれていなかった可能性もあると思う。
長寿王という名前はもっちゃりしているので、本稿では「高璉」と呼ぶ。
 

■高璉の父親は誰か

土王の長子とされている高璉の過去は謎だが、のちの行動を見ると列島に関してかなりの事情通だったようだ。
下は『高句麗本紀』における高句麗王家の系図である。

  

広開土王は安氏だから新王朝なのだが、長寿王は高璉だから高氏に戻っていて、本当に美川王の子孫だった可能性はある。
復習すると、美川王は列島にあった懿徳(西川王)の孫で、自身も列島に亡命していたが、懿徳の後押しで300年に高句麗王となり、高氏の高句麗を復活させた。
314年に故国原王を太子とし、320年に敦賀に再上陸してツヌガアラシト伝説の主となり、『書紀』には孝昭天皇として名を残している。『高句麗本紀』では320年以降の記録がほとんどなく、331年に死んだとある。
その年に即位した故国原王は339年に慕容儁の攻撃を受け、和睦を願った結果、前燕から高句麗王に封じられた。高句麗が中国王朝から冊封された最初の例とされる。
369年、故国原王は前燕を攻撃する東晋と呼応して近肖古王の百済を攻撃。しかし列島から百済の救援に来た陳一族に迎撃され、371年に殺された。
そのあと息子の小獣林王、その弟の故国壤王と劉氏派の王が続く。
しかし後燕の慕容垂によって談徳が強引に故国壤王の太子に立てられ、391年に即位した(広開土王)。

私は、高璉は菟道稚郎子の子、つまり応神の孫で倭国生まれだったと考える。
応神即位が390年だから、菟道稚郎子が生まれたのはおそらく390年代前半。その息子ならば、435年の高句麗王即位は十分ありうる。

 
■百済・腆支王、列島に逃げ帰る

半島を南下した土王は、まずは応神系の腆支王がいる百済に乗り込んだ。

414
・百済の直支(とき)王が死んで、子の久爾辛(くにしん)が即位したが、若かったので木満致(もくまんち)が国政を執った。(『書紀』)

前述のように、直支王とは腆支王のこと。
一方『百済本紀』では、腆支王の死と久爾辛王の即位を420年としている。
『書紀』は、腆支王が土王によって百済王の座から追放された年をもって直支王は死んだと記したのだが、本当は腆支王の没年は414年でも420年でもなく、432年まで生きていた。
土王は腆支王の息子の久爾辛を形ばかりの百済王に立てた。そして百済の実権を握ったのは木満致なる人物だった。
木満致は仁徳の次の履中の時代に国政に参加していた蘇我満智と同一人物だとする意見が多く、私もそう思う。のちの蘇我稲目や馬子は百済の大物政治家の子孫だったわけである。

当時の倭王・菟道稚郎子は、木満致が久爾辛王の母と密通するなど無礼なことが多かったので、倭国に呼び出したという。しかし腆支王は生きているのだから、菟道稚郎子に呼び出されたのは木満致ではなく、責任者である腆支王だったと思う。
腆支王は404年に祖父の応神と父の阿華王を同時に失い、405年に菟道稚郎子に擁立された百済王だった。
そして祖父と父の仇である土王に、今度は自分も百済王の座を追われたのだから、呼び出されたというより、叔父にあたる菟道稚郎子のもとに逃げ帰ったというのが真相だろう。

416
・腆支王、東晋に使者を送り、百済王の冊封を受ける。(『宋書』)

腆支王は倭国から東晋に使者を送り、百済王の冊封を受けた。必ずしも百済王の承認を求める使者は「百済から」送らなければならないというものではなかったらしい。
東晋には応神系の腆支王を百済王に任じる積極的な理由はなかっただろう。おそらく、3年前に倭国王として承認した土王の勢力が列島と百済にまたがるのを嫌ったのだ。
そんな東晋の思惑通り、東晋のお墨付きを得た腆支王は倭国で菟道稚郎子と連合し、土王に抵抗を続けた。

・仁徳は国見をして、国民が貧しいのを見て3年間、課役を免じた。3年後、もう一度国見をしたら五穀豊態になっていた。(『書紀』)

土王は再び淡路島に上陸し、そのまま3年留まった。
東晋から倭国王として承認されてはいても、即位を実行するには応神系の現地勢力との衝突は避けられない。
土王は北燕との衝突を避けて高句麗を去ったように、とにかく無益な戦いを嫌う人だったようだ。応神のように好戦的な人は勝ったり負けたりを繰り返すが、土王の戦績がほぼ全勝だったのは勝てる戦争しかしなかったからである。即位後の課役を免じるなどのエピソードから窺えるように、軍人であるよりも統治者としての意識の方が高かったようだ。
なお『書紀』に淡路島で生まれたとある反正天皇は土王の子で、土王の淡路島滞在中に生まれたと考えられる。

 
■菟道稚郎子の死

417
・高麗の王が朝貢してきたが、その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあった。菟道稚郎子は怒って破り捨てた。(『書紀』)

この上表文は、東晋から倭王に任命された土王が、かつて倭王即位に協力して恩を売った菟道稚郎子相手に、いよいよ譲位を要請する内容だったと考えられる。
怒って破り捨てたとあるのが、菟道稚郎子その人が倭国王だった何よりの証拠である。
『書紀』では、菟道稚郎子は「兄」の仁徳がすべての面で天皇に相応しいので譲位しようとしたが仁徳に固辞され、「自分は兄の志を変えられない。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と言って自殺したとあるが、実の兄弟ならそんなことで自殺まではしないだろう。
土王は淡路島で1年間、菟道稚郎子が自殺するまで待っていたのだ。難波で倭王として即位するのはさらに2年後である。
菟道稚郎子と連合していた腆支王は、半島の「東韓の地」に逃亡したと思われる。

 
■卜好、新羅王(訥祇)になる

417
・高句麗にいた卜好、新羅に帰国して実聖王を殺し、即位(訥祇麻立干)。

北燕は北魏の攻撃を受け、混乱状態となった。
『書紀』には、実聖王の新羅が倭国に対して反抗的で、両国間にいざこざがあったことが記されている。
仁徳は、南平壌にいた卜好に実聖王殺害を命じたと考えられる。
この任務を遂行した卜好は即位して訥祇(とつぎ)麻立干となった。訥祇は奈勿の王子だから、元の金氏本流に戻ったわけである。
訥祇は父親の奈勿尼師今を新羅の始祖として祀り、自身が新羅王として正統であることをアピールした。
卜好と共に南平壌にいた土王の太子の興については不明だが、そのまま南平壌に残ったと仮定しておく。

418
・北魏が北燕の首都の龍城を攻め、北燕が遼東の大半を失う。

 
■仁徳即位

419
・広開土王、難波の大隅宮(現在の住吉神社あたり)にて倭王として即位(仁徳)。

皇后は葛城磐之姫。
『古事記』によると、仁徳には吉備の海部直の娘の黒日売という妃がいたが、皇后の嫉妬が激しいので吉備に逃げ去ったという。
また皇后は、仁徳が八田若郎女(やたのわきのいらつめ)に浮気をしたときも大激怒している。
単に仁徳が好色だったとか、磐之姫の悋気がハンパじゃなかったという話のようだが、黒日売は吉備、磐之姫は葛城氏だから大和、そして磐之姫の死後に皇后になる八田は応神の娘だから、仁徳が列島の全ての主要勢力と婚姻関係を結び、受け容れられようとした事実を伝えているのである。

420
・東晋の家臣の劉裕、東晋を滅ぼしてを建国。
・百済の腆支王が亡くなり、久爾辛王が即位。(『百済本紀』)

『百済本紀』は420年に腆支王が死んで久爾辛王が即位したとしているが、それまで何度も百済と列島を往復した腆支王が、仁徳に呼び出されて最後に百済(東韓の地)を去ったのがこの年だった。
仁徳は応神系の腆支王という危険極まりない人物を、殺さないまでも監視の目が届くところに置いておきたかったのだろう。

421
・仁徳、宋に送使。

宋の建国を祝賀するための送使と思われ、『宋書』に「万里の遠くから朝貢してきた誠意に応えて叙授した」とある。
このときの使者は阿知使主らだったが、高句麗から宋(建康)への旅程がわからず、高句麗王が親切に道案内を付けてくれたという。
当時の高句麗王と言えば、北燕の馮跋しかいない。
馮跋が阿知使主らを建康に連れて行ったのは、馮跋自身もそこに大切な用事があったからだ。
彼は北魏のプレッシャーに耐えかね、もはや北魏と敵対関係にある宋に頼るほかはなかったのである。

424
・宋、馮跋を高句麗王に任じる。(『宋書』)

宋は馮跋を「北燕王」ではなく「高句麗王」として承認した。領土が高句麗そのものなので、伝統ある高句麗の名が用いられたのだろう。
しかし『高句麗本紀』の王系譜に馮跋の名は見えず、高璉の即位年を引き上げ、北燕に支配されていた事実を抹消していることはすでに述べた通りである。

 
■武内宿禰のその後

『古事記』に仁徳と久々に登場する武内宿禰が歌で会話のやり取りをするミュージカル的な場面がある。
仁徳:信頼する武内宿禰よ。お前は長寿の人だが、大和の国で雁が卵を産んだという話を聞いたことがあるか。
武内宿禰:聞いたことがありません。(ここからは琴にあわせて歌う)御子のあなたが、いついつまでも国をお治めになるであろうと、雁が玉子を産んだのでしょう。

雁は列島に飛来するが、繁殖のためではないから卵は産まない。「雁が卵を産む」とは、倭国に定着し、子孫を残すという意味である。
仁徳は慕容儁の息子である武内宿禰に、倭国王として復帰する野心があるかどうかを尋ねたのだ。武内宿禰はそれを否定し、仁徳を安心させたという話である。

武内宿禰(近仇首王)は仁徳に仕える気もなければ戦う気力もなく、倭国を去って百済で生涯を終えたようだ。百済の南西、栄山江流域には5〜6世紀の倭国独特の前方後円墳がいくつか存在し、倭国特有の円筒埴輪も出土している。


■仁徳崩御の真相

仁徳の死については『記紀』に微妙な違いがある。
『古事記』:丁卯の年(427)の8月15日に83歳で崩御された。
『書紀』:87年春1月16日、天皇は崩御された。

どちらも死因(病死とか)には全く触れられていない。そのこと自体は特に珍しくはないが、『書紀』の仁徳の晩年には大蛇、二つの顔を持つ男、鹿に化ける竜などが登場し、讖緯説的で解読不能な記事が続く。天皇が外国からの勢力との戦いで敗死したとか、事実を書き残すわけにいかない死に方だった場合の特徴である。

424
・新羅、高句麗に修好を求めて送使。(『高句麗本紀』『新羅本紀』)
・高句麗が鉄の盾・鉄の的を奉った。(『書紀』)

ここにある高句麗とは、実際は北燕のこと。
『高句麗本紀』は倭国との交渉は記さない方針だから、倭国が北燕に送使し、新羅使者もそれに同道したというのが真相である。当時の新羅王は仁徳の指令によって実聖王を殺して即位した訥祇だから、身内も同然だった。
彼らが北燕の送使を伴って帰国したのが『書紀』の「高句麗が鉄の盾・鉄の的を奉った」という記事である。
北燕人の来倭はおそらく北燕の安否を気遣った仁徳への返礼であり、また今後のことを相談するためでもあったろう。土王の太子・興のことも議題に上がったのではないかと私は思う。

仁徳は北燕の客を朝廷でもてなし、鉄の盾・的を試した。
このとき盾人(たてひと)宿禰だけが鉄の的を射通し、北燕の客達が絶賛したという。
仁徳の崩御が近いこの時期、その後二度と現れることもない盾人宿禰という射撃の名手がいたというエピソードはいったい何のために挿入されたのか。
思い切った仮説だが、私はこの盾人宿禰こそ菟道稚郎子の息子・高璉であり、仁徳は最後、高璉に撃ち殺されたのだと思う。

  

仁徳は菟道稚郎子が自殺するまで待っていたぐらいだし、阿華王の子・腆支王にも手を出さなかった。ならば菟道稚郎子の息子にも手は出さなかっただろう。
しかし従兄弟にあたる腆支王と同様、盾人宿禰にとって仁徳は父と祖父の仇であった。

425
・仁徳、宋に二度目の送使。
・百済の腆支王も宋に送使。

仁徳は427年に没したとされるが、王の死はすぐには発表されないから、425年、高璉が仁徳の宋への送使を妨害するために淡路島で立ちふさがり、自慢の射撃術で仁徳を狙撃し、父と祖父の仇を討ったと見る。
しかし宋への送使を阻止するには至らなかったようで、送使は仁徳の死を隠したまま予定通り行なわれた。
その結果、宋は(仁徳)を倭国王に任じた。
しかし仁徳はすでに亡く、仁徳朝は即位からわずか6年で終わってしまったのである。
東晋から百済王に任じられた腆支王も宋に改めて送使しているが、この件についてはまた次回。

高璉はのちに新羅を舞台に訥祇と何度も交戦するのだが、日本海ルートで列島に上陸し、列島から新羅を攻めるパターンが多かった。高璉が菟道稚郎子の息子だったからこそ、倭国の応神系勢力との連携が可能だったのではないか。