崇 峻

崇 峻

 崇峻は即位していなかった

 蘇我馬子と炊屋姫は兵を挙げて穴穂部皇子を殺害。さらに物部守屋を滅ぼしたあと、炊屋姫は穴穂部の弟の崇峻を即位させ、馬子を前のように大臣としたという(『書紀』)。
 蘇我・物部戦争で蘇我側が勝利したのに、物部系の崇峻が即位するというのはおかしい。
 ここですぐに炊屋姫すなわち推古が即位する手もあったと思うが、もともと継体ファミリーには女帝という習慣がなく、炊屋姫は一度も即位したことはなかったと私は考えている。

 では、威徳王の子の彦人大兄竹田皇子はどうか。
 守屋の家来だった中臣勝海が、穴穂部を即位させるためにこの2人の人形に呪いをかけたという話があるほどで、彼らこそ王位継承の有資格者だったはずだ。

 守屋のクーデターは、用明を殺して穴穂部を立てようとするものだった。
 穴穂部が即位し、影で守屋が実権を握るという事態だけはどうしても避けたかった馬子は、達頭を将軍とする西突厥軍に守屋退治を依頼し、成功報酬として、達頭を炊屋姫の婿に迎え、倭王として認めることにしたのではないか。
 したがって、達頭が正式に倭王になる604年まで、倭国は大王不在で、大王経験のある馬子が代行を務めていたというのが真相であると私は考えている。

 崇峻は本当に殺されたのか

 591年、崇峻は大王の権限で任那復興の詔を発し、新羅征討の準備を進めさせたとある。
 翌592年、猪の貢ぎ物があったとき、崇峻は「いつかこの猪のように、いやなやつを斬ってやりたいもんだ」と口をすべらせ、これが馬子の耳に入って、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されたという。

 崇峻にとって馬子が「いやなやつ」である理由は、もちろん兄の穴穂部の仇だからだ。
 崇峻に馬子と仲良くしろというのは無理な相談であり、また崇峻は、阿波だろうと達頭だろうと、とにかく突厥人とは関わりたくないという百済王子のプライド、また物部氏の生き残りとしてのプライドもあったと想像される。
 筑紫への出兵には、達頭の北九州上陸を阻止する目的があったのかもしれない。

 しかし、崇峻は即位してはいなかった。
 大王の権限で兵を動員したわけではなく、あくまでも物部氏を中心とする私兵にすぎなかった。
 崇峻は、筑紫に「死に場所」を求め、覚悟の末に飛び込んで行ったのかもしれない。

 穴穂部間人皇女

 崇峻が『書紀』の記述通り馬子に殺されたのか、それとも九州で戦死したのかは定かではない。
 確かなのは、残された姉の穴穂部間人皇女が、こともあろうに聖徳太子の母とされ、同じ墓に埋葬されたという事実である。
 母でないことは確実だから、同じ墓に埋葬されている以上、穴穂部皇女は倭国における達頭の妻のひとりだったとしか考えられないだろう。

 穴穂部間人皇女の「はしひと」は「波斯人」(ペルシア人)を連想させる。
 達頭は突厥可汗・イステミ(シルジブロス)の娘婿だが、出身はササン朝ペルシアの王子だったと思われる。王子なればこそ、強国の突厥に婿入りできたのだ。
 達頭の母親はペルシア人だったのである。
 のちに聖徳太子が達頭であった事実を隠滅する工作の中で、達頭の妻・穴穂部皇女は、太子と同じ墓に埋葬されたことから「太子の母」とされ、本物の太子の母がペルシア人だったことを暗示する「はしひと(間人)」の名が付けられたのではないか。厩戸皇子が達頭よりもかなり年少に設定されているのは、用明と穴穂部皇女の間に生まれたことにした結果である。

 法隆寺に隣接する中宮寺は、太子の母の住居跡とされ、如意輪観音像(国宝)のモデルも穴穂部間人皇女だったと伝えられている。しかし太子の別名は「上宮法王」だから、それに対する「中宮」は妻と考えるのが自然だろう。如意輪観音像の若々しい美しさもまた、母親というより妻のイメージである。
 実際の穴穂部間人皇女は崇峻の姉で、物部系だから、中宮寺もまた、太子と蘇我氏によって建てられた物部氏追悼寺のひとつだったと言える。

 崇峻暗殺の記事が暗示するもの

 崇峻天皇は、生前に皇后がなかった点や、その死後、殯が行われなかった点からも、実際に天皇として即位していた可能性は薄いと指摘する学者は多かった。
 しかし、私が「即位していなかった」という確信を得たヒントは、やはり『書紀』にあった。

 「天皇が殺されたという記事は載せない 」というのが、天皇の権威を高めるため、また簒奪王朝の存在を否定するために、『書紀』には欠かせないルールだったと思われる。
 実際、用明や天智は病死とされ、山背、大友、大津らの場合は「まだ即位していなかった」とされている。(彼らが即位していたことについては、このあと、それぞれの章にて解説する。)
 ならば、崇峻だけ「殺された」と明記されているのはなぜか?

 これがルール違反ではないケースが、ひとつだけありうる。
 崇峻が実際は即位しておらず、『書紀』が書かれた頃の知識人にも、まだそれが周知の事実であった場合だ。
 「天皇が殺されたという記事は載せない 」というルールはここでも生きていた。
 「殺されたと書かれている天皇は、天皇ではなかった」のである。

 崇峻は、わざわざ「殺された天皇」を演じるために『書紀』の編者によって即位させられたのだ。
 ならば、『書紀』は「崇峻がただひとり殺された天皇」だと言いたかったのではなく、蘇我馬子が「ただひとり天皇を殺した男」だったことの方に重点を置いていたことになる。

 日本の長い歴史の中で、天皇を殺した男は1人や2人ではなかっただろう。
 馬子だけが「ただひとり天皇を殺した男」として正史に記録されたのは、馬子が殺した天皇が「天皇の中の天皇」だったことを意味するのである。