仲 哀


■神功は百済比流王の娘

346年、慕容儁は扶餘を攻め、さらに百済に遠征して契王(劉氏派)を倒し、儁の長男・を百済王に立てた(近肖古王)。
曄はさらに列島に渡って残存する劉氏系勢力を鎮圧。列島から新羅にも攻撃をしかけたが、訖解尼師今(劉氏派)を倒すには至らなかった。
曄は347年に倭王としても即位(仲哀)。
儁は自身の倭国での戦いにピリオドを打ち、曄に百済と列島の統治を任せ、遼東に帰った。
・・・ここまではすでにお話しした通り。

話の順序として、仲哀の皇后である神功について説明しておく。
『書紀』では、神功は開化天皇の四世孫で、母は葛城氏となっている。しかし開化は欠史八代王朝のアンカーで、神功よりあとの5世紀の人だから、事実ではありえない。
鎌倉時代の寺社縁起『八幡愚童訓』に「震旦(中国)の隣の国の大王の娘の大比留女が日の光を受けて懐妊し、八幡神を産んだ」とある。
八幡神とは応神天皇であり、応神の母は神功とされているから、大比留女=神功ということになる。
神功の父は、中国の隣の国すなわち百済の王で、名前に「ヒル」がある比流王であろう。
神功を大比留女、比流王を「震旦の隣の国の大王」などとぼかしているのは、神功が外国人だったとは公言できなかったからである。しかしここまで書けるようになっただけでも、さすがに鎌倉時代は武士の時代だったのだなあと思う。天武の年齢問題もそうだが、『記紀』の時代の真相は、意外と鎌倉時代以降に語られているのである。

また、同じ鎌倉時代の『大隅宮縁起』に、大比留女の父は陳大王だったとある。
父親が2人いるのはおかしいから、陳大王は母方の祖父ではないか。
この時代、陳安という武将がいた。以下、陳大王=陳安と仮定する。

  神功 父:比流王
     母:陳安の娘 母父:陳安

陳安は丹波王国の狹穂彦に仕えた武将で、劉曜が狹穂彦を滅ぼすと劉曜に降ったが、やがて行方をくらました。
陳安は真浄と名を変えて百済で大臣を務め、娘を皇族の比流王に嫁がせた。これが神功の母となる。
304年、百済汾西王が死去。息子の契王は幼かったので、代わりに即位したのが比流王である。これがきっかけで陳安は外戚として百済の実権を握るようになる。
344年10月に比流王が死去し、いったん契王が王位についたが、346年、慕容儁と恪によって滅ぼされた。
陳安にとっては再びチャンス到来。儁の長男の曄に神功を与え、曄が近肖古王となり、神功はその王妃となったのだ。

近肖古王は即位してすぐに史上から消え、347年に倭国で仲哀として即位する。
このとき、神功と陳一族も一緒に列島に渡って来たと見る。
曄はまだ若く、しかも武闘派ではなく文人タイプだった。仲哀即位が実現したのは、儁の列島における威光もさることながら、陳一族の全面的なバックアップがあったからだ。そうでなければ曄だけで「残存する劉氏系勢力を鎮圧」などできなかっただろう。
丹波王国の狹穂彦に仕えた陳安は列島の地理に明るく、百済王家の外戚として実権を握ったその権勢欲は、さらに列島から新羅へと拡大されていく。「何もない熊襲より金・銀などの財宝のある新羅を攻めたほうがよい」という神功のセリフで有名な新羅遠征も、実は陳一族の野望だったのである。

 
■「タラシ」が意味するもの

『書紀』に、ヤマトタケルは垂仁の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけ)、仲哀、布忍入姫命(ぬのしいりひめ)、稚武王(わかたけ)を生んだとある。
ここで景行〜成務〜仲哀〜神功の和風諡号を見ていただきたい。

  景行:大彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)
  成務:稚彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)
  仲哀:仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)
  神功:気長姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)

足(タラシ)が付くこの4代をタラシ系王朝と呼び、それ以前を三輪王朝(あるいはイリ王朝)、応神以降を河内王朝とする分類方法があり、タラシ系王朝こそ九州王朝ではないかという説もある。

慕容皝の後を継いで前燕の2代目君主となる慕容儁の皇后を可足渾(かたりこん)という。
名前からして慕容廆(儁の祖父)の兄・吐谷渾(とよくこん)と関係がありそうだ。とりあえず孫と仮定しよう。
吐谷渾は慕容廆に追放されて青海地方に移住し、子孫たちは吐谷渾をそのまま国名とした。
しかし廆は列島にも侵入しているから、その勢いに便乗して大和に定住した吐谷渾の息子がひとりぐらいいても不思議ではないだろう。
皇后時代の可足渾は、慕容垂の妃(段氏出身)を投獄し獄死させたことがある。出自を侮辱されたからであるらしいが、鮮卑の段氏にさえバカにされるのは列島出身者ぐらいしかいない(笑)。

慕容儁も列島出身であることを忘れてはならないだろう。
ホムツワケ(儁)が生まれたのは317年。慕容廆が亡くなる333年以前に遼東に渡っているから、17歳以前に列島で育った時代がある。346年に長男の曄が百済で即位(近肖古王)したときに儁はまだ30歳だから、曄は儁の15歳のときの子だったとしてもまだ15歳。曄が儁の列島時代に生まれていたことはほぼ間違いない。
曄は356年に早逝したとされ、350年生まれの弟のが儁の後継者となるのだが、その前は曄が王太子だった。にもかかわらず、曄は誕生年も母親も史料に残されていない。
暐の母親は可足渾だとわかっている(下図)。

  慕容暐 父:儁   父父:皝   父父父:廆
            父母:狹穂姫 父母父:丹波道主
      母:可足渾 母父:不明  母父父:吐谷渾(廆の兄)

吐谷渾の子が列島に渡り、可足渾はその娘。儁と同年代ならば、十代で儁と結ばれて曄を生み、30代で暐を生むことは普通にありうる。
景行は架空で、実際に倭王だったのはヤマトタケル(儁)だから、景行の諡号の「大足彦忍代別」はヤマトタケルに与えられたものと言っていいだろう。「足」は可足渾の「足」である。
しかし息子の仲哀(仲彦)に母の一字があるのはともかく、夫の諡号に妃の一字があるのはおかしいから、これは豊葦原瑞穂の国の「葦(あし)」も意味しているのではないか。欠史八代は別として、古代の天皇たちは神武系、劉氏、慕容氏といずれも渡来人だった。だから同じ慕容氏でも、ヤマトタケルや仲哀には特別に「列島生まれ」を暗示する「足(葦)」が入れられたと考えられるのだ。
では稚足彦(成務)の場合はどうだろうか。

 
■成務のモデルは武内宿禰

『書紀』に、成務は景行の第4子、仲哀はヤマトタケルの二男とある。したがって仲哀は景行の孫になっている。

 

しかし何度も言うように景行は架空だから、成務は本当はヤマトタケルの子で、仲哀が二男というのだから成務は長男だったと見る。

 

もう一度、景行〜成務〜仲哀の和風諡号を見てみよう。

  景行:足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)
  成務:足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)
  仲哀:足彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)

「大>稚>仲」という不自然な順序になっている点に着目してほしい。
『書紀』に記されている即位順は、実は正しくない。
仲(中)は真ん中にあるべきで、成務と仲哀をひっくり返すと、ちゃんと「大>仲>稚」になる。

景行、成務、仲哀の即位年は全て辛未(かのとひつじ)である。仲哀の即位年の干支は『書紀』には見えないが、成務が成務60年に亡くなり、仲哀はその翌年に即位したとあるから辛未で間違いない。
景行朝も成務朝もピッタリ還暦の60年なのだ。いかにも『書紀』の作為が感じられるではないか。
成務朝を削除しても仲哀即位の干支は変わらない。それが347年なら、神功の新羅征伐の時代とうまく重なる。

成務条はとても60年も続いたとは思えないほど内容が薄く、天皇と誕生日が同じという武内宿禰を大臣にしたことと、天皇の「これからは国郡に長を置き、県邑に首を置こう」という宣言、そしてそれにしたがって国の制度を整備したという話しかない。

成務は仲哀の大臣だった武内宿禰がモデルで、景行と同様に架空の天皇だったのだ。
『書紀』は神武即位をBC660年に置き、歴史を900年以上引き伸ばしているので、それを消化するために古代の天皇の年齢を百歳以上にしたり、欠史八代王朝を崇神の前に置いたりしている。架空の成務朝を挿入したのも、それで60年分の尺が稼げるからである。
しかしこの方法がむやみに使われているわけではないので、武内宿禰を天皇として記録しておきたい特別な理由もあったようだ。

『書紀』の成務条に「天皇と武内宿禰は同日生まれ」とあるのは同一人物だから当然だが、『書紀』が誕生日が同じとすることによって同一人物であることを暗示する例はほかにはなかったと思う(あったらゴメン)。
文脈的にはこの天皇は成務なのだが、崇神条で「天皇は」とあっても大彦命のことだったり劉曜のことだったりする『書紀』のことだから、この天皇も成務ではなく仲哀のこととして書いている可能性がある(同じ「天皇」だからウソにはならない)。仲哀と武内宿禰の誕生日が同じだったか、少なくとも同年齢だったのではないか。

『書紀』では武内宿禰と成務は別人だから、母親も別々に記されている。

  武内宿禰の母:紀直(きのあたい)の先祖・菟道彦の娘・影媛
  成務の母  :美濃の八坂入彦皇子の娘・八坂入媛

景行は、最初は八坂入媛の妹の弟媛(おとひめ)を妃にしたいと思っていたのだが、弟媛は竹林に隠れてしまったという(これが意味するところは「応神」で考察する)。
欠史八代王朝の孝元天皇の皇子に彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)という人がいて、その人は武内宿禰の祖父とされている。成務の母方の祖父・八坂入彦皇子にも「皇子」が付いているから、彦太忍信命=八坂入彦皇子であると考えられる。
したがって『書紀』に「成務の母」とある八坂入媛の方が「武内宿禰の実母」であろう。
もちろん父は景行ではなくヤマトタケルである。

 武内宿禰 父:ヤマトタケル
      母:八坂入媛 母父:八坂入彦(彦太忍信命)母父父:孝元?

ヤマトタケルは可足渾と同時期に八坂入媛とも関係があり、曄(仲哀)と武内宿禰はほぼ同時期に生まれたのだろう。
ヤマトタケルは慕容儁としていったん遼東に帰り、そのとき曄も連れて帰ったが、武内宿禰はそのまま列島で育ち、曄が列島に復帰して仲哀となってから、これを補佐する大臣になったのではないか。

『書紀』に、ヤマトタケルは垂仁の皇女・両道入姫命を妃とし、稲依別王、仲哀、布忍入姫命、稚武王を生んだとあることはすでに書いたが、仲哀を2番目としているのは、八坂入媛の子・武内宿禰という兄の存在を暗示しているのだろう。
一方、成務は景行の第四子とされ、その名を「稚足彦」という。
そこでヤマトタケルの第四子を見ると「稚武王」になっていて、こちらの方が「武」もあって、武内宿禰の幼名にふさわしい。『書紀』には思いがけない形で真相が記されているのである。
 
 
■慕容儁(ヤマトタケル)、前燕の2代目君主となる

348
・慕容皝、死去。

皝の希望は、末子のを後継者とし、恪をその補佐役、そして儁は倭王として列島に置いておくことだったようだ。
儁は、皝が元気なうちは遼東に帰るのを禁じられていたのかもしれない。しかし垂との後継者争いを制するため、息子の曄に百済王と倭王を兼任させ、皝の死の前年に遼東に帰国したのだった。
恪も儁の味方だから、皝への説得に当たっただろう。
結局、垂よりはるかに年長だった儁が、順当に皝の後継者に決まったのである。
(下図の赤字が前燕の君主。)

 
       
・仲哀、笥飯(けひ)行宮から数百人の手勢を連れて征討に出発。

仲哀の最初の行宮は、崇神朝に劉氏派のツヌガアラシト(美川王、孝昭)が上陸した敦賀の笥飯だった。
『書紀』によると、仲哀は熊襲を討つために紀の国(和歌山市)から船で穴門(山口県豊浦郡)に行き、敦賀に使いをやって神功皇后を呼ぶ。神功も敦賀から出発し、日本海側を回ってきて合流。2人は穴門豊浦宮を建てて354年まで滞在したという。九州王朝ではなく、正しくは「山口王朝」だったと言うべきか。
神功の出発点も敦賀だから、やはり2人は一緒に百済から敦賀に上陸したことがわかる。
そこから別々のルートをとって穴門に向かっているが、346年に新羅の訖解尼師今を攻撃して失敗したのは神功と陳一族で、曄はこの遠征に参加してなかったことを意味しているのかもしれない。

349
・慕容儁、前燕の2代目君主として即位。
・前年の皝に続き、皝の長年の宿敵だった後趙の石虎も病死。

 
■苻(ふ)氏、前秦を建国

350
・東晋、慕容儁を燕王に任じ、苻洪を征北大将軍に任じる。
・苻洪、石虎の旧臣に暗殺される。
石閔後趙を滅ぼし、大魏を建国。

苻洪を盟主とする苻氏は五胡のうちの氐族で、発祥は雲南地方である。
苻洪の生家の池には蒲(がま)が生え、その高さは五丈にもなり、竹のようだった。それゆえ蒲家と言われ、蒲を姓にしていた。あるとき占師が「艸付応王(艸は王なる者に付く)」と占い、苻氏に替えたという。

永嘉の乱(311)で西晋が混乱すると、苻洪は長安の劉曜(前趙)に仕え、329年に劉曜が石勒(後趙)に殺されると石勒の配下になった。
しかし334年に即位した石虎は苻氏一族を警戒し、苻洪の長男と二男は暗殺されてしまう。
洪は石虎のもとを去り、東晋に仕えることにした。
石虎の病没後、洪は東晋から征北大将軍に任じられ、これからというときに石虎の旧臣に暗殺された。
洪の後を継いだのは三男の苻健だった。

後趙の石虎一族も石虎の死後は混乱し、石虎が養孫として可愛がっていた閔(びん)によって滅ぼされた。
石閔は大魏を建国。

351
・苻健、秦を建国(前秦)。長安を都とする。

のちに西秦と後秦が起こるので、本稿ではこの秦を「前秦」で統一したい。
前秦は高句麗と共闘し、帯方郡を勢力基盤に持つ慕容氏(前燕)とは対立関係にあった。
慕容氏が対立する相手は劉氏からその配下だった石氏へ、そして石氏の配下だった苻氏へと変わったわけだが、劉氏〜石氏〜苻氏という一連の流れを、劉氏に端を発しているところから便宜上「劉氏系勢力」と呼ぶ。


■慕容儁、中国皇帝を自称

352
・前燕の慕容儁、恪と垂を大将にして石閔を攻め、殺害。大魏滅ぶ。

石閔の大魏はわずか2年で慕容恪に滅ぼされてしまい、五胡十六国の中にも含まれていない。

・慕容儁、中国皇帝を自称。

前燕の2代目・儁は、東晋を差し置いて中国皇帝を名乗った。慕容氏としては初の暴挙である。
しかし東晋はこれを黙認し、儁に祝賀の使者まで送っている。
東晋は慕容皝のときも石氏の台頭を考慮して皝の専横を黙認したが、今回も苻氏の台頭が頭にあったのだ。
東晋は慕容氏の軍事力なくしては成り立たなかったのである。

353
・慕容儁、妃の可足渾を皇后に、曄を王太子に指名。

354
・東晋の恒温、前秦の苻健を攻撃するが失敗。

前秦は征西大将軍の恒温を撃退してから急成長し、華北を前燕と二分する勢力となった。

・仲哀、熊襲征伐に失敗。

穴門豊浦宮にて神功が神懸かり、何もない熊襲より金・銀などの財宝のある新羅を攻めたほうがよいと言った。仲哀は海のかなたには海しかないと反対した。仲哀はひとりで熊襲征伐に出たが、勝てずに帰って来たという。(『書紀』)

神功は346年、すでに新羅の訖解尼師今(劉氏派)を攻め、失敗に終わっている。
強硬に新羅へのリベンジを主張する陳一族や神功に対し、そもそも仲哀は武闘派ではないし、陳安ほど強欲ではなく、不要な戦いは避けたいタイプだった。しかし神功の実家で、倭王としての自分の後援者でもある陳安に逆らえる立場でもない。「ひとりで熊襲征伐に出た」というのも事実とは思えない。
悩んだ仲哀がとった行動とは?(つづく)