雄 略

 
■「天王」

『書紀』の雄略5年(461)に以下のようにある。
「秋七月、軍君は京にはいった。すでに五人の子があった。『百済新撰』によると、辛丑年(461)に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ、天王にお仕えさせた。そして兄王の好みを修めたとある」

軍君(こにきし)と昆支(こんき)は同じで、『百済本紀』には「蓋鹵王の子で文周王の弟」、『書紀』には「蓋鹵王の弟」とある。このように一致しない場合、どちらも事実でないことが多い(笑)。
『書紀』の安康即位と雄略即位は4年ずつ前倒しされていて、雄略5年は実際は安康4年。ここにある「天王」も雄略ではなく安康である。「天王」は遊牧民族における「皇帝」を意味する言葉で、「天皇」の語源かもしれない。

『書紀』は『百済新撰』からの引用として「昆支が雄略に仕えた」という話にしているが、461年、蓋鹵王の命を受けた百済の総大将・昆支が北九州に上陸し、大和に進軍して安康と円大臣(実は欠史八代王朝の開化)を殺害後、自ら雄略として即位したというのが真相である。
昆支は北燕から百済に亡命した馮氏だから北魏の文明太后とは同族だが、共に馮弘の血をひくぐらい近い血縁関係にあったと感じられる。ことによると兄妹だった可能性さえある。

  

 
■雄略の皇后と子供

雄略の皇后は仁徳の娘・幡媛皇女(大草香皇子の妹)とされている。
前回述べたように、雄略は『書紀』では「允恭の子」「安康の弟」という設定で、安康が弟のために幡媛皇女を娶りたいと考え、根使主(ねのおみ)を使いに出した。大草香は快諾し、家宝の押木玉縵(おしきのたまかずら)を捧げ、根使主に持たせた。ところが根使主はその押木玉縵があまりにも立派なのでネコババし、安康に「大草香は妹を差し出すことはできないと言いました」とウソの報告をした。安康は怒って兵を遣わして大草香を攻め殺し、大草香の妻・中蒂姫命(なかしのひめみこ)を奪い、幡媛皇女を雄略に娶あわせたという。

まだ安康として即位する前の興が百済に侵入し、異母弟にあたる毗有王(大草香)を暗殺したというのが真相で、安康は毗有王の妃だった中蒂姫命を自分の皇后に立てたのである。
では、幡媛皇女はどうなったか。
百済の毗有王の次に即位したのは息子の蓋鹵王。したがって幡媛皇女の甥っ子にあたる。
雄略の正体は蓋鹵王に仕えた将軍・昆支だから、蓋鹵王が昆支にまだ独身の叔母の幡媛皇女を娶せたというストーリーが考えられる。つまり『書紀』は、蓋鹵王と昆支の間で起きた話を、安康と雄略に置き換えているのだ。
しかし年齢差もあったのか、雄略と幡媛皇后との間に子供が生まれたという記録はない。
雄略には、このあと出てくる稚媛との間に磐城皇子と星川皇子、円大臣の娘・韓媛との間に白髪皇子(清寧)が生まれた。そして武烈も本当は雄略の子なのだが、それについてはまたのちほど。

 
■一言主大神

『古事記』によると、雄略が官人たちを引き連れて葛城山に登ったとき、反対側の山の尾根から、人数も着ているものも天皇の行列とそっくりな行列が登ってきた。相手が「葛城の一言主(ヒトコトヌシ)の大神だ」と名のると雄略は畏れかしこまり、全ての武器や衣服まで献上した。一言主神はたいそう喜び、雄略を宮殿の近くまで送ったという。

『書紀』にも似たような話があるが、一言主神は雄略によって滅ぼされた葛城氏(休氏)系王朝の象徴であることは明らかだろう。一言主神の方が上のように描かれてはいるが、少し屈折した「国譲り神話」と言えよう。
のちの『続日本紀』になると、高鴨神(一言主神)が雄略と獲物を争ったため雄略の怒りに触れて土佐国に流されたとあり、ずいぶん一言主神の権威が下がっている。ここには狩りに出かけた天智が天武に拉致され、土佐に幽閉されたという伝説も組み込まれているようだ。天智は即位前の名を葛城皇子といい、雄略に滅ぼされた葛城氏系王朝同様、天智系は天武系に滅ぼされている。

大和の欠史八代王朝や慕容氏系・劉氏系から見れば雄略は百済から来た簒奪者に違いないが、雄略以降の倭王たちにとっては偉大な先駆者だった。半島から北九州に上陸し、大和に東征して旧王朝を倒し、新王朝を建てたという事績は神武に見劣るどころか神武そのものである。『万葉集』の巻頭を飾っているのが雄略の歌であるという事実も、奈良時代には雄略が初代天皇として扱われていたことを物語っている。


■新羅の反倭国派

462
・倭軍が新羅に侵攻。(463年にも。)

464
・高句麗が新羅を攻め、慈悲麻立干(訥祇の長子)が倭国に援軍を要請。

倭国の実権を握った雄略は新羅を傘下に収めようとした。
そこに参戦してきたのが高句麗の高璉だった。
「慈悲麻立干が倭国に援軍を要請」とあるが、倭国はそもそもの対戦相手ではないか。
本来なら、訥祇の仇である安閑を討ってくれた雄略は新羅に感謝されてしかるべきなのだが、大和の神武系王朝まで滅ぼしたのが問題だった。神武は新羅の初代・赫居世と同じ休氏で、新羅は同族意識を抱いていたからである。
しかし倭国軍が高句麗軍に勝利し、新羅は雄略の支配下に置かれることになった。

反倭国派の急先鋒は加羅にあった葛城襲津彦の後裔らしい。
「神功」ではスルーしたが、385年、苻洛(応神)が半島を通る時、新羅の奈勿尼師今(訥祇の父、慕容氏派)が苻洛の倭国入りを妨害する可能性があったので、それを防ぐために神功が新羅に派遣したのが葛城襲津彦だった。
しかし襲津彦は新羅の美女に目がくらんで新羅側に寝返った上、加羅に攻め込んだという。
倭国から見れば裏切り者だから悪く書かれるのは仕方がないが、そもそも葛城氏だから新羅に肩入れするのは当たり前なのだ。神功の人選ミスである。
襲津彦は葛城氏だからまさに休氏であり、彼の子孫が代々新羅の軍事力を担い、雄略とも戦っていたのだ。

 
■雄略、吉備や関東を征服

倭国内では大和のみならず、神武の陵墓(備前車塚古墳)がある吉備も新羅と関係の深い地域だった。
『書紀』に、吉備上道臣田狭(かみつみちのおみ たさ)の妻・稚媛(わかひめ)が美人だと知った雄略が、田狭を任那の国司として単身赴任させ、その留守に稚媛を召し上げた。それを知った田狭は新羅に助けを求めたが、そのとき新羅は日本と不和であったという。
雄略は田狭の弟に新羅征討を命じた。弟は徴兵のために百済に出向いた。
すると田狭は百済の弟に使者を送り、「お前は百済に留まって日本に帰るな。自分は任那に留まって日本に帰らない」と伝えたという。

吉備の実力者だった田狭は「新羅に助けを求めた」ぐらいだからもともと新羅と親交があり、雄略にとっては邪魔な存在だったのだ。田狭兄弟がそれぞれ任那と百済へ行ったきりになり、結果的に、雄略は主がいなくなった吉備を戦わずして征服したのである。

465
・高璉、北魏への送使を再開。

高璉は倭王興(安康)を引き立ててもらうためにさかんに宋に送使していたが、興が雄略に殺され、新羅もその支配下に降ると、もともと弱体化の一途を辿っていた宋をついに見限った。
しかし当時の最強国だった北魏はたやすく修好できる相手ではないと高璉は覚悟していた。なぜなら、高璉が滅ぼした北燕の馮弘の孫娘である文明太后が北魏の実権を握っていたからである。
ところが、文明太后は私情に流されず合理的な政治的判断ができる人だった。一族の昆支が雄略として倭国にあり、その支配が百済と新羅にも及んでいるので、あとは天才武芸家であり軍師でもある高璉さえ手なずければ、雄略と高璉の2トップで半島と列島の全てを支配できると考えたのだ。
文明太后は高句麗との国交を回復し、おそらく高璉に馮氏一族の女性を与えたりもしたのだろう。『高句麗本紀』に高璉の妃の名が見えないのは同じ高氏だったからだという説はすでに紹介したが、正妃が馮氏の女性だったために記録から消されたとも考えられる。

468
・新羅の慈悲麻立干、家臣団のクーデターにより傀儡に近い存在にされる。
・高璉、靺鞨兵1万を率いて新羅の北辺を侵略。

靺鞨とは中国東北部・沿海州にいた民族で、挹婁の末裔であるらしい。北魏は軍事力に優れた靺鞨人の兵団を組織し、高璉に貸し与えたようだ。文明太后とすれば高璉のお手並みを拝見したかったようだが、攻撃先が百済や倭国ではなく、新羅であるところがミソである。

471
・雄略は関東に遠征し、斯鬼の宮(現在の志木市)で土着のオワケを服従させ、関東一帯の統治権を委任。

埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文に、ワカタケル大王が斯鬼宮で471年に作らせたとある。大彦命の傍系の子孫が杖刀人の頭として代々仕え、8代目のオワケの臣がワカタケルに仕えた記念にこの銘文を刻ませたという。
稲荷山古墳の主は代々大彦命系の子孫に仕えていたが、雄略(ワカタケル)が来た時、降伏して身分を安堵されたのである。

雄略は応神系でも仁徳系でもなく、かろうじて皇后が仁徳系だったにすぎない。倭国における基盤はゼロに等しく、自ら軍の先頭に立ち、ヤマトタケルのように武力で列島各地を制圧していくタイプだった。そして雄略の軍事力だったと思しき大伴氏についてはまた次回お話しする。

・高句麗の侵攻に耐えかねた新羅内部で、親高句麗派が騒乱を起こす。

この頃から新羅は再び反倭国、親高句麗に転じる。親倭国だった慈悲も、この頃は家臣団の言いなりだった。

 
■百済をめぐる攻防

472
・百済蓋鹵王、北魏に上表文を送る。

蓋鹵王は父の毗有王が殺された455年以降各地を転々としていたが、雄略の尽力もあり、この頃は百済の王都に復帰していたようだ。
上表文の内容は以下のようなものだった。
「北魏の馮氏が滅びる頃から、馮氏の中で逃げ隠れしていた残党が再び勢力を持ち出し、悪行を重ねてきたので百済は衰亡の一途をたどっています。今、高璉は悪道のかぎりをつくしていますが、すでに人心が離れて滅亡の時期を迎えていると思うので手を下す時と考えます。また馮氏の一族は野望を捨て切れず、楽浪諸郡に復帰したいと思っています。もし今、(北魏が)高句麗に征戦したら、戦わずして解決できるでしょう。(以下略)」

文明太后を相手に馮氏の悪口を並べるのはあまりにも世情に疎すぎると思うが、要は「高璉を退治してくれ」と言いたいわけで、文明太后も高璉を祖父の仇として恨んでいるはずと確信していたのだろう。両者が親交していようなどとは夢にも思わなかったのである(世情に疎い人だから)。
情報収集の重要性を説く教訓のような話だが、この書簡によって蓋鹵王は自らの死期を早める結果となった。

475
・高璉、自ら出陣して百済の王都を包囲し、蓋鹵王を殺害。

高璉が攻めてきた時、蓋鹵王は息子の文周王に南に逃げろと指示し、木刕満致が同行したという。
百済から南といえば列島だろう。
木刕満致が、414年、まだ若かった久爾辛王のかわりに百済の国政を執った木満致や、履中の時代に国政に参加していた蘇我満智と同一人物ならば、文周王と一緒に来倭したときには80歳を超えていたことになる。
『古語拾遺』に、満智は雄略の時代に三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したとあり、木刕満致と木満致、木満致と蘇我満智はそれぞれ時代が違うから別人であるとする意見もあるが、政治家が80歳を過ぎても現役であることはそれほど無理な話ではないと私は思う。

・雄略、百済の王都を熊津に移し、蓋鹵王の子・文周王を即位させる。

高璉が蓋鹵王を殺害し、王都を占拠したことによって百済はいったん滅ぼされたが、雄略が熊津を王都とし、列島に逃げてきた文周王を百済王に立てた。雄略の傀儡政権にほかならないのだが、高璉はこれを傍観していた。

翌476年、『書紀』によると、百済の残党は食料も尽き果て困窮していた。そこで高句麗の将兵は残党を追撃したいと申し出た。ところが高璉は次のような不可解なことを言って取りやめさせたという。
「すべきではない。わしの聞くところによると、百済は日本国の官家(属国)になって久しい。また百済王が天皇(雄略)に仕えたことは近隣諸国のすべてが知っている」

文明太后は、高句麗(高璉)が百済を征服することは禁じていないが、雄略と戦うことは禁じていたとしか考えられない。それは文明太后と雄略が兄妹のようにきわめて近い血縁関係にあった証拠ではなかろうか。

 
■雄略、戦場に死す

477
・昆支(雄略)没する。(『百済本紀』)

雄略は二度目の新羅征討に乗り出し、戦死したようだ。彼は武将としての生涯を全うしたのである。

478
・百済の文周王、家臣の解仇に暗殺される。
・高句麗の後援で文周王の長子・三斤王即位。

雄略の傀儡政権だった百済の文周王が殺されると、高璉が三斤王を立て、今度は高句麗の傀儡政権となった。
これに黙っていられなかったのが雄略の子、倭国生まれの牟大(むたい)だった。

・順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)

倭王武が宋に正式に承認されたのはこのときが初めてである。
また『宋書』夷蛮伝には、前年の477年のこととして「これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する」とある。

雄略は歴史上の偉大な倭王・ヤマトタケルを意識したのか、「幼武(ワカタケル)」を自称したようで、そのまま和風諡号にもなっている。そして宋が歴代の倭国王を漢字一字で呼ぶ伝統をふまえ、「倭王武」を僭称していたようだ。
しかし宋が初めて倭王武を承認したのは雄略の死後であり、しかも武を「興の弟」としている。これをどう考えるべきか。

479
・宋の順帝、蕭道成(しょうどうせい)に禅譲。蕭道成は南朝を開き、宋滅亡。
・雄略の子・牟大が半島奪還を目指し、新羅を攻撃。
・新羅の慈悲死去。長男の炤知が即位し、牟大と同盟を結んで倭国側に転じた。

牟大は父雄略の倭王武を僭称し、この年建国した南朝斉に送使した。
同盟する炤知も加羅国王として南朝斉に送使した。
(「新羅」が正式な国号になったのは503年で、それまでは新しい王が即位するたびに国号も変わっていた。)

・南朝斉の高帝(蕭道成)、倭王武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。

この倭王武は雄略ではなく、完全に牟大のことである。
雄略没後の477、478年、滅亡寸前の宋に送使したのも実は牟大だったのではないか。
父の雄略を過去に倭王として正式に承認されていた興の弟・武とし、その倭王武を自分が引き継ぐ手続きをしていたと考えられるのである。

・百済三斤王死去。
・牟大、百済王(東城王)として即位。のちの武烈

高句麗の後援で百済王になっていた三斤王が亡くなり、牟大がようやく百済王となった。
しかし百済国内では馮氏の評判が芳しくなく、しかも東城王は成人してから百済に来た「外国人」だったので、その王座は不安定なものだった。
北魏の文明太后は雄略の子・東城王を引き続き支援し、百済に北魏軍を派兵して、東城王に反発する国民を軍事力によって威嚇した。
高璉は百済を支配するチャンスを逃し、再びなすすべを失った。