斉 明

斉 明

ねこ:
有間皇子が後の天智に殺害された理由がいまいち理解できないのです。
皇太子だったのかしらとも思うし、、、、、。
大きな混乱があったのかなとも思うのです。

としちん:
孝徳の子ですから即位の有資格者ということで、ライバルの中大兄に殺されたわけですが、おいらはむしろ有間は「中臣鎌足の子」として殺され、中大兄と鎌足の仲が決裂したことを象徴する事件だったと見ています。

 斉明と鬼

 斉明が即位した655年、書記には次のような謎の記述がある。

5月1日 大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。
正午頃に住吉の松嶺の上から、西に向かって馳せ去った。

 その6年後、斉明が朝倉宮で崩御したときも、同じような「鬼」が出現する。

8月1日 中大兄は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。
この宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
人々は皆怪しんだ。

 笠を身に付けた鬼は同一のものを象徴していると思われ、関祐二氏はこれを「蘇我入鹿の怨霊」としている。
 しかし、入鹿が存命中の653年、山背一族が自決した直後にも、これとよく似た記述がある。

おりから大空に五色の幡や絹笠が現われ、さなざまな舞楽とともに空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
多くの人がそれを入鹿に指し示したが、入鹿が見たとき、幡や絹笠は黒い雲に変わっていた。

 入鹿の生前にも現れている以上、これは入鹿の怨霊ではありえない。
 「鬼」の正体は蓋蘇文(大海人)である。
 「大空」は「大海(人)」と対をなすキーワード。
 五行思想については「大津」の章で改めて解説するが、天武は木徳で、木徳を表す動物はの竜、色は青。「住吉の松嶺」には、高句麗を象徴する木の松がある。
 (ちなみに「高松塚古墳」には高句麗を表す「高」と「松」が両方入っている。)
 『書紀』は山背殺害、斉明即位、斉明崩御の全てに蓋蘇文が関わっていたことを暗示しているのだ。

 「顔かたちは唐の人に似ていた」というのは、蓋蘇文の漢の皇帝の血筋を暗示し、その風貌が当時の倭国人離れしていたことを物語っている。
 小林惠子著『本当は怖ろしい万葉集』の表紙(写真下)は当麻寺の広目天だが、これが表紙に選ばれている理由は、この仏像のモデルは天武なのではないかという小林説による。当麻寺は東西に2塔がそびえる薬師寺形式であり、この形式は東塔が天武、西塔が新羅の文武王を象徴する、天武ゆかりの寺院と考えられるからだそうである。


天武がモデルか?(当麻寺の広目天)

 斉明即位

 大海人は新孝徳(孝)から正妃の間人を略奪し、孝が百済へ撤退した後は宝皇女を女帝に立て、その影で実権を握ろうと考えた。
 大海人としては、とにかく中大兄の即位を妨害したかったのである。そうしなければ倭国での自分の居場所がなくなってしまうからだ。
 654年、大海人は宝皇女即位の承認を取り付けるため、父であり、宝皇女のもと仲人である高向玄理を唐に派遣した。
 玄理自身が親唐派であり、その玄理の努力によって晩年の武王もまた親唐派だったことが幸いしたようで、もと武王妃の斉明ならばと高宗もこれを認めた。唐は倭国をあくまでも蛮夷の国と見なし、かつて卑弥呼が女王だった国に女帝が即位することについては何も問題にしなかったようだ。
 斉明は皇極の重祚とされているが、私見では皇極朝は存在しないので、斉明はこのときが初めての即位である。
 天智が正式な初代天皇だという認識のもとに、その母親に「皇極」の名が与えられているのではないかと思う。

 655年1月、斉明は飛鳥板蓋宮(あすかいたふきのみや)で即位。
 しかし、玄理は二度と倭国の土を踏むことはなく、660年頃、唐の地で客死してしまう。
 大海人が存在する限り、国際政治家としての彼の生きる場所は倭国にはなかったのであろう。

 有間皇子事件

 斉明が息子の中大兄をさしおいて即位したのは、中大兄に有間皇子というライバルがいたからだという意見がある。
 以下は、657年の有間皇子事件についての書記の記述の要約である。

657年 有間皇子は狂人を装い、療養と称して紀国の牟婁(むろ)の湯(白浜の湯)に行き、ただその場所を見ただけで病気は自然に治ってしまいますと斉明に報告した。
658年10月 斉明は有間皇子が讃めた牟婁の湯へ行幸した。行幸中、都の留守官は
蘇我赤兄がつとめた。
赤兄は有間に言った。
「天皇の治世に三つの失政があります。大きな蔵を立てて、人民の財を集め積むことがその一。長い用水路を掘って、人夫にたくさんの食糧を費やしたことがその二。船に石を積んで運び、岡を築くというようなことをしたのがその三です」
有間は、赤兄が自分に好意を持っていてくれることを知り、喜んで応答して、「わが生涯で初めて兵を用いるべき時がきたのだ」と言った。
ところがその翌々日、有間と舎人らが捕らえられ、さらに4日後、牟婁の湯へ護送された。
中大兄の訊問を受け、「天と赤兄が知っているでしょう。私は全く分かりません」と言った。
有間皇子は謀反の罪で藤白坂で絞首にされた。

 赤兄は数少ない蘇我氏の生き残りで、殺された兄の倉山田麻呂と同様、中大兄を次期大王と考え、その忠臣として活躍していた。
 中大兄は倉山田麻呂事件には無関係だったが、有間の処刑は、明らかに中大兄と赤兄がしかけたワナだった。

 しかし、有間は本当に中大兄の立場をおびやかすライバルだったのだろうか。
 有間の母は、阿倍氏の娘・小足媛(おたらしひめ)である。
 下は、古人大王が鎌足を神祇伯に任じたが断られた頃の『書紀』の要約である。

鎌足は神祇伯を辞退し、病と称して摂津三島に退去した。
このころ軽皇子も脚の病で参朝しなかった。
鎌足は以前から軽皇子と親しかったので、その宮に参上して侍宿(とのい)をしようとした。
軽皇子はもと寵妃の阿倍氏の娘に命じ、鎌足の世話をさせた。鎌足は感激し、「皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう」と言った。

 もと寵妃の阿倍氏の娘とあるのが小足媛のことであろう。
 孝徳はこの話の643年には百済にあったので、首尾よく山背を殺害した鎌足に、褒美として小足媛を与えたと思われる。
 有間は658年に謀反の罪で殺されたとき19歳だったと伝えられているので、このときはすでに生まれていて、数え年4歳だったことになる。ならば、有間の親権もこのとき鎌足に移ったはずだ。
 鎌足が有間皇子事件の記事に登場しないのは、孝が撤退するとき、一緒に百済に渡ったからだろう。
 有間は、孝徳父子と鎌足が百済に去ったことで、いつ中大兄や大海人に殺されるかとビクビクし、狂人のふりまでしていたのだろう。やすやすとワナにかかったのも、生き延びるためには何か行動を起こすしかないと本人も考えていたからに違いない。
 有間皇子事件は、もともと中大兄を倭王にすることが任務であったはずの鎌足が、大海人側に寝返ってしまったことに中大兄が怒り、両者の仲が完全に決裂したことを象徴する事件だったと私は考えている。

 ところで、『多武峯縁起』には、孝徳が鎌足に与えた阿倍氏は車持夫人といわれ、すでに懐妊していて、生まれたのが僧侶の定恵だったとある。
 車持夫人は小足媛とは別人で、やはり孝徳から鎌足に譲られた女性だったと思う。
 孝徳は身ごもった女性を鎌足に与えることで鎌足との絆を強めていたようで、これは当時の風習だったのである。
 定恵については「天智」で改めて考察する。

 鬼室福信

 660年 大海人は唐との武力衝突に踏み切る。それは唐にいる父の玄理を見殺しにする決断でもあった。
 『書紀』の中で、赤兄が斉明の失政として批判しているように、飛鳥岡本宮の着工や、両槻宮(ふたつきのみや)、吉野宮の造営など、斉明はよほど土木工事の好きな大王だったと考えられてるが、これらを指揮したのも大海人だった。
 唐を敵に回す以上、日本が戦場になった場合に備える必要があったのである。
 吉野宮は、のちに壬申の乱で大海人の拠点となった場所であることは言うまでもない。

 ところが大海人が高句麗へ渡った隙に、電光石火の戦術を得意とする唐の蘇定方は、新羅と共闘して百済を挟撃。
 義慈王、隆、孝らは降伏し、あっけなく唐に連行されてしまった。

 しかし唐軍が撤退したあと、武王の甥の鬼室福信と僧・道琛(どうたん)を中心とする旧武王派が、占領軍司令部に激しく抵抗した。
 義慈王さえいなくなれば、百済はもと通り、親唐の武王派が治めればそれで文句はないはずだからである。

 唐も最大の標的は高句麗だったので、再度百済に派兵してまで福信らを鎮圧しようとはしなかった。
 660年 福信らは百済を再興するため、倭国に豊璋を新しい国王として迎えたいと要請してきた。

 斉明崩御

 660年12月 大海人は斉明や中大兄を伴って大和から難波へ向かった。
 大海人の目的は、倭国で兵士を徴集し、唐と戦う高句麗を救援することだった。
 661年1月、一行は伊予の熟田津の石湯行宮(いわゆのかりみや、現在の道後温泉)に到着し、3月、娜大津(なのおおつ)の磐瀬行宮に還った。「還った」とは『書紀』にある表現だが、娜大津とは百済の地名で、中大兄が生まれ故郷に「還った」ことを暗示している(小林惠子説)。

 斉明は、娜大津で鬼室福信と会談。
 その席上で、新しい百済王に指名されたのは豊璋ではなく、中大兄であった。
 そもそも武王派の福信が、義慈王の子である豊璋を国王として迎える気があったはずがない。
 豊璋を支持していたのは僧の道琛であり、福信が立てたかったのは武王の子・中大兄だったのである。
 福信は道琛を殺し、『書紀』には661年4月、糺解(くげ)を迎えたいと要請したとある。
 糺解は正確には「キウケ」のように発音するそうで、「翹岐」を意味していると思われる。
 661年4月とは、同じ4月に斉明が朝倉宮(北九州)に帰ったとあるから、まさにこの会談で中大兄の百済王就任が決定し、斉明は倭王として倭国に戻ったというのが真相である。

 ところが6月、新羅の武烈王(金春秋)が不可解な死を遂げる。
 さらに7月、斉明が朝倉宮で崩御する。こちらも、『書紀』に死因は記されていない。
 大海人と、武烈王の次に即位する文武王ら新羅の反唐派勢力が連係し、武烈王と斉明を暗殺した疑いが濃厚である。
 彼らにとって、心置きなく唐と戦うためには、親唐派である彼らは邪魔な存在だったのだ。

8月1日 中大兄は天皇の喪をつとめ、帰って磐瀬宮につかれた。この宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。

 すでに紹介した、斉明の葬儀のときの鬼の記述である。
 『書紀』は、鬼=大海人の指令によって斉明が殺されたことを暗示しているのだ。

 白村江の戦い

 斉明の死は、中大兄と大海人の仲を完全に決裂させた。
 ゆえに、白村江の戦いでの倭国軍は、完全に大海人ひとりの指揮下にあった。

(662年)5月 大将軍大錦中阿曇比羅夫連らが、軍船170艘をひきいて、豊璋らを百済に送り、勅して豊璋に百済王位を継がせた。
また、金策(こがねのふだ)を福信に与えて、その背をなでてねぎらい、爵位や禄物を賜わった。
そのとき豊璋・福信らは平伏して仰せを承り、人々は感動して涙を流した。

 結局、百済王になったのは義慈王の子・豊璋だった。
 福信の背をなでてねぎらったり、豊璋と福信が平伏して仰せを承らなければならない人物は、とても阿曇比羅夫ではありえず、大海人以外にない。
 しかし福信は豊璋を迎えるのがイヤで道琛を殺したぐらいの男であり、豊璋とうまくやっていけるわけがなかった。
 案の定、両者はお互いに不信感をつのらせ、663年、ついに豊璋の方が福信を殺してしまう。

 その豊璋であるが、白村江の会戦で大海人が集めた倭国軍が唐軍に壊滅的な敗北を喫し、高句麗へ逃亡。
 ここに百済は完全に消滅したのである。

 しかし、新羅が表向きは唐側として参戦しているように、大海人も文武王も、本気で戦った戦争ではなかった。
 なにしろ大海人と文武王は裏でつながっていたのだから。
 白村江の戦いは、高句麗と唐の最終決戦に向けて、大海人にとってはウォーミングアップ、文武王にとっては「唐の味方」であることをアピールする虚偽のデモンストレーションであり、両陣営に挟まれた百済が、滅ぶべくして滅んだという結果を残しただけの戦争だったのである。