反 正

 
■反正は淡路島で生まれた

広開土王(仁徳)は416年頃から約3年間淡路島に拠点を置いた。その間に生まれたのが反正である。
432年に宋から倭国王(倭王珍)として承認されたときはまだ15歳前後だったことになる。
南あわじ市にはその名も「産宮(うぶのみや)神社」という神社がある。瑞井(みずい)宮ともいい、反正の産湯にしたと伝えられている瑞井(産湯池)が現存している。 

 
■高璉、北燕を滅ぼす

425年、仁徳を殺して半島に逃げてきた高璉もまだ十代だった。
仁徳と北燕は友好関係にあったから、高璉は北燕にとっても犯罪者だったはずだ。高璉の実力を知る馮丕が彼をかくまったのではないか。
馮丕の弟の馮弘が北燕王になった430年、馮丕と高璉はおそらく2人揃って北魏に亡命したと見る。当時の情勢から言って亡命というよりは「投降」だったろう。しかし馮丕は実力で北魏の将軍の地位を獲得するに至った。
彼らのグループには、なんと仁徳の子・も加わっていたことがのちのち判明する。馮丕だけ少し年長で、高璉と興は同世代だった。

435
・宋、馮弘を燕王として承認。
・北魏、馮丕を総大将として北燕を攻撃。

北燕と高句麗の領土は重なっていたので、兄の馮跋は「高句麗王」とされたが、馮弘はちゃんと「燕王」として承認されたらしい。
しかし馮弘と北燕王の座を争った馮丕がその恨みをはらすかのように北燕を攻め、高句麗領を完全に奪い、北燕の領土は馮氏のもともとの本拠地である龍城周辺のみとなった。

・北燕、馮弘を黄龍国の国主に任命。
・北魏、高璉を高句麗王として承認。

馮弘を燕王として承認した宋としては放ってもおけず、さりとて北魏とは事を構えたくない。宋は龍城周辺を領土とする「黄龍国」を新設し、馮弘をその国主に任命するという子供だましのようなやり方で馮弘の顔を立てた。これがさらに北魏の神経を逆撫ですることになり、北魏は馮弘から奪った高句麗領に王として高璉を立て、次なる攻撃への準備に入った。
しかし北魏の太武帝は北燕から奪った高句麗領は当然北魏の新たな領地として認識していただろうから、高句麗を国として復興させるという発想はなかったと思う。おそらく馮丕が太武帝を説得した末に高璉の高句麗王即位が実現したのだと思うが、その背景には十年に及ぶ馮丕と高璉の絆があったのである。

438
・北魏、龍城の馮弘を攻撃。

馮弘は龍城から逃走し、かつての領地であり、現在は高璉が治めている高句麗に逃げ込んだ。
北魏は高璉に馮弘を引き渡すように要求してきたが、なぜか高璉はこれに応じなかった。馮弘に同情したというより、高璉と太武帝の関係があまりよくなかったらしい。
怒った北魏の太武帝は高句麗を攻めようとしたが、ここも馮丕に反対されて思いとどまったという。

・馮弘が高璉に殺され、北燕滅亡

馮弘は徐々に自分が王だった頃のような尊大な態度をとるようになった。
ついに高璉が馮弘の行動を厳しく制限するようになると、馮弘は宋と密かに連絡をとり、宋に亡命しようとした。
宋は馮弘のどこを気に入っていたのか知らないが、黄龍国を新設して馮弘を国王に任じてみたり、亡命についてもこれを承諾して、迎えの使者まで送ってきた。
高璉は、馮弘が宋をバックに再び高句麗王に返り咲こうと企んでいるとして、馮弘とその一族を殺害。ここに馮氏北燕は滅びたのである。
しかし高璉のこの行為は、馮弘を引き渡すように要求していた北魏と、馮弘の亡命を受け容れようとしていた宋の両方のひんしゅくを買うことになった。
 

■訥祇、平西将軍となる(倭隋)

438
・反正、宋に二度目の送使。
・反正崩御。

反正は432年にすでに倭国王(倭王珍)として承認されている。二度目の送使は、仁徳派である新羅の訥祇に頼まれたものだったようだ。かつて土王の高句麗王代行だった訥祇は、新羅から宋に高句麗王としての承認を求めて何度も送使していたが、全く相手にされていなかった。
宋はようやく訥祇を倭の王族と見なして倭隋と命名し、平西将軍(主に新羅の軍事権を承認)に任じた。
一方、反正は使者が宋に行き着く前に没した。
倭国は宋から公認を得た倭王が不在という状態になり、列島の統治権という要素も加わって、高句麗王・高璉(応神系)と新羅王・訥祇(仁徳派)が激しく対立することになる。

439
北魏が北涼という小国を滅ぼし、華北を統一。これ以後、中国は南北朝時代に入る。
・高璉、宋に馬を800頭献じ、高句麗王として承認される。

『宋書』には、413年、高句麗王の高璉が晋に馬を献じたという記事があったことを「仁徳」でご紹介した。
そのとき高璉はまだ高句麗王ではなく、439年に宋に馬を800頭献じた事実を時代を遡って記していたのだった。宋が高璉を高句麗王として承認したのもその頃だろう。
当時、北魏が勢力を増す一方、宋は弱体化し始めていた。中華統一を目指す北魏が宋に攻め込んでくるのは時間の問題だったので、高璉とは馮弘の件で摩擦があったものの、宋は高句麗の軍事力をあてにせざるをえない状況になっていたのである。