桓 武

桓 武

 氷上川継事件

 結果だけ見ると、光仁の長子は桓武、桓武の長子は平城だから、光仁〜桓武〜平城という皇位継承はきわめて順当に思えるが、その影には陰謀がうごめき、血で血を洗う抗争が繰り広げられていた。
 この親子三代はいずれも大陸で戦闘を経験している叩き上げの武将で、大陸的な独裁色も強く、貴族の藤原氏とはソリが合わなかったからだが、正史がそのことを隠しているため、非常にわかりにくい時代になっている。

 782年 塩焼王と不破内親王の子・氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀反事件起こる。

  氷上川継 父:塩焼王   父父:新田部親王 父父父:天武
       母:不破内親王 母父:聖武    母父父:文武

 当時の左大臣は、藤原房前(北家)の五男で、光仁天皇を擁立した功臣として頭角を現した藤原魚名。井上内親王と他戸王母子を暗殺したのもこの男だとする説があるが、非常に複雑な策謀を巡らせることでも知られ、藤原種継を味方につけながら、不破内親王に「唐は女帝なら天智系でなくても黙認しますよ」などと入れ知恵をし、即位の野望を持たせたのだった。
 そして一方の早良皇太弟には「この事件には大伴家持と坂上苅田麻呂がかかわってますよ」と讒言したという。
 山部王は川継を伊豆国三島に配流。連座した大伴家持と坂上苅田麻呂を罷免した。
 しかし当時の山部王はまだ新羅と日本を行ったり来たりしていて、日本にいなかった6月、早良が魚名の暗躍に気付き、これを罷免。
 783年 山部王、忠臣の種継を式部卿近江按察使とし、百川・魚名に代わって実権を握らせた。
 同年 魚名没。

 朱泚の乱(783〜784)

 782年 宣徳王(山部王)、慶州から自らの地盤である平壌に遷都。
 783年 唐で朱泚がクーデターを起こし、宣徳王もこれに加担。徳宗は奉天に逃亡した。
 朱泚が帝位に就いて国号を秦とし、元号を応天とした。
 784年 国号を漢と改め、天皇元年とした。
 さらに兵を徳宗のいる奉天に進めようとしたが、徳宗は唐と吐蕃の境界を賀蘭(がらん)山とする「清水の盟約」を交わして吐蕃勢力を味方に付け、朱泚に反撃。
 唐と吐蕃の連合軍が勝利し、敗走した朱泚は、最終的には部下に殺されてしまった。
 唐を敵に回し、朱泚を失った宣徳王は、部下だったと思われる元聖王(金敬信)に譲位し、新羅から去った。

 長岡遷都

 784年 山部王は日本に定着するにあたり、旧勢力の強い平城京からの遷都を決め、種継に山背の乙訓郡長岡村を見地させた。
 種継は式家の祖・宇合の孫(父は清成)。光仁即位に尽力した式家の政治的な発言力が上昇するとともに昇進し、叔父である良継・百川の死後は式家を代表する立場になっていた。
 山背といえば秦氏の本拠地だが、実は秦朝元の娘が藤原清成に嫁ぎ、生まれたのが種継だった。

 11月 山部王はまだ未完成の長岡京に入った。
 山部王が警戒する旧勢力とは、弟の早良皇太弟と大伴家持のコンビにほかならなかった。
 家持はそれまで名ばかりの陸奥按察使鎮守将軍で、任地に赴いたことはなかったが、山部王は早良と家持を引き離すため、家持の東宮大夫の職を罷免し、奥州に赴任させた。

 785年1月 山部王、長岡京で即位式をあげ桓武天皇となる。
 『新羅本紀』には同じ1月、宣徳王が死後東海に散骨するよう命じて没したとある(文武王や孝成王と同じパターンで、日本に渡ったことを暗示)。

 藤原種継暗殺事件

 785年3月 大伴家持の陸奥按察使鎮守将軍の職を罷免。後任に多治比真人宇美を任命した。
 ところが家持は帰京することなく、8月に陸奥で没した。
 9月 桓武の留守中、家持一族の大伴継人と竹良らが、長岡京造営の最高責任者・藤原種継を暗殺。
 長岡京に戻った桓武は、わずか1日で継人ら関係者数十人を処刑した。
 10月 早良皇太弟が種継暗殺の首謀者として廃位され、乙訓寺に幽閉された。
 早良は一切の飲食を拒んで無実を訴えたが、淡路島へ配流される途中に餓死したという。

 桓武は、早良の側近だった家持を陸奥に左遷し、のちに交代要員として宇美を派遣したが、家持を現地で拘束し、殺害したと思われる。
 これを種継の陰謀だと思った早良は、継人と竹良に命じて種継を暗殺。
 全ては桓武の筋書き通りに運び、早良・家持ら旧勢力を一掃し、独裁体制を築いたのだった。
 このように桓武が自分の計画の遂行のためには忠実な部下をも犠牲にしてはばからない性格だったのに対し、8年近く光仁の後継者として実質的に日本を治めていた早良には支持者も多かった。早良の死後、桓武の周辺に相次いだ凶事がいずれも早良の怨霊の仕業であると噂されたのはそのためだろう。
 桓武と、それに続く平城の2代は、同時代人においては簒奪者のように認識されていたようだ。
 
 11月 桓武の長子・安殿親王立太子。
 右大臣は藤原是公。従五位下には坂上田村麻呂も初登場した。

 彦 昇(げんしょう)

 唐の徳宗は、宣徳王が去ったあと即位した元聖王を正式に新羅王として承認した。
 しかし、日本に渡った宣徳王=桓武を日本国王とは認めなかった。朱泚の乱では朱泚側にあって唐に敵対していたのだから当然だろう。
 また、徳宗は吐蕃に対抗するため、親唐派だった西アジア系のウイグル可汗の娘を後室に入れ、自分の娘・咸安(かんあん)公主をウイグル可汗に嫁がせるなどして懐柔した。
 この時代の東北の蝦夷も吐蕃勢力の一派が海を渡って列島に侵入してきたもので、その伝説的首領として有名なアテルイも、突厥・吐蕃など雑多な混血をした遊牧系民族出身と見られる。

 788年 桓武は陸奥多賀城に兵を結集し、本格的な東北征伐の準備にかかった。
 789年 朝廷軍、アテルイ率いる蝦夷との戦いで完敗。
 もはや国内の軍事力だけでは吐蕃に対抗できないと悟った桓武は、新羅の彦昇(げんしょう)を大将とする新羅軍を唐の対吐蕃戦に遠征させた。唐に協調する姿勢を示し、日本国王として承認してもらおうという期待もあったのだろう。
 この彦昇こそ、桓武の皇太子・安殿親王である(小林説)。

  彦昇 = 安殿親王(のちの平城天皇)

 790年 彦昇、第1回目の遠征。
 791年 坂上田村麻呂、征夷副使として東北に遠征。
 理由はのちほど考察するが、田村麻呂は、なんと2年前に朝廷軍を破ったアテルイら吐蕃系蝦夷を説得して徴兵し、彦昇のもとに派遣することに成功する。

 『続日本紀』における安殿親王は、病弱で、790年には京都の七寺で(病気平癒のための)読経、791年10月には本人が伊勢神宮に祈願、そして792年6月には「安殿の病が長期にわたるのは早良皇太子の祟りである」という占いにより、桓武が淡路の早良皇太子の陵に奉幣させたとある。
 正史は安殿が唐に遠征していた事実を伏せているが、これらは全て桓武による彦昇の戦勝祈願だったというのが真相だろう。

 彦昇は桓武の期待に応え、唐側にあったウイグルと連合し、吐蕃を撃破。
 792年7月 彦昇軍が中国から凱旋。桓武が帰国した俘囚軍団を出迎えさせた。
 桓武がかつて中国東北部の朱泚らの勢力に加わって唐に抵抗し、平城で吐蕃の南下を防ぐなどして父の光仁朝をサポートしたように、今度は息子の安殿が桓武政権のための軍事力となったのである。

 日本に凱旋後、彦昇は再び新羅に戻り、794年2月、侍中となる。
 時の新羅王・元聖王はもと宣徳王(桓武)の家臣だったし、彦昇の唐への遠征は、新羅は何の犠牲も払うことなく唐に貢献した手柄だけを得られるので、最初は彦昇との関係も良かった。

 一方、国際復帰に自信を持った桓武は、長岡京から平安京に遷都。
 しかし、それでも唐は頑なに桓武を日本国王としては認めなかった。

 796年4月 彦昇、兵部令(軍事の最高責任者)となる。
 797年5月 唐で再び吐蕃が蜂起。彦昇が新羅軍の総大将として第2回目の遠征。
 これには藤原葛野麻呂(北家)も随行していたようだ。 
 また、このときは田村麻呂が徴収した軍勢ではなく、彦昇が元聖王の反対を押し切って新羅人の軍勢を引き連れての遠征だったため、元聖王と彦昇の関係が悪化した。
 798年12月 彦昇は元聖王を追放し、翌年、元聖王の孫の昭聖王を即位させた。
 800年6月 彦昇、その昭聖王を暗殺。昭聖王の息子の哀荘王(13歳)を即位させ、自らは摂政になった。
 801年春 彦昇、再び田村麻呂が徴収した軍勢を伴い、唐に第3回目の遠征。
 8月 桓武、藤原葛野麻呂を遣唐大使に任命。
 おりしも周辺民族との和解の道を探っていた徳宗は、葛野麻呂の努力もあって、20年ぶりに遣唐使の受け入れを認めた。
 しかし、あいかわらず桓武の存在は徳宗の眼中になく、むしろ現場の指揮官である彦昇を高く評価し、将来の日本国王にと考えるようになっていたようだ。
 9月 唐側の勝利。

 桓武の死

 藤原緒嗣、冬嗣らが編纂した正史『日本後紀』には800〜803年の記録がないという。
 『日本紀略』によると、802年、坂上田村麻呂が胆沢城を築く際、蝦夷の首領アテルイに正式に朝廷に帰順するよう説得し、これに応じたアテルイとモレが500余人を率いて降伏し、田村麻呂に従って上京した。
 ところが、アテルイとモレは無惨にも平安京の貴族たちに処刑されてしまう。

 田村麻呂は、のちに嵯峨天皇に下賜された山地に清水寺を創建した。
 吐蕃をルーツとするアテルイの追悼のために建てられた私寺で、清水寺という名前は、朱泚の乱のとき、徳宗が吐蕃勢力を味方に付けるため、吐蕃との境界を賀蘭(がらん)山とする「清水の盟約」を交わしたことに由来する。
 1994年には「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている(写真下、著者撮影)。

 田村麻呂は紅毛碧眼で身長5尺八寸の大男だったという伝承がある。
 紅毛碧眼とは蝦夷の特徴そのもので、真偽は定かではないが、赤鬼が紅毛、青鬼が碧眼で表現されるようになったのも蝦夷がモデルだとか。
 田村麻呂の先祖・坂上大国は新聖武に従って渤海から来日したようで、すでに4世になる田村麻呂はもっと日本人らしくても不思議はないのだが、桓武は若い頃に田村麻呂の父・苅田麻呂と共に大陸で吐蕃と戦っていたので、和平の際に娶った吐蕃の娘からそれぞれ彦昇と田村麻呂が生まれた可能性がある。
 彦昇の日本名が安殿(アテ)なのも、母親が来日前のアテルイ一族の娘だったからではないか。
 アテルイが田村麻呂の意見に従い、彦昇のもとに軍隊を派遣したり、朝廷への帰順に応じたのも、アテルイ・彦昇・田村麻呂がみな同族だったと考えれば納得がいく。

 平安京の貴族がアテルイらを処刑したのは、もちろん桓武の命令だったに違いないが、なぜそのような命令を出したのだろうか。
 桓武自身、かつて父の光仁が他戸王を皇太子に立てたとき、渤海使を使ってこれを妨害し、強引に皇太子の座を奪い取るようにして即位までこぎつけた天皇だった。
 そして、最初は同母弟の早良親王を皇太弟にしたが、早良と旧勢力との結び付きが強すぎ、種継暗殺の首謀者に仕立て上げてこれを廃位。
 結局、自分の人生をなぞるような行き方をしてきた長子の安殿が皇太子になったが、その母系がアテルイ一族では不都合ゆえ、表向きは桓武の皇后の藤原乙牟漏(良継の娘)が14歳のときに産んだ子とされた(当時だったらありえた話ではある)。
 ちなみに賀美能親王(のちの嵯峨天皇)は本当に乙牟漏が産んだ桓武の子である。
 
 ところが、桓武は自分が唐に日本国王として承認してもらいたいがために安殿を唐に遠征させたにもかかわらず、唐は吐蕃を鎮圧した彦昇(安殿)は評価しても、桓武のことはあいかわらず無視し続けた。
 桓武は安殿を疎ましく感じるようになり、衝動的に安殿から軍事力を奪おうとしたのではないか。
 事実、アテルイの処刑によって東北の蝦夷はリーダーを失い、もはや朝廷による統率は不可能な状態に逆戻りしてしまう。

 『日本後紀』に800〜803年の記録がないのは、アテルイの処刑とそれに関連する前後の出来事を全てカットするためであろう。
 そして桓武の崩御を806年としているが、崩御の日に東宮殿(桓武の皇太子・安殿親王の館)の寝殿の上に血が濯(そそ)がれたという衝撃の記述があり、安殿が父の桓武を殺して皇位を簒奪したことを暗示している。
 安殿の桓武殺しはアテルイを処刑された報復だったとしか考えられず、それは同じ802年のうちの出来事だったようだ。

2014/1/3改訂