文 武

文 武

 新羅・文武王
 
 661年 ついに金庾信は武烈王を倒し、法敏を即位させた。これが文武王である。
 663年 蓋蘇文の率いる倭国軍は唐軍と激突するが(白村江の戦い)、新羅軍は唐軍と連合していたにもかかわらず倭国軍にはほとんど手を出さず、降伏した倭国兵を無罪放免している。
 また文武王は、672年、壬申の乱に新羅軍を送り、吉野軍を加勢。

 唐が承認していた近江朝を蓋蘇文が滅ぼし、新羅がそれに加担していたとなると、唐がこのような裏切り行為を許すはずがなく、ただちに正規軍を新羅に派兵した。
 唐軍と新羅軍の小競り合いはそれまでにも何度かあったが、ここで初めて全面衝突し、金庾信将軍率いる新羅軍は唐軍をことごとく撃破してしまった。
 そして676年、半島内の唐の勢力を一掃し、文武王が統一新羅の初代の王となった。
 この年、物部麻呂が大使として新羅に遣わされ、翌677年2月に帰国しているので、天武も新羅に援軍を送っていたと想像される。

 ちなみに、新羅統一の最大の功労者である金庾信の韓国での知名度は、日本の聖徳太子並みなのだそうである。

 文武王、文武天皇となる

 『新羅本紀』に、681年7月1日、文武王が死んだとある。
 半島から撤退していた唐が、この年、突如として新羅に対し猛反撃に転じたのだ。
 そのとき、すでに新羅の名将・金庾信は亡くなっていた。

 新羅には文武王の陵墓がなく、東海(日本海)の沖に「水中陵」がある。
 しかも、これが発見されたのは1967年だという。
 統一新羅の初代王に陵墓がないというのは不自然であり、文武王は日本に亡命し、死んでいなかった可能性が高い。
 ちなみに、新羅の仏国寺、石窟庵、そしてこの水中陵は東(日本)を指して一線上に並んでいるという。

 日本には、文武王と同じ名前の文武天皇がいる。
 文武は14世紀の『日本皇統系図』には「治11、即位15、母元明、崩45」とある。
 15歳で即位し、11年間統治して没したのなら死んだのは25歳のはずだから、崩45というのはおかしい。
 それに、文武の和風諡号を「天之真宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇」といい、25歳で崩御したとされるわりにはジジくさい名前である。

 「崩45」とは、まさに45歳で死んだとされる新羅の文武王のことなのである。
 文武王は681年に日本に亡命したとき45歳だったのであり、そこから637年という生年が導かれる。
 したがって、もちろん文武の母は元明阿閇皇女)ではありえず、阿閇の方が文武の娘ぐらいの年齢であった。

 文武は天武の長男だった

 『懐風藻』に、697年、鸕野が皇子や諸臣を一同に集め、皇位継承者を決定する会議をしたとき、葛野王(かどのおう。大友と十市の間の子)が父子相続の是を進言して、鸕野がそれを良しとして文武の即位が決定したとある。
 文武の即位が父子相続だったというのだから、「即位せずに」死んでいる草壁は、文武の父ではなかったということだ。そして天武こそ、金庾信の姪の、姉の宝姫が産んだ法敏の父親だったことになる。

 金庾信はかつて、高向玄理の子・漢皇子に非凡な革命家の天分を見出し、倭国の鸕野邑に住む姪っ子の宝姫を彼に与えていたのだ。
 文武王は天武の長男だったのである。
 天武は622年生まれなので、16歳のときの子供ということになり、当時としては早すぎることはない。
 天武と文武王が一枚岩のように堅く結束して唐と戦ったのは親子だったからであり、唐に追われた文武王が父をたよって日本に亡命し「韓皇子」と呼ばれ、のちの文武天皇になったのだ。

 文武王が来日した681年に草壁皇子が皇太子に任命されたのは、天武の長男の来日に際し、鸕野皇后が自分の息子を天武の跡継ぎとして確定させておきたかったのだろう。
 これに激怒した大津皇子は翌682年、唐サイドについて天武を殺害。
 新羅が防波堤としての役割を果たせなくなったことが、唐の標的だった天武の死期を早めたのだろう。
 大津は唐の後押しを受けて即位するが、高市と鸕野のワナにかかって処刑されてしまう。
 しかし草壁は689年に死んでしまい、翌690年、高市が即位する(持統天皇)。
 
 頼りにしていた金庾信を失った文武王は逃げの一手で生き延び、大津朝、そして持統(高市)朝を通じて、鸕野の影に身を隠すように暮らしていたに違いない。

 則天武后

 日本に亡命した文武にかわり、681年に新羅王となったのは文武の長子・神文王だった。
 しかし、彼は親唐的な政策をとらざるをえず、文武王が670年に高句麗王として新羅領内に迎え入れていた安勝(高句麗の大臣・淵浄土の息子)に金姓を与え、金馬渚から慶州に移した(683年、亡命高句麗の消滅)。

 唐では、683年に高宗が没し、実権は息子の中宗ではなく、完全に妻の則天武后(在位690〜705)に握られた。(則天時代の中国は「周」だが、便宜上「唐」としておく。)
 則天は内政に重点を置き、外征を好まなかったため、周辺民族の勃興と唐への侵略を促す結果となる。
 686年、突厥などの周辺諸民族が唐に大々的に反乱を起こした。
 日本に亡命中の文武は、新羅にも突厥と共闘するよう命じたが、神文王はこのときも唐に遠慮して、あまり積極的には動かなかったようである。
 692年、ついに文武は神文王を見限り、次男の孝昭王を即位させた。
 ところが、孝昭王はいっそう文武に反抗的で、697年に文武が日本国王として即位したしたあと、700年、東海上で日本と一戦交えるというありさま。
 しかし孝昭王はこの戦いで敗れ、702年、日本で生まれたと思われる文武四男の聖徳王が22歳で新羅王となった。それからしばらくは、日本と新羅の関係は良好であった。