日本武尊(1)


■ヤマトタケルは天皇だった

ほぼ全国に伝説が残っている古代史上の英雄と言えば、弘法大師空海、そして日本武尊(ヤマトタケル)である。
空海は真言密教の祖であることに加え、治水や土木事業など民衆の生活に密着した分野で多大な功績を残したことで全国区のカリスマとなった。
一方、ヤマトタケルはのちの武士たちの崇敬の念を一身に集めた「史上最強の武人」である。信長が桶狭間出陣のときに必勝祈願をしたのも草薙剣を御神体とする熱田神宮だった。

『書紀』の景行条の主役も、完全にヤマトタケルである。
『書紀』に基づく血統表は以下の通り。景行は垂仁の第三子、ヤマトタケルは景行の次男とされる。

 ヤマトタケル 父:景行 父父:垂仁 父父父:崇神
                   父父母:ミマキヒメ(大彦の娘)
             父母:ヒバスヒメ(丹波道主の娘)
        母:播磨稲日大郎姫

7世紀に来倭した百済王子・翹岐が忽然と姿を消し、入れ替わるように中大兄皇子が登場したように、『書紀』は正体を明かすと差し障りがある場合、途中で名前を変えて別人にしてしまう。
ヤマトタケルの正体は、垂仁(慕容皝)に焼き殺された狭穂媛が生んだホムツワケなのだ。そんなホムツワケが垂仁のあとを継ぐとさすがに天皇系譜に汚点を残すことになるので、『書紀』はホムツワケを史上から消し、まずは垂仁と丹波道主の娘ヒバスヒメの子として架空の景行天皇を生み出し、ヤマトタケルを景行の子に設定した。

しかし、なぜすんなりヤマトタケルを景行としなかったのか。
本ページのタイトルは最初は「景行」だった。景行の「景」は慕容儁の諡「景昭」からきていると思われ、景行とヤマトタケルは同一人物だと考えたからである。
『常陸風土記』はヤマトタケルを「倭武天皇」としている。ヤマトタケル以外に(景行のような)倭王は存在しなかったひとつの証拠であろう。
ヤマトタケルは『古事記』では双子の兄の手足をへし折ったというエピソードから始まり、女に化けて熊襲タケルをだまし討ちする、その弟が逃げるところをつかまえて剣を尻からさし通す、出雲タケルにはまず友好的に接近しておいてから相手の刀をニセモノとすり替え、試合を申し出て斬り殺すなど、ことごとく卑怯かつ残虐なのだ。たしかに天皇としては品性に欠けると言わざるをえない。

皝は狭穂姫の遺言どおり、丹波道主を父に持つ狭穂姫の妹たちを連れて遼東に帰ったとみえる。ホムツワケはいったん列島に置き去りにされたようだが、幼くして武勇の才能があるという噂を聞いて、祖父の廆が手元に呼び寄せることに決めたようだ。
ホムツワケは口髭が生えるようになっても口を利かず、ある日、鵠(くぐい)が飛んでいるのをみて突然声をあげ、それから話すようになったという。但馬には多くの渡りをしない鵠が棲息していた。ホムツワケは新城(現在の養父神社)の近くで育ったらしい。
ホムツワケは317年に生まれ、廆が没する333年以前には遼東に連れて行かれている。口髭が生えるようになっても口を利かなかったというのは、最初は遼東の言葉が通じなかった事実を伝えているのだ。
ホムツワケはのちの慕容儁(しゅん)である。

337
・慕容皝、燕王を自称(前燕)。儁が王太子となり、列島に遠征。

廆は儁について「この子がいればわが一族は中原に鹿を追う(天下を取る)ことになるだろう」と言ったという。
皝の正妻には子がなかった。廆の意思によったと思われるが、儁はすんなりと皝の王太子になった。
しかし父親の皝は儁と行動を共にすることはなく、ただちに倭国制覇を命じた。ヤマトタケルが乱暴者だったので父の景行に愛されず、西征、東征と戦い続けることを強いられたという『記紀』の記述と一致している。
つまり景行には慕容儁の父・慕容皝が投影されている。「景行=ヤマトタケル」というわけではなかったのだ。
皝は垂仁のモデルでもあるから、垂仁と景行が重なり合っていることになる。
そうなった原因は、ホムツワケとヤマトタケルが同一人物であることを隠すため、両者の父親を別々にする必要があったからだ。言わば、景行は垂仁のダミーにすぎないのである。

  ホムツワケ = 慕容儁 = ヤマトタケル

  ヤマトタケル 父:慕容皝 父父:慕容廆
         母:狹穂姫 母父:丹波道主 母父父:彦坐王

前年に死んだ仁に代わって列島の支配者となるべく、儁は列島に再来し、列島に残る劉氏系勢力や反慕容氏勢力を征伐するために10年間東奔西走する。
儁と一緒に倭国に来たのは弟の(かく)だった。武勇と知略に優れ、生涯にわたって儁に忠誠を尽くしたという。
おそらく恪の母は、皝が連れて帰った狹穂姫の妹だろう。儁も恪も丹波道主の孫にあたる。父親に信頼されなかった2人は、普通の兄弟以上に固く結束していたのである。

ヤマトタケルの遠征は九州の熊襲退治に始まり、北陸や常陸・武蔵などの関東地方から陸奥国などの東北の一部が加わっている。とりわけ東征は土着勢力の激しい反撃を受け、困難を極めたようだ。
ヤマトタケルのシンボルとして有名なのが、八咫鏡、八尺瓊勾玉と共に三種の神器のひとつとされている天叢雲剣(草薙剣)だ。
伊勢神宮の倭媛命が天叢雲剣をヤマトタケルに授けたのだが、この行為は天皇即位の儀式以外の何物でもない。

 
■慕容翰の悲劇

338
・慕容皝、翰を受け入れた段遼を攻めて勝利。

鮮卑には慕容氏、拓跋氏、段氏、宇文氏などの部族があった。段遼は段氏の大人(たいじん、部族長)である。
ちなみに慕容皝の母親は段氏から慕容廆に嫁いだ段夫人である。
318年に慕容翰(皝の長男)は、慕容仁と共に宇文氏・段氏・高句麗の三国連合と戦って勝利したことがある。
333年、その翰は皝に謀反の嫌疑をかけられ、身の危険を感じて段遼のもとに逃れた。かつて敵だった翰が助けを求めてきたわけだが、味方になってくれれば段遼にとってこんなに心強いことはない。
しかし皝の攻撃を受け、段遼の采配ミスもあって敗れると、翰は北へ逃走し、今度は宇文氏に身を寄せた。

・東晋、慕容皝に征北大将軍他の尊称を授与。

劉氏そのものは3代で滅んだが、劉氏の家臣だった石氏、さらには苻氏が強盛になってきた。
とりわけ攻撃的だったのが後趙の3代目・石虎である。
東晋が勝手に燕王を自称する皝を追認したのは、石虎への対抗上、慕容氏を離反させたくなかったからである。

・慕容皝、鮮卑の宇文帰のもとにいた翰に迎えの使者を出し、翰を帰国させる。

339
・後趙の石虎、皝の居城を攻撃。

この後、皝は段遼、石虎、高句麗との消耗戦を繰り返す。皝の子、恪とが活躍。

341
・東晋、皝を改めて燕王に任じる。

342
・翰、石虎をバックに勢力を伸ばしてきた高句麗(故国原王、母は石勒の娘)を攻め、決定的なダメージを与える。

344
・翰、周囲からまた謀反を起こすのではないかと疑われ、信用を回復するのは困難だと悟り毒を飲み自殺。

いったん皝に呼び戻され、前燕の重要な戦力となっていた翰だが、その実力が本物であるがゆえに、猜疑心の強さが生涯変わらなかった皝との溝はついに埋まることがなかったのである。

 
■仲哀天皇即位

345
・慕容儁、新羅の訖解尼師今(劉氏派)に書を送り、国交断絶を宣言。

346
・儁、恪と共に扶餘を攻め、さらに百済に遠征して契王(劉氏派)を倒し、近肖古王を立てる。

儁と恪の兄弟は半島に遠征したが、儁が立てた百済の近肖古王は即位後19年間も行方不明となる。

・儁の長男の(よう)、列島に渡って残存する劉氏系勢力を鎮圧。

曄は新羅にも攻撃をしかけたが、訖解尼師今を倒すには至らなかった。

347
・儁、列島を去る。
仲哀即位。

仲哀とは、その前年に百済王として即位したが行方をくらました近肖古王であり、その正体は儁の息子の曄である。

  近肖古王 = 仲哀 = 慕容曄

これで慕容氏による列島支配は、廆〜皝(垂仁)〜儁(ヤマトタケル)に続き、曄(仲哀)で4代目となる。

いや、『書紀』によれば景行→成務→仲哀で、これでは成務が抜けているではないかと気付いたハイレベルな人もいるかもしれない。成務朝が存在しなかったことについても「仲哀」で解説したいと思う。

ヤマトタケルは没すると白鳥になって天に昇ったという。
(ホムツワケは鵠を見てものをいった。鵠とはコウノトリのことだが、古代ではどちらも白い大きな鳥なのでしばしば白鳥と混同されている。)
慕容儁は自身の倭国での戦いにはピリオドを打ち、息子の曄に半島南部と列島の統治を任せ、遼東に帰ったのだ。

次回は「日本武尊(2)」として、草薙剣について詳しく考察してみたい。