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聖 武

 皇太夫人事件

 神亀元年(724)、元正は聖武に譲位する詔の中で、

 (元明天皇は)霊亀元年に、この天日嗣の高御座の業と、天下統治の政を、朕に授け譲られ次のように教えられ詔された。
 『口にするのも恐れ多い淡海の大津宮に、天下を統治された倭根子天皇(天智)が、万世に改ることがあってはならぬ常の典として、立てお敷きになった法に従い、ついにはわが子に確かにめでたくあやまつことなく授けよ』・・・

 と述べ、最後に「わが子である汝に授け譲る」としめくくっている。
 (講談社学術文庫『続日本紀(上)』256ページ)

 聖武のことを、元明が「わが子」といい、元正もまた「わが子」と言っている。
 しかも、同じ『続日本紀』に、聖武の母は不比等の長女・宮子とある。
 本当はいったい、聖武は誰の「わが子」なのか?

 宮子は長年、幽憂に沈んで人と会おうとせず、聖武が誕生しても会うことはなく、玄ボウの勧めで初めて対面したと言われている。
 宮子は即位したばかりの聖武によって「太夫人」の称号が贈られたが、律令の規定なら「皇太夫人」ではないかと長屋親王が物言いをつけた事件は有名である。
 この事件には、2つの意味がある。
 ひとつは、最初から「皇太夫人」を名乗れなかった宮子は、本当は聖武の生母ではなかったということだ。
 宮子が長らく聖武と対面しなかったのは、古代の上層階級では他人同士の男女の対面は不作法と考えられ、宮子は他人である聖武をわが子と認めることを拒絶していたからである。

 もうひとつは、自分の一族が正統の天智系であることをアピールしたい立場だった長屋親王にとって、聖武の生母は藤原宮子の方が好都合だったということだ。
 元正から聖武への譲位の詔は、元正はすでに吉野に追放されたあとだから、長屋親王の発案によるものだったろう。
 長屋親王は、聖武を支持する新羅・聖徳王、また国内では舎人親王ら天武系皇子の圧力もあり、聖武の即位を認めざるをえなかった。

 しかし、聖武の実の母親は阿閉皇女(元明)だった。
 阿閉は草壁との間に日高と吉備を産み、文武との間に聖武を産んだのである。
 このことは、当時の儒教的倫理に反することであるため、公になってはいなかったのだろう。

 文武には皇后がいなかったが、その役目を果たしていたのは菟野と阿閉だったのだ。
 ある意味、菟野と阿閉はライバルだったわけだが、阿閉が聖武を出産したのが701年、菟野の死が翌702年であることは、さまざまな想像をかきたてる。

 宮子についてもさまざまな説があるが、とにかく藤原氏にしてみれば、宮子を聖武の実母とすれば一門の名が上がることは確かである。
 長屋親王は、宮子を聖武の実母にふさわしく皇太夫人に祭り上げ、藤原氏もこれを了承したというのが「皇太夫人事件」の真相であろう。
 ただし、これによって聖武は「純天武系天皇」として、唐に圧迫され続けることになるのである。

 渤海の首領・高斉徳

 渤海は、初代の大祚栄以来、高句麗の後身を自称していた。
 719年、親唐派の大祚栄が没すると、唐に入侍していた息子の大武芸が帰国し、2代目渤海王として即位。次第に反唐政策に移行していった。
 716年に遣唐副使として入唐した藤原宇合(不比等の三男)は、当時、長安にいた大武芸と接触していた可能性がある。
 724年、宇合は蝦夷征伐と称して出発。実はこれも渤海との交渉だったと考えられ、3年後の727年9月、渤海の首領・高斉徳ら24人が出羽国にやって来る。

 渤海勢は、将軍・高仁義ら16人が蝦夷に殺され、高斉徳ら8人が難を逃れて、4ヶ月後に入京したとある。
 このとき渤海勢の入国を阻止すべく抵抗し、将軍・高仁義が戦死するほどのダメージを与えられたのは、長屋親王の軍事力として多賀城に本拠を置く大野東人の軍勢以外にはない。
 親唐派の長屋親王にとって、反唐に転じた渤海勢の日本上陸は脅威であった。しかし東人は高斉徳ら8人を取り逃がし、入京を阻止することができなかったのである。

 宇合、不比等の長男の武智麻呂、そして不比等の娘・光明子ら藤原一族は、天武系の聖武を即位させている以上、唐からの圧力は必至であり、そのためにも反唐の渤海と連合関係を結ぶことが急務だった。
 また、それは親唐の長屋親王を失脚させることにもつながっていた。

 ところが、藤原一族の要望に応えて送使した大武芸には恐るべき狙いがあった。
 高斉徳は文武の子だったかもしれないのだ。
 文武は高文簡として中国東北部に遠征し、突厥の黙啜の娘を妻にしていたから、両者の間に生まれたのが高斉徳だったとすれば、高文簡が唐に降伏したことで行き場がなくなった高斉徳に大武芸が目を付け、彼を日本国王とし、渤海の傀儡政権を樹立しようと考えたとしても不思議ではない。
 なにしろ父が文武なら、日本国王の資格があるからである。

 基 王

 渤海使者が来日した727年9月、聖武と光明子の間に基王が生まれ、生後2ヶ月という異例の若さで立太子したとある。
 「基王」の名は、室町時代の『本朝皇胤紹運録』にあり、『続日本紀』には見えない。
 したがって「基」は「某」の誤りであると言う学者もいる。
 しかし、高斉徳がもたらした渤海王(大武芸)の書状を見ていただきたい。

 ・・・恐れながら思うのに、日本の天朝は天帝の命を受け、日本国の基を開き、代々栄光を重ね、祖先より百代にも及んでいます。・・・

 ここに、日本国の「基」とある。
 皇太子でありながら「基親王」ではなく、単に「基王」とあることからも、727年9月に誕生した基王とは、実は727年9月に出羽に上陸した高斉徳その人を指すと思われる。
 (渤海王を表す言葉にも、「可毒天」「聖王」のほか、「基下」という呼び名がある。)

 しかし、この皇太子、翌728年9月に亡くなり、元明陵に葬られている。
 元明陵に葬られているということは何を意味するか。
 それは、死んだのは元明の子、すなわち聖武だったということだ。

 文武の子で、聖武の異母弟にあたる高斉徳は、兄を暗殺したあと、そのまま聖武天皇になりすましたのである。
 このあと、渤海と日本の関係は聖武朝を通じてきわめて親密な関係にあった。 
 (小林惠子『すり替えられた天皇』文藝春秋社)

 鎌倉時代の『二中歴』は、基王の没した神亀5年(728)、聖武が25歳で即位したとしている。
 聖武が入れ替わったという伝承は、鎌倉時代まで秘かに伝えられていたのである。
 また、『続日本紀』には、同じ神亀5年8月、聖武は思うところがあって鷹狩りをやめるという詔が見える。
 これは、この時点で聖武は入れ替わっていたという暗示であり、「渤海使、拝辞せり」とある6月頃に聖武は殺されたと考えられる。
 しかし、高斉徳が帰国したという記事はなく、実際に渤海使が帰国したのは719年2月以後だったらしい。
 彼らの差し当たっての任務は、宇合のリクエストに応え、長屋親王を殺害することだったからである。

 長屋親王の変

 729年2月 長屋親王邸が藤原宇合の率いる近衛兵を中心とする軍勢に包囲され、不比等の娘の子弟(黄文王ら)を除き、一族全員自殺した。
 姉の元正が生存していたら吉備内親王までは死なせなかったかもしれないので、吉野にあった元正もこのときまでには没していたようだ。
 藤原一族にとって、高斉徳が聖武と入れ替わったのは予想外の展開だったかもしれないが、長屋親王を倒すという当初の目的は達せられた。
 渤海との関係からも、聖武の弟である高斉徳をこのまま天皇として支えていく他はなかった。

 4月 太政官が「舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するには及ばない」という不思議な決定を下している。
 『公卿補任』によると、このときの太政官は舎人自身であった。
 朝廷には他所者である高斉徳に不満を持つグループもいて、彼らは当時の治世の最高責任者だった舎人をたよりに思っていたが、長屋親王の惨状を目の当たりにした当人は、新聖武に逆らう意思はないことをアピールしたかったようだ。

2011/12/19改訂