安 康

 
■木梨軽皇子の正体

『書紀』では安康は允恭の第二子(一説では第三子)で、太子は木梨軽皇子だったとある。同母妹の軽大娘皇女と関係があったとして群臣や人民に支持されず、物部大前宿禰の家で自殺したという。

安康の正体が興ならば仁徳の子だが、『書紀』では仁徳の孫とされ、一世代若くなっている。
それに伴い、同世代の高璉も一緒に若くなって木梨軽皇子とされているのではないか。

  木梨軽皇子 = 高璉

孝徳や文武も即位前に「軽皇子」と呼ばれたように、木梨軽皇子の「軽」は「韓」、つまり半島の人である。
高璉は私見では倭国生まれだが、10代で北魏に亡命し、20代で高句麗王(長寿王)になっているので、ほとんど半島の人と言える。
また、長寿王と言われるほど長く高句麗王であったにもかかわらず、『高句麗本紀』には母親も王妃も記録されていない。一説には朝鮮ではタブーとされる同じ高氏の奥さんがいたとされ、木梨軽皇子の近親相姦のスキャンダルはそのへんを匂わせているのかもしれない。
『書紀』には長寿王も登場するのだが、長寿王が興の黒幕的な存在だったことを暗示するためだけに木梨軽皇子という安康の架空の兄を登場させ、すぐに自殺させているのだと思う。

  

 
■「大悪天皇」は雄略ではなく安康のことだった

454
・安康即位。(『書紀』)

安康は允恭が新羅に去った453年の翌454年に即位したことになっている。
しかしそもそも允恭は訥祇としてその軸足は新羅にあり、ほとんど倭国には定着していなかった。事実上倭王として君臨していたのは履中の子・市辺押磐だった。
訥祇と言えば百済の毗有王と共に高璉の政敵であるが、高璉が興を名実ともに仁徳の後継者とするためには、市辺押磐もまた排除すべき相手だった。

「饒速日(2)」でご紹介した丹後の籠神社に伝わる海部氏の系図『海部氏本記』では、新羅王子の天日槍が渡来した年が454年になっているという。
アメノヒボコは儒礼尼師今の王子で、慕容皝(垂仁)の片腕となった慕容氏派の人だった。しかしその上陸は315年だから、どう考えても『海部氏本記』の言う天日槍と同一人物ではない。
おそらく興が列島に上陸した年が454年で、それを『書紀』は安康の即位年とし、『海部氏本記』は「天日槍の渡来」として記しているのかもしれない。

安康が実際に即位するのは4年後の458年なのだが、この4年のズレがいろいろと問題なのだ。
『書紀』の安康は456年に死んだことになっているので、在位中にあったとされる事件は全て即位前に起きた事件であり、また実際に在位中に起きた事件は全て雄略時代の事件として書かれているのである。
たとえば、天皇が天下の人々から「大悪天皇」と誹謗されたという記事は雄略2年(458)にあるから誰でも雄略のことだと思ってしまうが、実際は安康が即位した年だった。「大悪天皇」と誹謗されたのは安康だったのである。
『書紀』の編者が「大悪天皇」の汚名を雄略に着せているのは、仁徳の太子だった安康に対する忖度意外には考えらない。雄略は安康の次に即位したから弟(大泊瀬皇子)とされてはいるが、そこまで由緒正しい血筋ではなかったことが窺えるのである。

 
■興、毗有王を殺害

455
・百済毗有王(大草香)死去。太子の蓋鹵王(こうろおう、餘慶)即位。(『百済本紀』)

『百済本紀』には「秋九月に黒龍が漢江にみえ雲霧が暗く広がった。龍が飛び去った時、王は死んだ」とある。

一方、『書紀』では大草香の死は1年早い454年になっている。
安康は弟の雄略のために大草香皇子の妹・幡媛皇女(はたびのひめみこ)を娶りたいと思った。
大草香は喜んで承諾し、家宝の押木玉縵(おしきのたまかずら)を捧げ、使いの根使主(ねのおみ)に持たせた。
ところが根使主はその押木玉縵があまりにも立派なのでネコババし、安康に「大草香は妹を差し出すことはできないと言いました」とウソの報告をした。安康は怒って兵を遣わして大草香の家を取り囲み、大草香を攻め殺した。
安康は大草香の妻・中蒂姫命(なかしのひめみこ)を自分のものとし、幡媛皇女を雄略に娶あわせたという。

大草香の家宝の押木玉縵は、新羅王陵から出土する慕容氏系の花樹状歩揺付冠(写真上。小林惠子『興亡古代史』の裏表紙より)と考えられている。
歩揺付冠とは歩くたびに揺れる装飾が付いた金冠で、慕容氏が特にそれを好んだので「歩揺」→「慕容」となったとする説もある。すなわち慕容氏のシンボルであり、慕容佐だった父・仁徳の形見だったのではないか。履中は応神系なので興味を示さず、大草香を百済王として送り出すときにそのまま持たせたのだろう。

大草香は仁徳の子、安康は『書紀』の設定では允恭の子だから仁徳の孫。したがって大草香は叔父上にあたる。
いくら「大悪天皇」でも、妹を差し出さなかった叔父上を攻め殺すというのは乱暴すぎないか。
安康の弟という設定で雄略も登場するが、安康は大草香の妹を雄略に娶せ、自身は未亡人となった大草香の妻と一緒になっている点に注目しよう。
安康は本当は大草香と同じ仁徳の子だから、幡媛皇女は自分の妹でもあるのだ。幡媛皇女を自分のものにしようとする気配がないのはそのためであろう。
ならば、雄略も安康の弟だったら幡媛皇女とは結婚できないはずではないか。
つまりここでは、安康は允恭の子ではなく仁徳の子であることと、雄略は安康の弟ではないことがわかるのである。

「安康が大草香を殺した」の真意は、まだ倭王になる前の興が百済に侵入し、異母弟にあたる毗有王を暗殺したということなのだ。
『百済本紀』にある「黒龍」は、慕容氏のカラーである黒で、慕容佐(土王、仁徳)の子・興を表わしている。
興は武人としてのDNAは父の仁徳譲りだが、性格は父とは正反対できわめて凶暴だったのである。

・10月、高句麗が百済を侵したので、王は兵を派遣して百済を救援した。(『新羅本紀』)

興が9月に毗有王を殺し、10月に高句麗が百済に侵攻。
このとき新羅の訥祇は百済に援軍を派遣している。
興に毗有王の暗殺をまかせ、興の倭王即位と朝鮮半島南部の征圧をもくろむ高句麗の高璉に、百済と新羅が連合して抵抗していたことがわかる。
高句麗の侵攻により、毗有王の次の蓋鹵王は12年間にわたって王都を離れ、北魏と宋の両方とコンタクトを取りながら各地を転々とすることになる。

 
■興、市辺押磐を殺害

456
・雄略、市辺押磐を猪狩に誘い、近江の蚊屋野にて殺害。(『書紀』)

『書紀』には、安康が従兄弟の市辺押磐に皇位を伝えようと考えていたことを弟の雄略が恨み、市辺押磐を狩りに誘って射殺したとある。
『書紀』では履中も仁徳の子だから市辺押磐と安康は従兄弟になるわけだが、従兄弟への譲位というのは当時にしても変な話である。
実際は履中は応神の孫であり、その履中の子・市辺押磐が倭王だった。仁徳の子である安康が倭王になるためには市辺押磐を殺すしかなく、逆に言えば、市辺押磐は倭王でなければ殺される理由はなかったのである。
ここでは雄略が実行犯とされているが、やはり真犯人は興だったと見る。しかし少なくとも市辺押磐が興に誘われてのこのこ狩りに出てくるわけがないので、市辺押磐の家来の誰かが興と内通し、市辺押磐を誘い出したのだろう。

 
■北魏・文明皇后(馮太后)

456
・北魏の文成帝の妃、文明皇后が立后。

北魏が北燕を滅ぼしたあと、高璉に殺された馮弘の子・馮朗が北魏に降って重用されていた。その馮朗の娘が文成帝の皇后にまで昇りつめた。
文成帝が若くして崩御したあと、子がなかった文明皇后は465年まで女帝として君臨し、別名馮太后と呼ばれている。北魏に滅ぼされた北燕の生き残りだった馮弘の孫娘が、逆に9年間にわたって北魏を支配したわけだから、たいへんな根性の持ち主だったことは間違いない。
文明皇后は北魏の衣を着た北燕そのものであり、もともと北魏と対立状態にあった高璉との関係はさらに悪化する。
そして北魏に接近したのが、高句麗に王都を追われた百済の蓋鹵王だった。

457
・宋、百済の蓋鹵王を鎮東大将軍に任命。
・百済、非公式に北魏に朝貢。

蓋鹵王は宋に送使して鎮東大将軍に任命された同じ年に北魏にも朝貢した。『魏書』に「コータン(タクラマカン砂漠のオアシス都市)や扶餘など50国が朝貢してきた」とあり、百済という国名ではなく民族名で書かれているので、非公式な朝貢だったと思われる。

  

上は毗有王以降の百済王家の系図(『百済本紀』)。
昆支
(こんき)はのちに息子の東城王が百済王になったので『記紀』と同じような万世一系思想に基づき文周王の弟として組み込まれているが、実は北燕の馮氏一族の亡命者で、蓋鹵王時代の将軍だった。
450年に毗有王が宋に遣わした使者も馮野天といい、馮氏が百済で勢力を盛り返していたことがわかる。
昆支は同族である文明皇后の立后を祝す使者として北魏に赴いたのだ。

 
■興、訥祇を殺害

458
・宋、百済の餘紀を行冠軍将軍に、餘昆を征虜将軍に任じる。

征虜将軍に任じられた餘昆とは昆支のことであろう。

・新羅の訥祇死去。長子の慈悲麻立干即位。
安康即位。石上穴穂宮(奈良県天理市)を王城にした。

訥祇が実際に死んだのは前年の457年であろう。これも興による暗殺に違いない。
安康の即位は毗有王、市辺押磐、そして訥祇(允恭)を暗殺した末に成し遂げられたものだ。『書紀』はそのことを隠ぺいするために安康の即位年を列島に上陸した454年に前倒しし、市辺押磐の殺害にいたってはこれを「弟」の雄略の仕業としたのである。しかし後述するが、雄略は百済から来倭したのが461年なので犯人ではありえない。

・百済が安康に奉った池津媛が、石川楯(たて)なる者と密通したことを理由に、安康は2人を焼き殺した。

これも『書紀』では雄略の仕業とされるが、安康である。
安康は毗有王を殺し、さらに百済に美女を献上させ、あげくにその女性を無残にも焼き殺したのだ。毗有王の子・蓋鹵王にとってこれ以上の屈辱はなく、倭国を本気で潰すことを決意したのはこの事件だったのかもしれない。
 

■雄略(昆支)九州に上陸

459
・昆支、新羅を侵攻。(462、463年にも。)

訥祇が殺されたあとの新羅は高句麗側に降っていたので、百済と新羅の結束も終わってしまったのだろう。

460
・倭国が宋に送使して土産物を献じた。(『宋書』)

安康は宋に送使したが、宋はいろいろと悪い噂を聞き及んでいたのか、ただちに安康を倭王としては認知しなかった。

461
・蓋鹵王、昆支を倭国に派遣。

この昆支こそ雄略の正体である。
征虜将軍という肩書きはほぼ百済の総大将を意味し、蓋鹵王が倭国を討伐する目的で送り込んだのである。

百済を出発する前に、昆支は蓋鹵王の後室の女性を賜わりたいと要求した。ところがその女性は蓋鹵王の子を妊娠しており、筑紫の加羅島(佐賀県東松浦郡の加唐(かから)島か)で男子を産んだ。嶋で生まれたので嶋君(せまきし)と呼ばれ、本国の百済に母子ともども送り返された。嶋は長じて武寧王となった。公州にある武寧王陵の墓誌に「寧東大将軍斯麻王が癸卯(523年)に62歳で没した」とあることから、461年に生まれたことがわかる。
武寧王の棺には日本固有種のコウヤマキ(高野槙)が使われている。生まれ故郷の列島に特別な感情を持つ武寧王が生前に作らせたものだろう。

昆支は九州に上陸した。
雄略の宮殿を泊瀬朝倉宮といい、奈良県桜井市に比定されているが、雄略が最初に本拠地とした朝倉宮は上陸地である福岡県に造営されたと思う。それはのちに7世紀の「白村江の戦い」に際して斉明天皇が行宮とし、崩御した場所でもある朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)のあった場所と推定される。福岡県の中南部で、大分県の日田に近い。
斉明がそこに宮殿を建てる際、朝倉社の木を切って用いたために神が怒って宮殿を壊したと言われているから、5世紀の同じ場所に雄略の宮殿があったと考えられるのだ。
昆支は九州土着の兵を集め、大和に進軍した。

 
■安康の死と欠史八代王朝の滅亡

461
眉輪王、安康を殺害。(『書紀』)

『書紀』によると、安康は山宮に出かけ、百済の毗有王(大草香)の妻だった中蒂姫命と酒を飲んでいたとき、ふと「わしは今このように楽しんでいるが、実をいうと眉輪王(毗有王の子)が怖いのだ」と漏らした。この話が7歳だった眉輪王の耳に入り、眉輪王は妃の膝枕でうたた寝している安康を刺し殺し、円(つぶら)大臣のもとに逃げた。
雄略が屋敷を囲んで眉輪王を引き渡すよう円大臣に迫ったが、大臣は葛城の所領を差し出すと言い、眉輪王の命乞いをした。雄略は聞かず、屋敷に放火したので、大臣は眉輪王を抱いたまま2人とも焼死した。遺体は分かち難かったので一つの棺に納めて葬ったという。

7歳の子の逃げる先と言えば、母方の実家だろう。
古注(雄略即位前紀)に、中蒂は履中の娘とあるが、履中紀に中蒂の名はない。
古注は平安時代に記されたものだから、中蒂が葛城に所領を持つ円大臣(葛城円)の娘とは書きたくなかったようだ。なぜなら中蒂姫命の「姫命」は、天皇の娘以外に付かない称号である。中蒂が円大臣の娘なら、円大臣は天皇だったはずである。

欠史八代王朝最後の開化天皇は、10月が癸丑の年(461年)に没したとある。
円大臣が由緒ある葛城地方を所有していたこと、死んだのが開化天皇と同じ年であること、大和地方の旧勢力が滅びたという記録が他にはないことから、円大臣とは開化天皇のことだったと考えられる。
神武以来、形の上だけでも200年以上続いた倭国の大和における神武系(東川王系)王朝はここで絶えたのである。

  円大臣 = 葛城円 = 開化天皇

円大臣の屋敷に放火した雄略とは昆支のことだろう。
しかし、昆支のそもそもの目的は安康への報復だった。それを眉輪王が代わりに実行してくれたのなら、眉輪王を殺す理由はない。まして眉輪王は毗有王の子だから、昆支の上司である蓋鹵王の弟にあたるではないか。

眉輪王が安康を殺したというのは『書紀』のフィクションだろう。
安康が妻の実家である円大臣の屋敷にいたところを、昆支がまとめて皆殺しにしたのだと思う。
毗有王、市辺押磐、訥祇を続けざまに殺した興もすごかったが、その興と円大臣、つまり現職の倭国王と、かつて慕容氏も劉氏も存続を許した大和の欠史八代王朝を躊躇なく滅ぼした昆支も、もうどっちが「大悪天皇」でもいい感じである。それだけ蓋鹵王も昆支も本気だったということだ。

462
・宋、興を安東将軍と倭国王に任じる。

しかし前年に安康は殺されているので、宋からの返事はひと足遅かったようだ。

倭王世子興は代々忠義だった。海外に藩国を作り辺境を整備した。このたび、恭しく職を貢上してきた。新たに辺境(倭国)を継いだので安東将軍と倭国王に任じる」(『宋書』)

興に限って「倭王世子」とある。世子とは、中国からみた藩屏国の太子のことである。
「代々忠義だった」などの誉め言葉については、高句麗の要請で興を倭の五王の4番目「倭王興」として承認するにあたり、3番目の倭王済(允恭)の倭国王を取り消さざるをえなかったことに対する弁解でもあろう。
土王は安氏系の譜氏で、北魏では安同を名乗っていた。したがって興も「安興」であり、ほとんど本名のまま、字だけ変えて「安康」としたようである。

(前回、宋は451年に済(允恭)の倭国王を取り消し、興を倭国王として承認(倭王興)したと述べた。しかし済の肩書きから倭国王が削除されただけで、まだそのときは興の名は出てきていなかったようである。ここに訂正します。)