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孝 謙

 仲麻呂全盛時代

 749年7月 阿倍内親王が即位して孝謙天皇になった。

 孝謙 父:聖武  父父:文武    父父父:天武
                   父父母:宝姫(金ユシンの姪。鏡王)
          父母:元明    父母父:天智
                   父母母:姪娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)
    母:光明子 母父:藤原不比等 母父父:天武
                   母父母:宝姫(金ユシンの姪。鏡王)
          母母:橘三千代

 孝謙の父の聖武は、新聖武に殺された兄の方である。
 その聖武の母は通説では不比等の娘・宮子だが、本稿では元明が草壁との間に日高(元正)と吉備(長屋親王の妻)を産み、文武と再婚後に聖武を産んだと考える。したがって1/8は天智の血も入っていることになる。
 さらに私見では、天武の長男が文武、次男が不比等だから、それぞれの子である聖武と光明子は従兄妹にあたる。 

 孝謙天皇時代の前半は光明子と藤原仲麻呂が実権を握った。
 皇后ではなくなった光明子は皇后宮を紫微中台と改名し、その長官の紫微令に仲麻呂を任命。

 孝謙即位を玄宗に正式に承認させるため、藤原清河(房前の4男)を遣唐大使、大伴古麻呂を遣唐副使に任命し、752年3月に節刀を与えた。しかし、このときの遣唐使はいつ出発したという記録がなく、754年1月、大伴古麻呂が帰国した記事だけがある。
 清河らに節刀を与えた直後、新羅・景徳王が日本に金泰廉ら700人もの軍勢を送ってきた。
 4月 東大寺の大仏の開眼供養が行なわれたが、孝謙天皇はそのまま仲麻呂邸に入って住み込んでしまう。
 6月 金泰廉が孝謙に調を献上。7月に帰途につくが、難波の客館に泊ったとあり、帰国したとは書かれていない。
 9月 渤海の慕施蒙らが佐渡島に着いた。
 753年1月 朝賀の儀式が行なわれなかった。
 5月 慕施蒙らが朝廷を拝して贈物を貢上した。
 6月 慕施蒙が帰国。

 『続日本紀』は何事もなかったように淡々と記録しているが、孝謙即位の承認を求める遣唐使派遣を巡り、新羅や渤海をも巻き込んだ戦闘があったようだ。
 そこには、かつて新聖武が日本から送り込んだ前新羅王の孝成王も関与していたと思われる。
 再び日本に戻って来た孝成王は、自分こそ新聖武のあとをついで日本国王になる権利があると考えたのではないか。金泰廉率いる700人の新羅軍も、その野望に加担したと考えられるのである。

 753年は新年の儀式も挙行できないほど緊迫した状況にあったが、753年6月までには新羅が負けた形で決着が付き、遣唐使を派遣できたようだ。
 仲麻呂が大欽茂に援軍を要請し、それに応えてやって来たのが慕施蒙の軍勢である。
 渤海は当時、安禄山と同盟して唐に対抗していたので、同盟の輪を日本にも拡げ、親唐の新羅を叩きたいという思惑があったのだろう。
 
 しかしそんな苦労の甲斐もなく、玄宗は孝謙即位の承認を拒否。
 (天武系であっても女帝ならば黙認するというのが唐の基本方針だが、あくまでも黙認であって、正式に承認したことはなかったのだ。)
 藤原清河は在唐大使として現地に留まり、二度と祖国の土を踏むことはなかった。
 それに対し、大伴古麻呂は753年正月の唐の朝賀の際、日本の席次が新羅より低かったことについて「古来より新羅は日本の朝貢国である」と強く抗議し、唐の将軍がこれを聞き入れて席を入れ換えさせた事件で新羅との関係をますます悪化させ、翌754年、鑑真とその弟子たち8人を伴い、凱旋するように帰国したという。

 鑑 真

 日本から唐に渡った栄叡、普照らが鑑真に来日を懇請したのは742年。
 さっそく翌743年に渡海が試みられたが失敗し、その後も何度も失敗を繰り返して、来日には10年もの歳月を要した。船を出すたびに暴風に見舞われたというのだが、そんな不自然な話はあるまい。
 一般に、聖武天皇が仏教の戒律を広めるために鑑真を招いたとされているが、それは来日後の鑑真が東大寺に戒壇院を設け、孝謙天皇が受戒するなどして、唐の名高い名僧として受け容れられたという結果が生んだ後付けであろう。
 新聖武が唯一庇護していたのは行基だったからだ。
 その行基一派の力が強くなりすぎるのを懸念し、鑑真の招聘を決めたのは舎人親王であり、それを10年にもわたって妨害したのは新聖武その人だったと思われる。
 ようやく鑑真が来日できたとき、舎人親王と行基はすでにこの世になく、新聖武も譲位したあとだった。
 そして、鑑真が良弁と共に行基以来の大僧都に任じられたのは、新聖武が没したのと同じ756年5月だった。
 新聖武の目が黒いうちは大僧都になれなかったという事実が全てを物語っている。

 奈良麻呂の変

 新聖武は道祖王(ふなどおう。新田部親王の子、天武の孫)を皇太子に任命するよう遺言したが、翌年、実際に立太子したのは大炊王(おおいおう。舎人親王の子、天武の孫)だった。
 仲麻呂はかねてから皇孫の大炊王に目をかけていて、長男の真従(まより)が亡くなったあとも私邸(田村第)に住まわせていた妻の粟田諸姉を大炊王と再婚させ、大炊王も私邸に招き入れたのだった。
 大炊王はのちの淳仁天皇だが、こうした経緯からも、淳仁が完全に仲麻呂の傀儡だったことは明らかである。

 757年1月 橘諸兄没。
 7月 諸兄の子・奈良麻呂によるクーデターが密告によって未遂に終わる。
 これによって黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人ら、反仲麻呂勢力が一掃された。
 主犯である奈良麻呂も殺されたに違いないが、のちに息子の清友が桓武天皇の側近となり、清友の娘が嵯峨天皇の皇后、仁明天皇の母となったことにより、正史は奈良麻呂の処分については何も語っていない。