応 神(1)

 
■苻洛のクーデター

376年
・前秦の苻堅、幽州刺史の苻洛に20万の兵を与えてを征服。

代は315年に鮮卑の拓跋氏が建国した国。のちの北魏である。
昭成王が庶長子に殺されて弱体化したところを、いったん苻洛に滅ぼされた。
昭成王の孫でのちに北魏を建国する道武帝(当時6歳)は母の里の賀蘭部に逃れた。

苻洪の長男と二男は石虎に殺されたが、その長男の子が苻洛である。
苻堅とは従兄弟同士になるが、年は苻洛の方が上だった。

  
苻洛は座ったままで奔牛を制する程の力を持ち、さらに鉄板を穿つほどの射術を持つと言われ、前秦の重要な戦力だった。ところが苻堅は苻洛を嫌い、恩賞も与えず、常に辺境に追いやっていた。苻洛が代を征服した直後にも、30万の兵を与え西方への遠征を命じたという。

不満をつのらせた苻洛はついにクーデターを企て、鮮卑・烏丸・高句麗・百済・新羅・休忍に使者を送って援軍を募集した。(『載記』)
しかし当時の超大国・前秦に歯向かおうなどとする国はひとつもなく、どこも苻洛に援軍を派遣しなかった。

ここで、常識的には倭国がくるべき位置に「休忍」とある。
「休氏の忍熊王が治める国」という意味だという(小林惠子)。
倭王として即位する者は出身氏族を問わず「休」を襲名する伝統があったのだ。たしかにスクナヒコナも東川王(神武)も先祖は大夏の休氏である。
晋は東川王系の王朝を認めなかったので『晋書』には倭国が出てこないのだが、五胡十六国の事柄を記録した『載記』にははからずも倭国の大王家の隠された姓が「休」であることが記録されているのである。

『万葉集』の柿本人麻呂の歌に「八隅知之 吾大王(やすみしし わがおおきみ)」とある。
「八隅知之」は大君の枕詞で「国の隅々までお治めになっている」という意味だが、いろは歌に暗号を仕組んだと言われているあの人麻呂が、何の工夫もなく「八隅知之」という言葉を選んだとは思えない。
「やすみしし」は「休氏し」で、「休氏であるわが大王」という意味が隠されているのだ。
8世紀の知識人は天皇家の姓が「休」であることをまだ知っていたのである。

その忍熊王は前回書いたように私見では神功の兄・千熊長彦だが、景行の和風諡号「大足彦代別天皇」(実際はヤマトタケルに与えられたもの)と同じ「忍」の一字があるので、小林惠子氏は通説通り仲哀の庶子としている。
しかし列島の大部分が慕容氏の支配下にあり、ヤマトタケルがシンボル的存在だった証拠にはなるが、本人が勝手にそう名乗っていただけかもしれない。

380
・苻洛、クーデターを敢行するが敗北。

東夷の諸国から協力を得られなかった苻洛は、7万の手勢を率いて和龍(かつての慕容氏の都)から苻堅のいる長安に進軍した。
苻洛の挑発に激怒した苻堅は、数十万もの軍勢をかき集め、総力を挙げて中山で苻洛軍と戦い、これを撃破。
苻洛は捕らえられて長安に護送されたが、苻堅は苻洛の長年の功績に免じ、殺さずに涼州の西海郡に流罪に処した。

382
・苻洛、涼州を脱走して百済に亡命。(小林惠子)

ときの百済王は近仇首王(武内宿禰)だが、苻洛が慕容氏系の国に亡命すること自体不自然なのに、このあと数年にわたって苻洛と近仇首王は行動を共にしたという。
小林惠子氏は両者には意外な接点があったと論じている。

成務は仲哀の大臣だった武内宿禰がモデルで、景行と同様に架空の天皇だった(「仲哀」)。
『書紀』は成務と武内宿禰を同じ日に生まれた別人とし、それぞれの両親を記しているが、実体は一人であり、ひとまず下のように仮定した。

 武内宿禰 父:ヤマトタケル
      母:八坂入媛 母父:八坂入彦(彦太忍信命)母父父:孝元?

母方の曽祖父が孝元というのは「武内宿禰は彦太忍信命の孫」という『書紀』の記録に従ったものだが、『書紀』の欠史八代は崇神より前に置かれているので、これをそのまま信じるわけにはいかない。
一方「成務は八坂入彦の孫」という記録に従うと、曽祖父は崇神、曽祖母は尾張大海媛となる。
崇神は大彦命と劉曜の2人がモデルだが、大彦命が尾張氏の妃を娶って八坂入彦が生まれたという話ならリアリティがある。

 武内宿禰 父:慕容儁(ヤマトタケル)
      母:八坂入媛 母父:八坂入彦 母父父:大彦命
                     母父母:尾張大海媛

とにかく、ここでは武内宿禰の母・八坂入媛がきわめて「やんごとなき」身分であったことを確認しておこう。

ヤマトタケルは最初に八坂入媛ではなく妹の弟媛(おとひめ)に求婚したが、弟媛は拒絶し、竹林に隠れてしまったという。『書紀』ではこの部分の主語は「天皇」とあり、文脈的には景行のように読めるが、もちろんヤマトタケルが正しい。
これは弟媛が竹がシンボルである苻氏にすでに嫁入りしていたことの暗示であることはすでに述べた。
涼州を脱走した苻洛が百済に亡命したのは、苻洛は弟媛が嫁入り先で生んだ子で、近仇首王と母親同士が姉妹だったからだというのだ。小林惠子先生にしか書けないすごい話である。

 苻 洛  父:不明  父父:苻洪?
      母:弟媛  母父:八坂入彦  母父父:大彦命
                     母父母:尾張大海媛

しかし、さすがにこの説にはツッコミ処が満載である。
苻洛の父は苻洪の長男と伝えられているが、ほとんど何もしないうちに石虎に殺された人物だ。
苻洪が劉曜に仕えたのが劉曜が北九州から長安に帰ってきてからの話だとすれば、苻氏と倭国には接点がない。ましてや尾張氏と関係があるとはとても思えない。
弟媛もまたやんごとなき身分である以上、嫁ぎ先もホムツワケと遜色ない相手だったはずである。わざわざ海を越え、まだ独立前の苻氏に嫁ぐなどということがありうるだろうか。
トンデモとして退けるならこれぐらいの反論で十分だろうが、どこかに解決の糸口はないものか。
復習がてら、苻洪に関連する情報をもう一度整理してみよう。

 
■苻洪ストーリー

300 高句麗美川王即位。王妃は劉氏の漢の将軍・石勒の娘。
318 漢の3代目・劉曜即位。国名を趙(前趙)と改名。苻氏の初代・蒲洪は劉曜に仕えていた。
   美川王、慕容翰・仁と戦って敗れる。
319 石勒、前趙から独立して後趙を建国。
320 美川王、倭国に亡命。大和王朝に迎えられる(孝昭)。
329 石勒、劉曜を殺して前趙を滅ぼす。蒲洪は後趙に服属する。
330 孝昭、後趙に朝貢。
332 この頃、慕容曄(仲哀)と武内宿禰生まれる。父はどちらもヤマトタケル(慕容儁)。
334 後趙の3代目・石虎即位。のちに蒲洪の長男と二男を暗殺。
349 石虎が亡くなり、内乱が勃発。蒲洪は一時期東晋に身を寄せる。
350 蒲洪、東晋から独立。このときから苻性に替わり、苻洪となる。しかしこの年、石虎の旧臣に暗殺される。
351 苻洪の三男の苻健、秦を建国(前秦)。

こうして見ると、苻洪と倭国を結び付ける可能性がある人物といえば孝昭をおいて他にないだろう。
孝昭が高句麗の美川王だった頃、すでに310年代には同じ劉氏派として苻洪(まだ当時は蒲洪)と私的な交流があったに違いない。劉氏を滅ぼした石氏に従わざるをえない運命も共有し、さらに絆が深まったと見る。

『書紀』の欠史八代の話はフィクションだとする研究者がほとんどだが、孝昭に関しては気になる記述がある。

  皇后:瀛津世襲(おきつよそ)の妹の世襲足媛(よそそたらしひめ)
  長男:足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
  二男:日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)、のちの孝安

ほかの天皇の場合、全て皇后が産んだ長男が皇太子になっているのに、孝昭だけ二男が跡を嗣ぎ、長男の天足彦国押人命は何をした人なのかいっさい記録がない。「天」と「日本」の対比も気になるところである。
注目すべきは、瀛津世襲は尾張連の祖とされていることだ。
尾張大海媛を母に持つという八坂入彦とオーバーラップするではないか。

尾張氏は葛城氏と同様、槃瓠伝説を持つ休氏から出た豪族で、ヤマトタケルの妃となった宮簀媛も尾張氏、草薙神剣を祀る熱田神宮の大宮司も代々尾張氏である。
景行の皇后・八坂入媛と、ヤマトタケルの妃・宮簀媛は同一人物と考えるのが妥当だろう。
八坂入彦は尾張氏のトップで、次女の弟媛は大和王朝の孝昭の皇后に、そして長女の八坂入媛はヤマトタケルの皇后になったのだ。尾張氏は旧豪族として大和王朝を支える一方、慕容氏という新たなる支配者にも皇后を提供し、その地位を確立していたのである。
弟媛はのちの苻洛と孝安を産み、八坂入媛は武内宿禰を産んだ。
苻洛の父親は孝昭(美川王)だったのだ。

 苻 洛  父:孝昭(美川王)父父:咄固   父父父:西川王
      母:弟媛     母父:八坂入彦 母父父:大彦命
                       母父母:尾張大海媛

孝昭は、いつか親友の苻洪が天下を取ると信じ、長男を「養孫」に出したというわけである。
時期的には孝昭が後趙に朝貢したという330年頃だろう。石氏への朝貢もさることながら、後趙には苻洪がいる。
したがって苻洛は仲哀や武内宿禰よりもいくつか年長ということになる。
 

■前秦の滅亡

383
・苻堅、慕容垂とともに兵60万、騎兵25万という膨大な兵力で東晋の建康(南京市)を攻撃。

苻洛が百済に亡命した翌年、苻堅は苻洛を欠いた状態で東晋との決戦に挑んだ。
結果は、数で圧倒的に勝る前秦が大敗するという大番狂わせとなった。
実戦に不慣れな苻堅は、負傷して慕容垂の許に逃げた。
垂の周囲の者は、敗因は苻堅の采配ミスにあったとし、垂に苻堅を殺しましょうと進言する者もあったという。
垂はかつて苻堅に身を投じ、受け容れてくれた恩義があるのでそれには応じなかったが、前秦を出て独立する決め手にはなったようだ。

384
・慕容垂が中山で独立し、燕国王を自称(後燕)。
・慕容暐の弟・慕容沖も長安の苻堅を攻めて勝利し、西燕と称した。苻堅は敗走。
・高句麗、故国壤王即位。

前秦のまさかの敗北で、垂のみならず慕容氏一族が再び勢力を盛り返し、次々に独立を宣言する。
高句麗では、371年に近肖古王と近仇首が故国原王を倒したあと、息子の小獣林王が即位し、再び百済とは対立が続いていた。その小獣林王の次に即位したのが弟の故国壤王で、いずれの王も劉氏派である。

・百済の近仇首王、死去。枕流(ちんりゅう)王即位。

この枕流王は『百済本紀』では翌年に死んでしまう。
タリシヒコが百済から列島に渡るとき、1年だけ百済で法王として名を残しているが、その前例として応神が1年だけ百済で枕流王として名を残したという事実があったのだ。
つまり枕流王とは近仇首王から禅譲された苻洛のことで、さらに翌年2人は列島に渡り、苻洛は応神となる。

  苻 洛 = 枕流王 = 応 神

 
■苻洛、忍熊王を滅ぼす

385
・長安を逃れた苻堅(48歳)、家臣の姚萇(ようちょう)に殺され、前秦が事実上消滅。姚萇の後秦成立。
・慕容垂が帯方王の佐に命じて龍城に入らせた。(『高句麗本紀』)
・高句麗で即位したばかりの故国壌王が遼東に攻め入って慕容佐に勝利するが、垂の子・慕容農に攻められ敗北、後燕に降る。(『晋書』)
・11月、枕流王が死去。太子(後の阿華王)が幼かったため、辰斯王が王位に就いた。(『百済本紀』)

帯方王の佐と慕容佐は同じ人物だろうが、このときしか史料には現れない。
枕流王が死去したとある385年、苻堅が死んだことで動きやすくなった苻洛は、まずは9年前のクーデターのときに援軍の要請に応じなかった休忍を懲らしめてやろうと思ったのか、列島にやって来た。
しかしそれだけが目的ではない。前秦が滅亡し、前秦を支えてきた貴族や技術者たちがみな苻洛を頼ってきたので、彼らの住み処として列島を選んだようである。
彼らは秦氏と呼ばれ、秦の始皇帝の末裔を自称していたようだが、苻氏の秦から来たので秦氏と呼ばれたのだろう。
しかし、苻氏がなぜ自ら建てた国を「秦」としたのかという疑問が残る。これはまた宿題として保留にしておこう。

当時、大和には忍熊王(千熊長彦、休忍)ら陳一族、そして山口の穴門豊浦津には神功がいた。
神功は穴門から筑紫に出てきて苻洛と初めて対面。『古事記』はこれを「神功は筑紫国に渡ってから応神を産んだ」としているのである。

苻洛はたしかに前秦では名のある武将だったが、結果的には逃亡者であり、逃亡中にその前秦も消滅している。すでに還暦ぐらいであろう老将の苻洛に、あの神功がすんなり降伏したというのが私には解せなかった。
近仇首王にしても、苻洛が単なる侵入者だったならば、もし単独で倒せなければまた列島の陳一族に救援を求めればよかったではないか。ほとんど手向かうそぶりもなく百済王位を禅譲しているのは、やはり苻洛が孝昭の長男で、近仇首王とは母親同士が姉妹で、苻洛の方が年長だったという血縁のパワーが決め手だったとしか考えられない。
崇神に「神」が付くのは劉氏の漢に対する天武の忖度という気がしないでもないが、応神に「神」が付くのはまさに神武の直系だったからだ。苻洛はなるべくして応神になったのである。
欠史八代王朝が完全なフィクションではなく、しかも雄略の頃まで並行して存続していたという認識がなければこの結論に至ることは不可能である。
また、のちの継体が「応神の五世孫」とされていることにも深い意味があったのだ。

一方、神功の兄と思しき忍熊王(千熊長彦)は、父親の百済・比流王はもはや過去の人だし、休氏の「休」とヤマトタケルの「忍」を合わせて「休忍」などと勝手に倭王を名乗っているだけにすぎない。しかも以前、苻洛からの救援要請をシカトした前歴がある。苻洛が大和に入ってくればほぼ間違いなく殺されるだろう。生き残るためには、戦って勝つしかなかった。

386
・苻洛と神功、近畿地方に進出。忍熊王を滅ぼす。

苻洛、近仇首、神功は揃って船で東上した。
その際、あらかじめ死者を乗せる喪船を用意して苻洛は死んだと風評を流した。
苻洛と神功が摂津(神戸)まで来たとき、忍熊王らが軍勢を率いて待ち構えていた。
ところが現われたのが喪船だったので、苻洛はやっぱり死んだのかと油断したところを、喪船に隠れていた兵が現われた。不意をつかれた忍熊王たちは完敗した。
このとき活躍したのが、近仇首の子の辰斯、日本名・甘美内宿禰(ウマシマチノスクネ)だった。

『記紀』に、甘美内宿禰が兄の武内宿禰を讒言し、どちらが潔白なのか応神の前で探湯(くがたち)をさせられた話があるが、実際は甘美内宿禰は武内宿禰の弟ではなく息子だったのだ。子が父を陥れるのは儒教的に問題があるので弟とされたのだろう。
甘美内宿禰が忍熊王との戦いで活躍したのは、新たな倭王・応神へのアピールだったと思う。
探湯の話では武内宿禰が勝利し、甘美内宿禰は行方をくらましてしまうのだが、本当の勝者は甘美内宿禰だった。応神は甘美内宿禰を百済王(辰斯王)として承認したが、武内宿禰は仁徳朝になるまで姿を消す。おそらく彼も百済に戻ったのだろう。

  甘美内宿禰 = 百済・辰斯王

武内宿禰は戦前は壱圓札の肖像画に描かれていたほどの人だが、現代人にはもはやピンとこない。
景行〜成務〜仲哀〜応神〜仁徳の5代の天皇に仕えた忠臣とされ(ただし成務は本人だが)、紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など中央の豪族がこぞってその先祖に武内宿禰の名を掲げるという人気者である。 
ヤマトタケルが慕容氏系王権のシンボル的存在だったことを思えば、日本で生まれた皇子・武内宿禰はたしかにプリンスの中のプリンスではあったのだ。そこへ可足渾が産んだ曄(仲哀)が倭王としてやって来たので、非運の皇太子という日本人が大好きなパターンにハマったのだろう。
しかし神功の再婚相手となり、応神即位の中心的役割を果たし、後世には応神の本当の父親だったという噂も立って、古代史上の偉人として揺るぎない地位を得たのだろう。

 
■ホムタワケとイザサワケ

『書紀』によれば、応神は3歳のときに笥飯(けひ)大神を参詣した際、主祭神の伊奢沙別(イザサワケ)命と名を交換したとある。「それだと笥飯大神のもとの名をホムタワケ、太子(応神)のもとの名をイザサワケということになるが、そういった記録はなくまだつまびらかでない」というコメントも付いている。
『古事記』では、武内宿禰が忍熊王を倒した直後、御子を連れて敦賀へ禊に行った日の夜、夢の中にイザサワケ大神命が現れ「わたしの名と御子の名とを換えようと思う」と言ったとある。(厳密には、夢の中に現れた時点ではまだイザサワケではなかったことになる。)

氣比神宮は、地図でわかるように大陸と列島を結ぶ交通の要衝にある。
史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。

主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)。以下、仲哀・神功・応神・日本武尊・玉姫命・武内宿禰が祭神として並ぶ。ヤマトタケルはその他大勢の中に置かれたわけだ。

315年、辰韓の儒礼尼師今の子・アメノヒボコが、父の仇である劉氏へのリベンジのために播磨に上陸し、吉備津彦(イサセリヒコ)と戦ったときの戦利品として垂仁(慕容皝)に献上したのが「イザサの太刀」である。
それからアメノヒボコは但馬へ進軍し、317年、慕容皝の丹波王国征服に協力。
皝が丹波道主の子・狭穂彦の妹の狹穂姫を娶り、生まれたのがホムツワケである。(したがってホムツワケの誕生年は318年以降か)。
ホムツワケが長じてヤマトタケルになったことは史書には伏せられているが、地元民は当然知っていて、ホムツワケ生誕の地である笥飯にヤマトタケルを祀ったのが氣比神宮の始まりではないかと思う。
つまり、笥飯大神の元の名はホムツワケなのである。

一方、イザサワケは「イザサの太刀」を連想せざるをえないが、「去来紗別」とも書く。このあと登場する履中天皇の和風諡号を去来穂別(イザホワケ)といい、「去って来る」、つまり列島で生まれて大陸に渡り、再び列島に帰って来たことを表わす。あまりにもストレートな命名に小林惠子先生もたじろいだという。
履中のみならず、応神も列島生まれだから「去来」に該当する。最初に「イザサワケ」と呼ばれたのは応神だったのかもしれない。

320年、ツヌガアラシトが穴門(山口県豊浦郡)に着き、その後道に迷いながら越の国の笥飯の浦に着いた。そこを名付けて角鹿(つぬが、現在の敦賀)という。
ツヌガアラシトは高句麗の美川王と辰韓の訖解尼師今という2人がモデルになっている。
訖解尼師今は辰韓への帰国を許されたが、美川王は大和の欠史八代王朝が王として迎え入れた(孝昭)。
笥飯は美川王(孝昭)上陸の地として、息子の応神にとっても重要な場所となる。
そして応神と武内宿禰は、忍熊王を倒したのち、笥飯大神(ホムツワケ)を参詣した。
応神のメインの目的は、ホムツワケの子である武内宿禰立ち会いのもと、正式に倭王を襲名することだったのだ。
応神が笥飯大神の名(ホムツワケ→ホムタワケ)を襲名し、代わりに応神を意味するイザサワケが笥飯大神に与えられたというわけである。
 

■八幡神

宇佐神宮の御霊水(写真)は、571年、八幡神が出現したとされる霊場である。

秦氏は応神と共に大和へ上ったが、宇佐に残ったグループもあった。
『隋書』に、竹嶋、聃羅國(済州島)、都斯麻國(対馬)、一支國(壱岐)、竹斯國(筑紫)、その東に秦王國があったと記されている。所在地を山口県とする説もあるが、秦氏が創建に関わった宇佐神宮があることから考えて、やはり大分県の宇佐だと思う。

秦氏は土木、養蚕、機織などさまざまな技術を伝えたとされるが、当時、そんな平和産業ばかりだったはずがない。八幡神が最初は鍛冶職の老人の姿をしていたことが示すように、秦氏の本業は鉄を用いた武器の製造だった。応神は武器職人を大勢連れて来たのである。
老人というイメージは、列島に上陸した苻洛(応神)がすでに50歳を過ぎていたという伝承によるものだろう。
実際、もし326年生まれなら、列島に戻ってきたときはちょうど還暦である。

八幡社は全国に4万社以上あり、宇佐神宮はその総本宮だが、八幡神とは秦氏が列島に持ち込んだ神様(おそらく原始キリスト教)だったと思う。
6世紀の蘇我氏の時代、大和朝廷が九州勢力を支配下に置くため、秦氏を倭国に導いた応神と宇佐の八幡神を合体させて「八幡神=応神天皇」としたのではないかと想像する。

八幡神が立っていたという竹の葉は、八坂入彦の娘の弟媛が隠れた竹林と同じ、応神の苻氏を暗示する。
蒲洪の占者が「艸付応王」(艸は王なる者に付く)と言ったので蒲氏から苻氏に変えたわけだが、その「王」を「神」にランクアップし、「艸付応神」(艸は神なる者に付く)としたのが応神という漢風諡号の由来である。
『記紀』にある漢風諡号は8世紀の奈良時代になって付けられたものだから、当時の日本の識者は応神が苻氏であることを知っていたのである。

ちなみに宇佐神宮の主祭神は応神、比売大神、神功の3柱だが、中央の比売大神とは伊都国から宇佐に遷都した女王・臺與のことかもしれない。(「神武(2)」参照 )

さて、応神は書くことが多すぎるので次回に続編をお届けする。
老いてますます盛んとは応神のためにある言葉で、おとなしく倭王で収まる人ではなかった。
再び大陸に渡り、広開土王との雌雄を決する闘いに臨む。