欠史八代王朝

 
■ハツクニシラスとは

266年、綏靖は西晋に送使したが、西晋は東川王系の列島支配を許さず、倭国の存在を認めなかった。(「神武2」)
その結果、『記紀』や『三国史記』よりは比較的客観的な中国の史料に、倭国は413年まで再登場しない。「謎の4世紀」と呼ばれる所以である。

欠史八代王朝とは『記紀』の2代綏靖から9代開化までの8代を指し、どの天皇もあまりにも存在感が希薄なので、神武の即位年を紀元前660年にしたことを埋め合わせるために創作された架空の天皇だと考える人が多い。
10代崇神は和風諡をハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)といい、実在した初代天皇だった雰囲気を出していることもその根拠のひとつである。
しかし、それは初代神武も架空の存在であることを前提とした話だ。
神武が高句麗・東川王というリアルな存在だったとすれば、初代天皇が2人いることになる。

現在につながる天皇家の始祖は天武である。そういう意味で本当の初代天皇は天武だ。しかし天武の時代には誰も天武が倭王であることに納得していなかった。天智の長男・高市(持統)や、父は天武でも天智の娘を母に持つ大津の方がまだしも正統だった。
『書紀』は、まずは天武その人を正統とする必要があった。イザナギ(伊氏の氏神)〜天照大神〜ホアカリ(ニギハヤヒ)の系譜にニニギを(ホアカリの弟として)組み込んで神武につなげ、その末裔である天智の弟として天武を組み込んだのである。
ならば神武から天智までは問題なくつながっているのかと言えば、答えはノーである。天智はタリシヒコの孫で、継体系ではない。その継体も武烈以前とはつながっていない。そしていま取り組んでいる神武〜武烈の時代も、およそ一筋縄ではいかない複雑さである。
天皇系譜は初代天皇だらけなのである。ことさら崇神だけが「ハツクニシラス」だったわけではないのだ。
「ハツクニシラス」は、天武が本当は崇神を初代にしたかったことの表われなのかもしれない。しかし崇神の即位年を紀元前660年にすると、それこそ尺が埋まらない。200歳オーバーの天皇を乱発しなければならなくなる。どうしても崇神の前に欠史八代王朝を、そして一番最初に神武を置かざるをえなかったのである。

 
■崇神朝:劉氏が列島を支配した時代

3世紀末、西晋の王室は内紛のために弱体化し、軍事力を担ってきた鮮卑の慕容氏匈奴の劉氏が台頭してきた。両者は対立し、半島や列島の主導権を巡る争いにも発展した。
匈奴の劉氏は、劉姓であることから漢の後継者を自称していた。
欠史八代と呼ばれる天皇は以下の通りだが、4人の天皇に「孝」が付く。

  綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化

漢王朝では、高祖(劉邦)と光武帝を除き、孝武帝、孝明帝のように、全ての諡号に「孝」が付く。一般的には省略されて武帝、明帝と呼ばれているので気付きにくいのだが。
欠史八代の孝昭のとき、劉氏による列島支配が始まったと推測できるのである。

『記紀』の編纂を命じた天武は、私見では高向玄理の子で、ルーツは応神朝に阿知使主(あちのおみ)と共に渡来した七姓漢人の一つである高氏にさかのぼる。天武は漢人の血筋を誇り、自身を漢の高祖や武帝や光武帝になぞらえ、さらに漢の後継者を自称する劉氏に対する思い入れも強かったようだ。そこで劉氏が列島を支配した時代に神武と同じ「神」を付けて崇神朝としたのである。
もうひとり「神」が付くのが、高氏を列島に招いた応神である。詳しくは応神のときに説明するが、実は応神も劉氏と無縁ではなかった。

ちなみに神武(東川王)が初代に選ばれたのは、高句麗王であり、天武と同じ「高氏」としやすかったからだろう。
東川王の父は山上王で、休氏のニニギ族、母は挹婁だから、本当は高氏ではなかった。
高句麗という国名の由来になった高氏は、おそらく6代太祖大王(宮)から9代故国川王あたりの誰かの母親が高氏だったというようなことに由来し、東川王はそれに便乗して高氏を名乗ったか、天武が『高句麗本紀』にそう書かせたのだろう。
オリジナルの『三国史記』は『記紀』と同時期に大和朝廷で書かれたと私は考える。百済と高句麗は唐に滅ぼされていたのだから、両国の遺臣が故国の歴史を書く場所は亡命先の倭国をおいて他にない。だから天武は『記紀』と『三国史記』の両方の編纂に関与できたのである。

『記紀』は列島が劉氏系勢力の支配下にあった20年間を崇神朝としている。その後、列島の支配者が慕容氏に変わったのが垂仁朝だ。
欠史八代王朝は、神武系天皇家が大和という地域限定で統治権と祭祀権を認められた旧王朝で、全国規模の崇神朝や垂仁朝と並行して存在し、雄略の頃まで続いていた。
この8代をまとめて崇神の前に置いたのは、神武元年を紀元前660年に設定したことによる引き伸ばし策だったことは事実だが、彼らはけっして架空の存在ではなかったのだ。そして9代開化と21代雄略は同時代の人だったのである。

なお、崇神朝は20年ほどなのに「孝」が付く天皇が4代も続いているのは、「孝」が付くからと言って劉氏が婿に入ったわけではないし、そもそも慕容氏は大和の王朝の血筋には無頓着だったのかもしれない。

 
■武埴安彦とは誰か 

綏靖の直後の安寧懿徳には「孝」が付かないから、まだ劉氏の侵略を受ける前だったらしい。しかし劉氏よりも先に慕容氏が列島への侵略を開始していた。列島の支配者は、慕容氏(安寧&懿徳)〜劉氏(崇神朝)〜再び慕容氏(垂仁朝)と移り変わったことになる。
『記紀』は、綏靖〜安寧〜懿徳の時代と、次の劉氏の時代をひっくるめて崇神朝としている。しかも事件が正しい順序で書かれていないので、「天皇は」という主語が、実際は誰だったのかを個々に検証する必要がある。
例によって、時間軸に沿って検証していこう。

286
慕容廆、東に扶餘を攻めて扶餘王を自殺させた。(『晋書』)

慕容廆は、のちに前燕を建国する慕容皝の父親であり、慕容氏の初代リーダー的人物である。
西晋は東川王系(神武〜綏靖)の列島支配を許さず、倭国の存在を認めない立場だったので、『晋書』には倭国という国名が出てこない。そのかわり倭国を「扶餘」と表現する場合がある。列島には扶餘族が深く浸透していたからだ。茨城県の鹿島神宮や奈良の春日大社では扶餘のトーテムである鹿が神の使いとされているし、絵本やマンガなどに見る神武やヤマトタケルの白を基調としたコスチュームは、実は典型的な扶餘族のスタイルなのである。
慕容廆は文字通り「東に扶餘を攻めて扶餘王を自殺させた」のか、それとも「東に倭国を攻めて倭国王を自殺させた」のか、あるいは両方なのかもしれないのだ。当時の慕容廆は主君である西晋との関係が悪く、かなり攻撃的になっていたからである。

倭国に、それに該当しそうな事件があったのである。
『記紀』によると、大彦命武渟川別(タケヌナカワワケ)の父子は、クーデターを起こした武埴安彦(タケハニヤスヒコ)とその妻を大和で征伐したという。
『書紀』によると、武植安彦は大彦命に「何のためにお前は軍を率いてやってきたのだ」と言ったという。
これ、とてもクーデターを起こした側のセリフではないことにお気付きだろうか。
大彦命が綏靖朝の軍事のトップに立つ将軍だったとすれば、それを「お前」よばわりできるのは国王である綏靖をおいてほかにないのではないか。

クーデターを起こし、綏靖を自殺に追いやったのは大彦命だったのである。その黒幕が慕容廆だったと見る。
家臣による天皇殺しは不名誉なこととして『記紀』には記載されない。唯一の例外は蘇我馬子による崇峻暗殺だが、これは馬子によるタリシヒコ暗殺を暗示するもので、しかも崇峻はそもそも即位しておらず、殺されもしなかったと私は推測した(「崇峻」)。
武植安彦(綏靖)の妻とは、綏靖の皇后で、事代主の娘とされるイスズヨリヒメということになろう。
綏靖が大和で即位したのは266年だから、それからちょうど20年後の出来事だった。

  武植安彦 = 綏靖

慕容廆は倭国に遠征し、大彦命と武渟川別の父子を寝返らせて軍事力を掌握し、綏靖を滅ぼしたと考えられる。
しかしさすがに大彦命は自身が仕えた綏靖を殺すにしのびなかったと見え、自殺に追い込んだのだろう。
(ただし『書紀』には武埴安彦もその妻も「殺された」とある。)

・慕容廆、西晋から鮮卑都督に任じられる。
・百済の古爾王死去。子の責稽王が即位。
・新羅の儒礼王、百済と講和。

慕容廆は鮮卑都監に任じられ、帯方郡を領有。百済においては責稽王を即位させ、自分が後押しする帯方大守・張氏の娘を与えて婚姻関係を結ばせて支配下に置いた。その百済と講和したという新羅の儒礼王も、慕容廆の傘下にあったと思われる。
高句麗以外の半島南部と列島は、ほとんど慕容氏の支配下となったのである。
 

■オオタタネコにオオモノヌシ大神を祀らせる

国内に疫病が流行ったので、天皇が天照大神を豊鍬入姫命に、倭大国魂神を渟名城入姫命に預けて祀らせたところ、渟名城入姫命は髪が落ち、体が痩せてお祀りすることができなかった。天皇の夢枕にオオモノヌシが立ち「わが子オオタタネコに私を祀らせよ」と告げたので、オオタタネコを探し出し、オオモノヌシを祀る祭主とした。また、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大国魂神を祀る祭主とした。すると疫病が収まった。(『書紀』)

オオモノヌシは私見ではオオクニヌシの末裔・ナガスネヒコである。そのナガスネヒコが夢に出て「わが子オオタタネコ」と言っているが、オオタタネコはオオヤマトネコ(大日本根子)の略称で、倭国王を意味する。孝霊・孝元の和風諡号にも付いている。

  7代孝霊:大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコ ヒコフトニノスメラミコト)
  8代孝元:大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコ ヒコクニクルノスメラミコト)

オオタタネコは、大彦命らに滅ぼされた武埴安彦(綏靖)とイスズヨリヒメの息子だったのではないか。
『書紀』に、イスズヨリヒメは神武の皇后(ヒメタタライスズヒメ)の妹で、綏靖から見れば叔母にあたるとあるが、私見では神武は安芸で死んでいるので、神武の皇后は存在しない。ヒメタタライスズヒメはイスズヨリヒメと似たような名前を付けられた架空の皇后ということになる。
『書紀』では、オオタタネコに両親の名をたずねると「父は大物主大神、母はイクタマヨリヒメ」と答えたというが、イクタマヨリヒメもイスズヨリヒメと似たような名前である。

本当の父が綏靖だったとすれば、オオタタネコは皇太子である。
その彼をオオモノヌシを祀る祭主としたということは、廆と大彦命は、綏靖の死後も神武系王朝の存続は認め、その権限を大和地方に限定し、三輪山の祭祀権も許可したということである。
天照大神を豊鍬入姫命に預けたとあるが、小林惠子説では豊鍬入姫命は綏靖と共に大和入りした臺與(トヨ)である。
しかし私見では、臺與は伊都国から宇佐に遷り、大和入りしてはいないので、豊鍬入姫命は臺與ではない。では誰なのかと聞かれると困るが、天照大神を祀る「ウマシマジ系のヒミコ」だったのだろう。彼女も大和(現在の継向遺跡あたり)での存続を許されたわけだ。
箸墓古墳の被葬者についてはいろいろ言われているが、その規模が大王級なので、オオタタネコが作らせた父・綏靖の陵墓だったとするのがもっとも妥当なのではないか。
 
 
■吉備王国に入り込んだ百済王子・温羅

かつてオオクニヌシの出雲勢力の範囲にあった吉備には、神武勢が8年間滞在し、神武の墓・備前車塚古墳もある。綏靖が大和で即位したあとも、同じ一族の飯人根が吉備を仕切っていたと見る。
ところが、慕容廆と大彦命が綏靖を滅ぼした頃と前後して、早くから慕容氏の支配下にあった馬韓からも、吉備の鬼ノ城(岡山県総社市)に百済王子と称する温羅(うら)が入り込んだ。
温羅は鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。
岡山の「桃太郎まつり」には「うらじゃ」という踊りがあって、それ自体は新しいものだが、モチーフとなっているのは古くから伝わる鬼神・温羅の伝説であるらしい。
飯人根は温羅に追放され、岡山の神武系勢力も慕容氏にその座を奪われてしまったようだ。
(次回、この話のつづきアリ。)

 
■西川王、懿徳天皇となる

288
西川王は4月に新城に行き、8月に東方に狩に出かけ、白鹿を獲った。11月、王は新城から帰った。(『高句麗本紀』)

誰もが高句麗での話だと思うだろうが、新城とは但馬の丹波道主命の居城で、現在の兵庫県養父町、丹波道主命を祀る養父神社あたりに存在した。この地は日本海に注ぐ丸山川に面し、半島との交通が便利な場所である。
白鹿は扶餘を表象するが、ここも倭国を指す。「白鹿を獲った」とは、但馬の反西川王派を征伐したことを言うのだろう。
東川王と同盟関係にあり、東倭とも呼ばれた丹波王国はまだ慕容氏の侵略を受けていなかった。丹波道主命はその当時の国王である。

西川王は東川王(神武)の孫だが、次の烽上王は、東川王、中川王、西川王のように「川」の字が付かない出自不明の王で、『高句麗本紀』には非常に残虐な王として描かれている。その次は西川王の孫の美川王で、「川」の字が復活する。
烽上王はもともと西川王の家臣だったのではないか。
西川王は、叔父にあたる綏靖を大和で殺した慕容廆がいずれ高句麗にも攻め込んでくると予想し、高句麗を烽上王にまかせて、自身は丹波に避難すべく、その下見のために来倭したと考えられる。

291
八王の乱始まる。(〜311)

これは解説すると長くなるので、西晋王室の内乱とだけ言っておこう。
これをきっかけに各地で反乱が起きる。中でも最大の勢力は、劉淵をリーダーとする匈奴の劉氏だった。
劉淵は八王の乱を契機に匈奴の大単于になり、304年に晋から自立する。

292
・西川王が死去。烽上王が即位。(『高句麗本紀』)
懿徳即位。

『書紀』の4代懿徳天皇の元年はBC510年だが、同じ辛卯(かのとう)で271年というのが高句麗の西川王が即位した270年に近い。
西川王は『高句麗本紀』に死んだとされる292年に再び来倭し、丹波道主命の後ろ盾により、新城で自ら倭王を宣言したようだ。『書紀』はこの西川王を懿徳天皇とした。実際、神武の孫だからである。ただし即位年は(1年のズレはあるが)西川王の高句麗での即位年を採用し、その正体が西川王であることを暗示したと見る。

  懿 徳 = 高句麗・西川王

西川王は高句麗の王位を烽上王に禅譲したわけだが、烽上王にしてみればクーデターを起こす手間が省けたので、二つ返事で引き受けたと思われる。
翌年、西川王の予想が的中する。

293
・慕容廆、高句麗の烽上王を攻める。

慕容廆が、やはり高句麗に侵攻してきた。
烽上王は列島に亡命した前王の西川王の元へ逃げ込んだ。
慕容廆の軍勢もこれを追って来たが、新城の高奴子が五百騎を率いて迎え撃ち、これを敗走させた。
烽上王は高奴子に鵠林の地を食邑(領地)として賜ったという。
『高句麗本紀』はその舞台を列島だったとは記していないが、前述のように新城とは但馬の丹波道主命の居城であり、鵠林の地とは渡りをしないコウノトリが群棲していた但馬のことである。高奴子とは丹波道主命その人だろう。
丹波道主命に鵠林を与えたのは烽上王ではなく、新城の懿徳(西川王)だったと考えた方が自然である。

しかし烽上王はとんでもないやつで、帰国後、本来なら高句麗王になる資格を有する西川王の子・咄固(とつこ)を殺した。そして咄固の子・乙弗(いつふつ、のちの美川王)にも危険が及んだので、乙弗は列島に渡って身分を隠していたらしい。

 
■大彦命、都を磯城に移す

293
安寧即位。

綏靖を裏切った大彦命は、オオタタネコに神武系王朝の局所的な権限を認めたあと、自身は関東に遠征し、斯鬼宮という都を造営して、自ら大王として即位したようだ。

  安寧天皇 = 大彦命

丹波道主命や大彦命は、いずれも崇神が派遣した「四道将軍」のメンバーとされるが、命(ミコト)とは大王を意味している。丹波道主命は丹波王国の大王、大彦命は関東王国の大王だったのである。

安寧の即位年は『書紀』に癸丑(みずのとうし)の年とあり、BC548年だが、293年が同じ癸丑である。
『書紀』では懿徳のBC510年より古く、安寧が3代、懿徳が4代となっている。
安寧は関東、懿徳は但馬で、両者につながりもないので、綏靖の神武系王朝との連続性を加味して安寧を先にしたのかもしれないし、293年というリアルな年号を干支で表現したらそうなってしまったのかもしれない。

埼玉県行田市の埼玉古墳群は前方後円墳8基、円墳1基が残る全国有数の大型古墳群である。
その中の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣(写真下)に、「大彦命の子孫が代々杖刀人の首として奉事し、ヲワケの臣に至る。ワカタケルが斯鬼宮にある時、ヲワケの臣は天下を左治(助け治める)した」とある。

 

安寧の和風諡号は磯城津彦玉手看(シキツヒコタマテミ)といい、崇神が都を置いた場所と同じ「シキ」がある。
大彦命の傍系の子孫のヲワケの臣が本家の子孫の護衛隊の頭として仕えた場所も「シキ宮」だが、埼玉古墳群の場所から考えて、大和ではなく埼玉の志木市なのではないかと小林惠子氏は述べている。
北九州や大和のみならず、岡山や丹波にも古代の王朝があったのなら、関東に何もなかったはずはないと私はつねづね思っていた。埼玉古墳群は関東王朝の、まさに動かぬ証拠である。
磯城に由来する「敷島」という言葉は「大和の国」の枕詞にもなっている。
現在も奈良県桜井市にある磯城という地名を、大彦命がそのまま関東に持ち込んで斯鬼(シキ)宮としたのが志木市の名の由来になったのかもしれない。

まもなく北九州に劉氏系勢力が上陸し、丹波や吉備を征圧するが、大彦命が大和から遠く離れた関東に本拠地を置いたのは正解だったと言える。
しかし金錯銘鉄剣は、5世紀後半ワカタケル(雄略)が斯鬼宮に侵入し、大彦命の子孫を降伏させ、ヲワケの臣も雄略に臣従することになったことを伝えている。
本稿ではまだ先の話になるが、雄略は斯鬼宮に侵入する前に大和の開化も滅ぼし、欠史八代王朝を終わらせた人物だったのである。

 
■大麻比古神社の謎

渟名城入姫命が祀ることができなかった倭大国魂神は、『書紀』にはオオモノヌシとは別神として書かれている。
徳島県美馬市に、その名も倭大国魂神社がある。
私は7歳〜20歳の期間は徳島県民だった。倭大国魂神社には行ったことないが、ほぼ毎年、阿波一宮の大麻比古(おおあさひこ)神社に初詣に行っていた。祭神は大麻比古大神という聞いたこともない神様である。その父の天日鷲命という神様が阿波忌部氏の祖であるらしい。
大彦命は阿波出身で、綏靖に仕え、のちに慕容氏に降り、自身の出身地の倭大国魂神を大和に持ち込もうとしたというストーリーはどうだろうか。大麻比古神社は、のちに倭王となった大彦命を祀る「大彦神社」だったのでは?
写真は2007年に帰省したとき撮影した大麻比古神社。地元では「おおあさはん」という。


徳島の大麻比古神社は大彦命を祀る神社か!?