新聖武

新聖武

 光明立后

 729年8月 天平と改元され、ほどなく光明子が立后した。
 (天平年間とはすなわち、高斉徳の新聖武天皇の時代だったのである。)
 大宝令に、妃は品位を持つ内親王に限るとあるから、不比等が単なる臣下だったとすれば、その娘が皇后になることなどありえない。
 やはり不比等は天武の子、文武の弟であり、世が世なら即位もありえた人物なのだ。
 舎人親王による光明子の立后は、彼女が「天武の孫」であることによる特例だったと思う。

 光明皇后は、一族滅亡後の長屋親王邸に施薬院を設置した。
 上宮法王を祖とする天智系の長屋親王、しかも妹のひとりが嫁していた長屋親王に対する、光明皇后の贖罪の念がしのばれる。

 橘諸兄

 光明皇后とともに新聖武を支えた人物が橘諸兄である。
 諸兄が新聖武から橘姓を与えられたのは736年。
 それまでは葛城王といい、栗隈王〜三野(美努)王〜葛城王と三代続く天武系の忠臣である。
 母は犬養宿禰東人の娘、三千代
 三千代は三野王と別れた後に不比等と再婚、光明子(安宿媛)と多比能を生む。
 この多比能が葛城王に嫁いでいるので、葛城王は光明子の異父兄にあたると同時に、義理の弟でもあるという、非常に近い関係にあった。

 橘諸兄 父:三野王   父の父:栗隈王
     母:三千代   母の父:犬養宿禰東人

 光明子 父:藤原不比等 父の父:天武
     母:三千代   母の父:犬養宿禰東人

 710年の朝賀のとき、葛城王、大伴旅人、小野馬養らが隼人・蝦夷を率いて参列し、それまで無位だった葛城王が一挙に従五位下に任じられている。
 葛城王は文武が没したとされる707年頃から、高句麗莫離支・高文簡に変身した文武と共に唐国側の渤海と戦い、功績があったと想像される。
 高文簡が唐に降伏するまで行動を共にしていたと見え、『続日本紀』には712〜717の5年間姿を見せていない。
 聖武が即位した724年には従四位上に叙位されたが、天智系の長屋親王政権では疎外されていたようで、この時期に渤海に渡り、高文簡の息子・高斉徳の来日工作をしていたのだろう。
 727年 高斉徳ら渤海使者が出羽国に到着したとき、葛城王は彼らを出迎え、共に陸奥国に入ったようだ。
 当時、多賀城にあった大野東人は、長屋親王の命により彼らの入京を阻止する構えだったので、陸奥国司はどちらに従うべきか悩み、渤海使者にあやふやな態度をとらざるをえなかった。
 葛城王はこれに腹を立てたが、気の利いた采女が次のような歌を詠み、彼女が味方であるとわかって機嫌がなおったという。

  安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに(『万葉集』)

 この歌に「安積山」がある。
 聖武の子とされる安積親王は、728年、陸奥国滞在中の高斉徳と県犬養広刀自の間に生まれたのではないか。
 広刀自は葛城王の母方の一族の娘だから、葛城王が高斉徳に差し出したと考えられるのだ。

 登州の役

 『新羅本紀』の731年、日本国の兵船300艘が新羅の東辺を襲い、王は出兵を命じて大いに破ったという。
 『三国史記』は日本との戦いは讖緯的な暗示にとどめ、明記しないのが特徴なので、この場合に限って日本国と明記しているのは、高斉徳を日本国王として即位させた渤海の大武芸が、次は新羅を狙って、日本海側から派遣した軍勢だったと思われる。

 732年 新羅大使・金長孫ら40人が来日した。以来、大和朝廷は新羅に3年に1度の朝貢を義務付けたという。
 『新羅本紀』の、日本国の兵船300艘を「大いに破った」という記事は事実ではなかったようで、渤海の傀儡政府のようになっていた大和朝廷に対し、新羅が和平を申し入れたというのが真相だ。
 これを受けたのは新聖武ではなく、光明皇后や舎人親王らだったと思われる。
 藤原一族にとって渤海勢力が必要だったのは長屋親王を葬るまでであり、その目的を果たしたあとは、唐とも新羅とも協調体制をとりたかったはずだからだ。
 唐に対しては、朝廷は多治比真人広成を遣唐大使に、中臣朝臣名代(なだい)を副使に任命。
 翌733年 広成らは難波を出発した。

 一方、大武芸は登州を攻め、唐と対決した(登州の役 732年)。
 ところが大武芸が暗殺され、738年、唐は意のままに動く大欽茂の渤海王即位を承認した。
 後ろ盾を失った新聖武にとっては大打撃で、渤海はもはや日本にとっても脅威ではなくなった。

 玄昉と吉備真備

 唐の玄宗はかたくなに新聖武を日本国王として認めず、新聖武の側近である広成の入京を許さなかった。
 かわりに名代が長安に入京し、玄宗から勅書を受け取り、736年に帰国した。
 広成はひと足はやく735年に帰国したが、そのとき一緒に帰ってきたのが、717年に阿倍仲麻呂と共に入唐した留学僧の玄昉、留学生の吉備真備である。

 阿倍仲麻呂は唐で朝衡と名乗って玄宗に仕え、そのまま50年間も長安に滞在し、帰国することなく没した。
 日本でそれほど責任のある地位ではなかった仲麻呂は、日本の情勢をストレートに玄宗に知らせたようだ。
 玄宗も、新聖武は退位すべしという自らの意向を仲麻呂に伝え、それが玄昉や吉備真備にも伝わったと考えられる。
 彼らの帰国は大和朝廷に「唐ブーム」をもたらし、新聖武にとってはますます居心地が悪くなっていく。

 聖徳王の死

 文武王が日本に亡命したあとは、文武の息子たちが新羅王を歴任していた。
 神文王は文武の長男、孝昭王は二男だったと考えられるが、三男は無相という僧侶だったという。
 四男の聖徳王は日本で生まれ、新羅に送り込まれたようだ。
 聖徳王は最初は粟田真人らの入唐の便宜をはかるなどしていたが、文武=高文簡が没し、長屋親王が擁立した元正が即位すると、日本に対する態度を硬化させるようになった。
 やむなく長屋親王は、聖徳王の異母弟で、文武五男の聖武を即位させ、新羅と講和したのだった。
 しかし728年、文武六男・新聖武が大和朝廷を簒奪。
 736年に新羅大使に任命された阿倍朝臣継麻呂は、実は聖徳王を倒すために遠征したようで、その目的を遂行し、翌737年、孝成王が即位した(孝成王の正体については後述)。

【新羅王統譜】(654〜742)

武烈王

654〜661

 金春秋

文武王

661〜681

 文武天皇 → 高句麗莫離支・高文簡

神文王

681〜692

 文武長男

孝昭王

692〜702

 文武二男

聖徳王

702〜737

 文武四男

孝成王

737〜742

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 厩戸皇子のモデルは長屋親王である

 734年 天然痘の流行で新田部親王・舎人親王が没した。
 737年 天然痘が再び猛威を振るい、わずか4ヵ月の間に藤原不比等の4子が房前、麻呂、武智麻呂、宇合の順に相次いで没した。彼らは8年前に長屋親王一族を滅ぼしたのち、全員大和朝廷の議政官(ぎじょうかん)になっていた。 

 梅原猛氏の「聖徳太子怨霊説」への反論として、死者の怨霊が怖れられたという記録は平安時代以前には存在しないというものがあるが、まさか正史が「光明皇后はこれを長屋親王の先祖・上宮法王の祟りであると考えた」などと記録するはずがなかろう。事実だったらなおさらのことだ。
 長屋親王の邸宅の跡に施薬院を設けていた光明皇后が、もともと長屋親王一族に対して贖罪の念を抱いていたのは間違いない。

 私は、『書紀』の厩戸皇子に関する記述は光明皇后によって加筆されたものと見ている。
 聖徳太子のモデルである達頭が列島に上陸したのは601年だから、それ以前の厩戸皇子に関する記述は全てフィクションであり、父の父が欽明、母の父も欽明という厩戸皇子の出自には、父の父が天智、母の父も天智である長屋親王が投影されているとしか考えられないからだ。

 達頭(上宮法王)〜斉明〜天智〜高市〜長屋親王という系譜が、日本を統治すべき神の一族であることは、天武系がいちばんよく知っていた。だからこそ天智系の皇后との間に子孫をもうけるという形で天皇家としての体裁を保ってきたのである。
 しかし結果的に、斉明と天智は天武に殺され、高市は天武の子・文武を擁立する菟野や不比等のグループに殺され、そして長屋親王は文武の子・新聖武によって殺されている。
 藤原氏もまた、天武の子・不比等を初代とする天武の傍系であると私は考えているが、天然痘に対する医学的な知識も乏しかった当時、不比等の4子が全滅し、光明皇后ひとりを除いて一族がほぼ壊滅状態になってしまったのは、怨霊となった上宮法王による天武系一族への天罰だったとしか彼女(光明皇后)には考えられなかったはずだ。
 それゆえ、イエス・キリストの出生のエピソードを借用するなど、上宮法王を神格化する記事を書き、そこに長屋親王を投影して、神の一族を供養したのである。

 鈴鹿王

 不比等4子の没後に、長屋親王の弟・鈴鹿王が、舎人親王の没後空位だった知太政官事に就任。
 母が不比等の娘だったために死をまぬがれていた長屋親王の子・安宿王(あすかべ王)、黄文王(きぶみ王)らも揃って皇親として復活した。
 吉備真備と玄昉は唐の玄宗の意向通り、新聖武を退位させ、天智系の男王を望んでいたはずだ。
 鈴鹿王は、その最有力候補だったのではなかろうか。

 しかし、光明皇后が鈴鹿王を知太政官事としたのは、舎人親王がそうであったように、知太政官事というポジションには「皇親として政界のトップではあるけれども、即位はできない」という意味合いが暗黙の了解として存在したのであろう。
 上宮法王の祟りを怖れ、長屋親王系を皇親として復活させ、法隆寺にも多額の援助を惜しまなかった光明皇后は、薬師寺の国宝・吉祥天女像のモデルであったと言われるほど、仏教の隆盛に大きな役割を演じたことは事実である。東大寺の大仏も、彼女なしでは完成しなかった。
 しかし、彼女は単純に「罪滅ぼし」に努めていたのではなく、あくまでも藤原氏の復興を目指していたのだ。宗教人である前に、あくまでも政治家だったのである。
 天智系が復活すれば、自分は立場を失い、藤原氏が滅んでしまうという危機感が彼女にはあった。

 鈴鹿王の知太政官事就任と同時に、新聖武の忠臣・橘諸兄が大納言に就任し、翌738年1月には最高位の右大臣に昇進した。
 天智系復活の機運に対して危機感を覚えた新聖武が、バランスを保とうとしたのだろう。
 しかし諸兄は、兵力では大野東人に、財力では藤原氏に遠く及ばなかったというのが実情で、諸兄の独裁政権などというものは存在しなかったのである。

 阿倍内親王立太子

 鈴鹿王の即位を封じるべく彼を知太政官事にまつりあげた光明皇后は、前聖武との間に生まれた娘・阿倍内親王の立太子を主張した。
 女性の皇太子は前例がない。
 しかし阿倍の父・前聖武の母が藤原宮子というのは表向きの話で、本当は元明だから、阿倍も天智の血を引いているのである。
 また、元明という前例から、女帝ならば唐も黙認してくれるという期待感もあったろう。

 新聖武のひとり息子・安積親王だけは即位させまいとする吉備真備と玄昉も、とりあえず阿倍内親王の立太子に賛成したようだ。
 問題は、新聖武をいかにして説得するかであった。
 新聖武はたよりの宇合も没し、味方と言えるのは新羅の孝成王、そして国内では橘諸兄ぐらいのもので、とても光明皇后に逆らうだけの力はなかったと思われる。それでも、安積を差し置いて、前聖武の娘が皇太子になるという話は理不尽であり、新聖武にも意地というものがあるはずだ。

 玄昉は一計を案じ、737年12月、皇太夫人藤原宮子と会見した。
 前章で述べた通り、宮子は表向きだけの「聖武の母」である。
 玄昉は、聖武とすり替わった新聖武を正式に天皇として承認するパフォーマンスを宮子に演じさせたのではないか。
 新聖武もこれにしぶしぶ応じたと見え、引き換えに阿倍内親王の立太子を承諾したようだ。

 738年1月 橘諸兄が右大臣に就任したのと同じ日、阿倍内親王は皇太子に立てられた。
 しかし新聖武は、まだ安積親王の即位を完全にあきらめていたわけではなかった。

 藤原広嗣の乱

 738年12月、新聖武は、宇合の子・藤原広嗣を大宰小弐として九州に下向させた。
 広嗣は西海道節度使だった父が築いた地盤を引き継ぎ、九州のほぼ全域の兵権を掌握した。

 740年、広嗣が吉備真備と玄昉の排除を求めて上表した。
 朝廷はただちに大野東人を大将軍とする官軍17000人に広嗣討伐を命じた。
 続いて橘諸兄が隼人24人を派遣、さらに佐伯宿禰常人阿倍朝臣虫麻呂のグループが出発した。

 広嗣の軍勢が最初に対峙したのは、東人ではなく、(佐伯)常人の軍勢だった。
 広嗣は戦わずにその場を去った。
 その結果、広嗣側についていた九州勢から、勅使を名乗る常人および虫麻呂側に寝返る者が続出した。
 孤立した広嗣は、五島列島から新羅方面へ逃亡中、航行を妨げる荒海に大宰小弐のしるしとして天皇から預かった駅鈴を投じたが、その甲斐もなく、船は五島列島に押し流され、広嗣はあえなく捕獲され、東人の独断で数日のうちに殺されたという。

 以上が広嗣の乱の概要だが、吉備真備と玄昉を排除してトクをするのは新聖武にほかならない。
 広嗣の挙兵は、新聖武の密命によるものだったのだ。
 新聖武は、広嗣を東人の軍と戦わせてこれを倒し、日本の軍事力全てを掌握して、真備らを失脚させようとしたのである。

 ところが、広嗣が受けた密命はあくまでも「東人を倒すこと」だった。
 東人は広嗣の乱が新聖武の陰謀であることを見破り、自らは表に立たず、最初に常人の軍をぶつけたのではないか。
 本来は、天皇から預かった駅鈴を所持している広嗣こそが「勅使」であろう。
 しかし、広嗣が常人の軍と戦わずにその場を去ったことで、広嗣側についていた九州勢は、広嗣の方が「朝敵」だという印象を抱いてしまったのだ。完全に東人の作戦勝ちである。
 東人が、捕獲した広嗣を天皇の指示を待たずに殺しているのも、天皇(新聖武)こそが仕掛け人だったことを見抜いていたからであろう。

 広嗣の敗色が濃厚になると、新聖武は広嗣の死を待たず、鈴鹿王を平城京の留守役に任じ、伊勢国から名張へ向かった。
 このときから、新聖武の謎の放浪が始まる。

 新羅・孝成王の来日

 敗走する広嗣の目指す目的地が新羅だったと思われるのは、当時の新羅王が、新聖武が日本から送り込んだ孝成王だったからである。
 広嗣の乱には、孝成王の新羅軍も加勢する予定だったのではなかろうか。
 ところが、広嗣は誰とも戦わないうちに「朝敵」のレッテルを貼られ、朝廷軍に追い回されるという最悪の展開になってしまい、孝成王が介入するヒマもなかったのだろう。

 逆に、広嗣の乱の失敗は孝成王の新羅における立場も悪くしたようで、新羅でも内乱が起き、『新羅本紀』では、孝成王は742年に死んだとされている。
 しかし、文武王と同様、遺体を火葬し、東海に散骨したという伝承があることから、彼もまた日本に亡命(と言うよりも帰国)したと考えられる。

 『続日本紀』には、1月に大宰府を廃したとあるのに、2月に新羅使者金欽英ら187人が来朝したと「大宰府から」報告があったとある。
 大宰府を廃止した理由が全くわからないことから、新聖武は恭仁京がまだ完成していなかったので、「金欽英ら187人」のために、一時的に大宰府を提供したと考えられ、もちろんその中には孝成王も含まれていたのだろう。

 742年、広嗣のターゲットだった大野東人が没した。
 葬儀も満足に行われなかったところから見て、新聖武側にある孝成王グループが、いわば「第二次・広嗣の乱」を起こし、ようやく東人の暗殺に成功したのではないかと私は考える。

 盧舎那仏の造立

 新聖武が盧舎那仏の造立を発願したのは、広嗣の乱があった740年、難波宮に赴き、華厳宗の寺院・智識寺に行ったときのことである。
 華厳宗は、唐では女帝・則天によって支持されていた。華厳宗は人間の平等を説き、男尊女卑の概念がなかったからかもしれない。
 しかし、712年に即位した玄宗が密教を支持したことから、華厳宗は急速に忘れ去られていった。
 ところが新羅では、平等の観念とともに、国際性豊かな華厳宗が独自の発展をし、聖徳王もこれを深く信仰した。

 新聖武は広嗣の乱を前に、新羅の聖徳王を廃して立てた孝成王との共闘を誓い、新羅の国教とも言える華厳宗の寺院の建立を祈願したと思われる。

 743年、恭仁京遷都。
 平城京の器仗(きじょう。天皇位を表す印(天皇璽)、地方官に授ける駅鈴、高御座、大盾など天皇の位を象徴する品)も全て恭仁京に運ばれた。
 新聖武は、さらに紫香楽宮に行き、盧舎那仏を作るために寺地を開いた。
 744年の12月には、初めて盧舎那仏の体骨柱が建てられている。

 ところが、745年8月、盧舎那仏の造立はいきなり若草山西麓の金鐘寺に変更された。
 金鐘寺は、光明皇后が728年に殺された本来の聖武天皇の追悼寺として建立した寺院だった可能性があり、藤原氏は、この金鐘寺を頂点とする国分寺を整備しようとしていた。
 その本尊はシャカムニ仏と鎮護国家の四天王であり、そもそも華厳宗の盧舎那仏とは無関係だったはずである。
 この謎を解く鍵は、744年の安積親王の「謎の」突然死にある。

 安積親王の死

 742年 孝成王が日本に戻り、新羅には親唐・反日の景徳王が即位した。
 (孝成王のその後については後述。)
 翌743年4月 新羅使者が来日。
 朝廷は彼らの贈物に難癖をつけて上京を許さず、筑前から追放したという。
 ところが翌月、「新羅邑久浦(岡山県)に大魚が五十二隻漂着した」とある(『続日本紀』)。
 魚を「隻」と数えるのはおかしいから、これは筑前から追放された新羅使者、それも唐・玄宗の密命を帯びた、聖武天皇排除を目的とする軍団が朝廷に無断で瀬戸内海に侵入したものだろう。
 彼らが目指す先は、新聖武が遷都したばかりの恭仁京だった。
 
 新聖武は、12月に平城京の器仗を恭仁京に運ばせ、翌744年正月、百官を朝堂に集め、改めて「恭仁京・難波京のいずれを都にすべきか」と問うたという。
 小林惠子氏は、これを安積親王の即位式だったと結論している。
 「新羅使者」が攻め込んでくるという報を受けた新聖武は、皇太子だった阿倍内親王を差し置き、安積親王の即位を強行したのだ。
 そして、知太政官事の鈴鹿王と、参議の藤原仲麻呂を留守役として恭仁京に残し、自らは安積と共に、いざとなったら国外に逃亡できる難波京に避難することにしたのである。

 ところが、難波京への出発当日、桜井頓宮で安積が脚の病を訴え、恭仁京に引き返し、二日後に謎の死を遂げたという。
 留守役の仲麻呂が安積を暗殺したという説もあるが、以下の4つのポイントに注目していただきたい。

(1)桜井頓宮からならば、そのまま淀川を下って難波宮に行ったほうが早いのに、安積はわざわざ恭仁京に引き返している。
(2)恭仁京には、天皇の器仗が全て置きっぱなしだった。
   安積が没すると、ただちに難波宮に送ることが命じられた。
(3)事件後、仲麻呂は従四位上から正四位上と昇進している。
   一方、同じ留守役の鈴鹿王は従二位のままだった。
(4)事件の翌年、鈴鹿王が亡くなった。それ以後、知太政官事の職が廃止された。

 これらを総合すると、鈴鹿王、仲麻呂らは恭仁京に入京した新羅使者と会談し、その結果「新聖武が安積に譲位したのなら問題なし」と和議が成立したというウソが安積に伝えられ、これを真に受けて恭仁京にノコノコ帰ってきた安積を鈴鹿王が殺害したという可能性が浮かび上がる。
 唐が新聖武を日本国王として承認しないのは天武系だからであり、その息子もまた承認されるわけがない。安積は、即位したからこそ殺されたのではないか。
 この陰謀の首謀者は鈴鹿王で、五十二隻の大魚と形容された新羅使者の軍勢を恭仁京に手引きしたのも彼であろう。

 百済王女天

 744年2月 新聖武は詔して無位の百済王女天(にょてん)に従四位下を、その他3人の百済王にそれぞれ正五位下を授けた(『続日本紀』)。
 従四位下とは「天皇の孫」に授けられる最初の位階であるらしい。

 百済は80年以上も昔(663年)に滅び、その領土は新羅に併合されていたが、蘇我氏やそれに仕えた家臣、さらには天智の母国でもあり、彼らの子孫が暮らすとともに、日本で迫害された人たちの避難先にもなっていたようだ。

 元明が元正に譲位したとき(715年)、「反元正派の穂積、志貴らの皇子も、物部麻呂の兵力によって秘かに殺されたという説がある」と述べたが、このとき殺されたかもしれない志貴皇子の子・白壁王(当時6歳)はのちの光仁天皇であり、桓武天皇の父である。
 この大逆転劇はいかにして可能だったのか。
 白壁王は旧百済領に亡命して現地では女天と名乗り、唐が日本国王の即位の条件としている「天智系」をアピールして唐のウケをよくしていたというのが小林惠子氏の推理だ。

  百済王女天 = 白壁王

 今上天皇の「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」というご発言は有名だが、桓武は737年生まれで、生母の高野新笠は百済の武寧王を祖とする王族の末裔・和氏(やまとうじ)出身とされている。
 白壁王は百済王女天時代、武寧王の子孫である現地の女性との間に山部王(桓武)をもうけたのではないか。

 鈴鹿王が知太政官事に就任した737年、同時に白壁王に従四位下が授けられてる。
 当時は旧百済領にいたと思われる白壁王に従四位下を授けたのは、知太政官事になったばかりの鈴鹿王だったのかもしれない。
 あとで詳しく述べるが、白壁王は母も父方の祖母も百済系である。
 百済系コミュニティの中で祖国再興の夢を託されながら成長したとすれば、日本の鈴鹿王(長屋親王の子、天智系)とも連携していたとしても不思議ではない。
 その鈴鹿王が、安積を暗殺するときに「新羅使者」の軍勢を恭仁京に手引きしたわけだが、そこには即位したばかりの新羅・景徳王や、天武系の男王が続くのを阻止したい唐の玄宗の後押しもあったろう。
 その翌年に新聖武が叙位をした百済王たちこそ、女天(白壁王)をリーダーとする「新羅使者」の指導者たちだったのだ!(すでに百済は滅んでいるから「百済使者」ではありえず、景徳王が派遣を承認したから「新羅使者」なのである。)

 もっとも、ひとり息子を殺害したグループに新聖武が自ら叙位をしたとは思えないので、実際に対応したのは光明皇后だったろう。

 745年9月 鈴鹿王が亡くなった。死因はいっさい記録されておらず、新聖武による報復だったと考えられ、知太政官事の職も廃止された。
 仲麻呂は蚊帳の外だったと新聖武は判断したようだ。
 また、唐の威光を背にした白壁王たちにも手を出せなかった。

 安積を失った新聖武は、阿倍への譲位も秒読み段階で、もはや全てに意欲を失い、恭仁京も、盧舎那仏を造立中だった紫香楽京も放棄し、光明皇后とともに平城京に戻った。
 
 同年、光明皇后は玄昉を筑紫に左遷。玄昉は翌年没した。
 吉備真備も、750年、筑前守から肥前守に左遷され、大和朝廷から遠ざけられた。
 玄昉と吉備真備は、上辺では光明皇后に従い、阿倍の立太子のときにもこれに賛成していたが、内心は鈴鹿王を支持していたことは明白だった。その鈴鹿王が死んでしまっては、今後も光明皇后を支えていく意思は彼らにもなかっただろう。

 こうして、阿倍の即位を妨害するものを全て排除した光明皇后は、新聖武とも和解し、新聖武の目指した東大寺の構想を金鐘寺に採り入れ、東大寺として発展していったのである。
 新聖武にとっては、749年2月に行基が没したことが「とどめ」になったようで、同5月、行基ゆかりの薬師寺で出家したのも、新聖武自らの意志によるものだったと推測される。

 一方、正式に皇孫として日本に定着した白壁王は、前聖武の娘・井上内親王と結ばれ、761年に他戸(おさべ)親王が生まれる。
 井上内親王は「この人なら政争に巻き込まれずにすみそうだから」という理由で白壁王を選んだとする説があるが、前聖武の娘がそんな今どき流行のスローライフを夢見ていたなどとは想像しにくい。白壁王の実像は、唐や新羅にも顔が利く国際的な実力者で、藤原仲麻呂の独裁やそれに続く道鏡の全盛時代がなければ、もっとすんなり即位してもおかしくない人物だったのだ。

2011/12/19改訂