天 武

天 武

ねこ:
天武天皇、知れば知るほど底知れぬ魅力ある人物です。
天智天皇よりずっとわたしは、魅力を感じます。

としちん:
実質的な日本の建国者ですよね。
国家の独立なんて、旧体制を破壊するパワーを持ち、世界をも敵に回す独裁者がいなければできないことでしょう。もっと正当に評価されなければならない、日本史上の「巨人」だと思いますね。

 天武即位

 672年9月より飛鳥浄御原宮の建設が始まり、翌673年2月、壇場(たかみくら)を設けて天武天皇が即位した。
 現在の大嘗祭でも行われる壇場即位の儀式は、後漢の光武帝が新王朝の創設者として行なったのが最初と言われ、もちろん日本では天武が最初だろう。
 そこには天武朝が日本の新王朝であること、天武が前漢の高祖(劉邦)の血筋をアピールしていること、さらに唐への対抗意識など、さまざまな意味が読み取れる。
 また「天皇」の称号を正式に採用したのも天武だったとする説が有力である。

 大海人は、斉明や間人の即位に関わりながらも自ら表に立つことはなかった。唐が天智系以外の倭王就任を認めなかったからだ。
 ならば、壬申の乱で吉野軍が勝っても、大海人は天智の子である高市を即位させる以外にないと当時は誰もが考えていたはずである。もちろん高市自身も。なにしろ世間はこの戦いを、大友に対する高市のクーデターであったと考えていたに違いないのだから。大海人の即位を予測できたのは、せいぜい新羅の文武王ぐらいではなかったか。
 天武がついに自ら即位し、真っ向から唐に敵対する王朝を打ち立てたのは、その文武王の新羅が公然と唐に反旗を翻し、唐の倭国への侵攻を食い止める防波堤の役目を果たしていたからだ。
 天武の即位式も天武を後援する唐人や新羅軍が見守る中で行なわれ、高市はこれを指をくわえて見ているよりほかなかったのである。

これより先、尾張国司・少子部連鉏鉤は、山に隠れて自殺した。
天皇は「鉏鉤は功のある者であったが、罪なくして死ぬこともないので、何か隠した謀があったのだろうか」といわれた。(『書紀』)

 鉏鉤もまた高市を倭王にするために戦ってきたのに、戦争が終わってみると即位したのは天武だったので、亡き天智を裏切る結果になって自殺したのであろう。

 『日本書紀』

 天武は『日本書紀』の編纂を命じた天皇として知られている。
 「上宮法王」の章で私は、『古事記』は旧約聖書、『書紀』は新約聖書に対応させたものであり、『書紀』の原点は秦河勝の『国記』であると述べた。
 上宮法王の生まれ変わりを自認していたと思われる天武は、自分こそその偉業を引き継ぐべき立場であると考えたのかもしれない。もちろんそれは天武が自らの出自を正当化するためでもあった。

 『書紀』では神武が初代天皇とされている。
 神武が実在の人物だったという伝承があったとすれば、すでに秦河勝の『国記』にも登場していたのかもしれない。
 しかし、その東征物語には、応神天皇の事跡や、北九州から吉野へ攻め上った天武自身の壬申の乱も投影されていると思う。
 天武が神武に自らを投影しているからこそ、初代天皇とされているのではないか。

 高向玄理や天武の先祖は、漢の高祖の血を引き、高句麗に渡った中国人の一族であると推理した。
 天武自身は倭国生まれだったかもしれないが、先祖の故郷・高句麗の地でもっとも多感な時期を過ごし、軍将・蓋蘇文として成長したのだった。

 おそらく神武には、高句麗から来た英雄という伝承があったのだと思う。
 その事実は、天皇家がアマテラスを始祖とする万世一系であるというタテマエを貫くため、「高句麗」を「高天原」として描く神話の中に封印されているのである。
 歴史学がやけに神武を「架空の人物」にしたがるのも、「高天原=高句麗」の秘密を暴れたくないからではないかと邪推したくなる。

 草壁立太子

 天武には、天智の娘・大田皇女との間に大津皇子、大田の妹とされる鸕野(うの)皇女との間に草壁皇子があった。
 天武は、権力を自らに集中させるための詔を次々と発した。

 675年:
 

「天智3年(664年)に諸氏に賜わった民部・家部は以後中止する。また親王・諸王および諸臣、並びに諸寺に賜わった山沢・島浦・林野・池は大化以前と以後を問わず皆国に返させる」

679年:
 

「諸王は母であっても王の姓の者でなければ、拝礼してはならぬ。諸臣もまた自分より出自の低い母を拝礼してはならぬ」

682年:

「親王以下諸臣に至るまで、賜わっていた食封は、みな取りやめて公に返すこととせよ」

 「出自の低い母」などという部分はあまりにも露骨だが、高市の出自そのものは『書紀』の創作だから、この詔の内容もこの通りだったかどうかは疑わしい。
 しかし「親王」すなわち高市から権力や経済力を奪う狙いがあったことには違いないだろう。

 逆風の高市に追い打ちをかけるように、678年、最愛の女性・十市皇女が亡くなる。
 小林惠子著『本当は怖ろしい万葉集』によると、万葉集の高市の歌の「裏読み」から、十市は天武によって毒殺されたことがわかるという。
 十市は天武の娘で、スパイとして暗躍していたが、天武の即位後、恋仲になってしまった高市と共に反・天武の感情をつのらせていたことが父の怒りを買ったのではないか。
 もちろん、十市を殺されたことで、天武に対する高市の怨みも頂点に達したことは想像に難くない。

 『書紀』には、679年5月、天武が吉野の地で草壁・大津・高市の順で忠誠を誓わせ、681年2月、草壁を皇太子としたとある。皇子たちの本当の年齢がこの逆の順であることは前章でお話しした通りだが、天智の子の高市はともかく、大津をさしおいて草壁を皇太子にしたのは、草壁の母の鸕野が天武の皇后になっていたからであると解釈されている。
 大津の方が年長で、まして文武両道に優れていた一方、草壁は病弱で凡庸だったと伝えられているから、大津はさぞ草壁の立太子を苦々しく感じていたことであろう。

 また、当時、高市には物部麻呂、大津には大伴安麻呂の軍勢がそれぞれ味方に付いていたが、彼らの間でも天武のワンマン政治に対する不満が渦巻いていた