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元明・元正

 元明即位

 698年、外征を好まなかった唐の則天は、突厥の黙啜や、震国(渤海)の大祚栄をそれぞれの国王として承認した。
 日本の文武朝も、聖徳王のときにようやく新羅ルートが確保でき、702年に粟田真人が入唐。
 真人は倭国から日本という国名にかえたことを唐に報告した。
 しかし、則天は文武天皇を冊封したわけではなく、真人の人柄が好ましかったので、とりあえず黙認するという形だったようだ。
 同じ702年、鸕野皇太后が没した。
 これ以後、文武朝を政策で支えたのは文武の弟・藤原不比等であった。

 しかし705年、則天が退位に追い込まれ、高宗の息子・中宗が復帰した。
 中宗は、大祚栄の震国は承認したが、父・高宗の生涯にわたっての仇敵である蓋蘇文の子・文武を許すことはできなかった。
 一方、文武と非常に強く結び付いていたとおぼしき突厥の黙啜は、文武を日本国王として認めない中宗に強く反発し、再び唐に反抗し始めた。

 『続日本紀』第三巻は文武の崩御について、「(707年)六月十五日、天皇が崩御された。遺詔されて「挙哀は三日間、喪服をつけるのは一ヵ月だけとせよ」といわれた」とだけ記し、死因については一言も触れず、その前に病気だったというような記事も全くない。ようやく第四巻になって、707年に即位した元明の詔の中で、文武は前の年の11月に病に倒れ、そのときから母に譲位したいと訴えていたと記されている。

 大和朝廷は唐の目をあざむくために文武の死を公表し、もと草壁妃の阿閉皇女を即位させたのである。
 文武排除に重点を置いていた中宗は、天智系で、女帝でもある元明即位には表立って反対はしなかったようだ。
 死んだことにして天皇の座を退いた文武は、日本海側の隼人や蝦夷を率い、突厥と共闘して、当時唐側にあった渤海勢との戦いに向かったのだった。

 女の戦い

 阿閉は高市(持統)の異母妹にあたり、阿閉の姉・御名部は、その高市との間に長屋親王を産む。
 したがって元明は長屋親王の叔母にあたる。
 一方、持統朝では皇太子だったであろう長屋親王は、父の父が天智、母の父も天智という近親婚によって生まれたことになる。あとで詳しく述べるが、厩戸皇子の「父の父は欽明、母の父も欽明」「皇太子のまま天皇になれなかった」という設定は、長屋親王をモデルにしていると私は思う。

 元明即位のとき、文武の子・聖武はまだ7歳。
 長屋親王は25歳ぐらいで、血統的にも年齢的にもじゅうぶんに即位可能だったはずだ。
 しかし文武は、704年、できたばかりの大宝令に基づき、長屋親王をいきなり正四位上に叙位。そのかわり親王に下される一品〜四品の品階を与えず、その即位の望みを断っていた。だから長屋親王ではなく「長屋王」なのであり、「長屋親王」の名は本人の邸宅跡の木簡からしか出てこないのである。

 文武の留守を守り、また聖武即位までの中継ぎとして即位した元明は、父は天智、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めい)。
 彼女を草壁に娶せたのは、子孫にはあくまでも天智系の血を導入しようと考えていた天武であろう。
 鸕野は天智娘ではないため、草壁には天智の血が入っていないからだ。

 しかし、鸕野は「天智娘」にコンプレックスに近いものを抱いていたと思うので、阿閉に対して、究極の嫁イビリみたいなこともあったのではなかろうか。
 そして阿閉には、草壁との間には氷高皇女(のちの元正)と吉備内親王という女児しか生まれなかった。
 これで正史の記述通り、文武が鸕野の孫として生まれていたのならまだ鸕野にも救いがあっただろうが、文武は阿閉の息子どころか、逆に阿閉の父親ぐらいの年齢だった。

 この文武をめぐって、鸕野と阿閉の間に本格的な女の戦いが勃発したと私は想像する。
 なにしろ鸕野は、吉野に何十回も通って文武とデートを重ねていたわけで、草壁亡きあとの彼女にとって、文武は生き甲斐ともいうべき存在だったはずである。
 即位後の文武に皇后がいなかったのも、鸕野がその立場にあったからだろう。

 しかし、さすがの鸕野も阿閉の若さには勝てなかった。
 701年に生まれた文武の子・聖武は、その根拠は後述するが、宮子が産んだ子ではありえず、文武と阿閉の間に生まれた子である。
 そして、鸕野は翌702年に亡くなった。
 草壁の母としても、また文武の恋人としても、鸕野にとってはきわめて敗北的な死だったことになるのではないか。

 元明、元正に譲位

 710年、平城遷都。
 712年、唐で玄宗が即位。
 715年、突厥の黙啜の婿・高文簡が、一族を連れて唐に降伏。
 716年、黙啜は一族に殺され、突厥の反乱に終止符が打たれた。

 高文簡は、高句麗の莫離支(マリキ)という、蓋蘇文の直系のみに任じられる官名を有していたという。
 高姓は、高向玄理〜天武の姓と同じ。
 天武の本名は「淵蓋蘇文」だが、その別名を「高任武」ともいう。
 つまり、高文簡は文武にふさわしい姓名であり、日本を去った文武は、最後は高文簡として唐に降伏したのである。

  新羅文武王 = 文武天皇 = 高文簡

 同715年、元明から氷高皇女(元正)への譲位によって、文武朝は完全に終結した。

 氷高の即位を強く要望したのは長屋親王だった。
 長屋親王から見て、氷高は母の妹の子、すなわち従姉妹にあたる。
 また、氷高の妹の吉備内親王が長屋親王の妃だった。
 平城京の長屋親王の屋敷の規模からもうかがえるように、長屋親王は文武や不比等らによって即位の道こそ断たれていたが、文武が大和を去ったあと、その権力は増大の一途をたどっていた。
 長屋親王のバックには、持統朝以来の物部麻呂の軍事力があった。
 反元正派の穂積、志貴らの皇子も、麻呂の兵力によって秘かに殺されたという説がある。

 長屋親王は子孫に即位の望みをつなぐべく、不比等に、吉備内親王の子の男女を皇孫の列に入れることを承諾させた。
 一方、不比等は交換条件として、聖武を立太子させた。
 元明のあと、すでに15歳になっていた聖武が即位できなかったのは、元正即位を望んだ長屋親王の権力もさることながら、唐が天武直系の聖武の即位を認めないという大きな問題があった。

 720年、不比等死去。
 721年、元明死去。
 元明は、元正に譲位したあとも実権を握り、唐に対しても、天武の血を引く元正への譲位を伝えず、元明朝が続いていたかのようにふるまっていた可能性がある。
 その元明も没して、日本は国際的に孤立した。

 新羅の聖徳王は文武の子だから、異母弟にあたる聖武の即位を支持していた。
 長屋親王は、新羅との和平を重視し、自ら擁立した元正を吉野に追放した。
 かくして724年にようやく聖武が即位するが、初期の聖武朝の実態は、新羅をバックとした長屋親王の専制時代だったのである。

2009/2/5改訂