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天 智

ねこ:
やはりだいぶ前京都旅行で雨に降られホテル部屋にこもってテレビを見ていたら、浦島太郎の話をしていました。途中から見たのですが、百済の言葉で、カメは大臣を示すそうです。
ゲストと思われる女性の方が、乙姫さまのお衣装は朝鮮半島のものです、竜宮城も建物の形が朝鮮半島のものです、とおっしゃってました。
また桃太郎のどんぶらこっこ、どんぶらこっことは、流れる音の意味ではなく、百済の言葉で丸い国の子という意味があるそうです。どんぶりが丸いのはそういうことです、とおっしゃってました。
また桃太郎の衣装も朝鮮半島のもので、桃太郎は7世紀に実在した人物です、ともおっしゃってました。
たたし、名前はまだ公表できないともおっしゃってました。

としちん:
中大兄じゃないでしょうか。(←あっさり公表)
桃(モモ)は百(モモ)で百済を表わし、イヌ、サル、キジ(トリ)も全て西の方位を表わす干支。
中大兄(百済王子・翹岐)が母親や妹と共に耽羅(済州島)に流されていますが、たしかに丸い国ですね。
宝皇女の母は『書紀』では吉備姫王で「おばあさんのキビダンゴ」に通じ、鬼ケ島(日本列島)へ鬼(蘇我氏)を退治に。


イヌ・サル・キジ(トリ)は西の方位を表わす。
(櫛田神社の楼門の天井にある干支恵方盤)

 天智即位

 665年 ついに唐が中大兄を正式に倭王として承認した。
 高宗の狙いは、大海人(蓋蘇文)による倭国支配を阻止することにあったと思われる。

天智4年(665年)9月23日 唐から劉徳高ら254人が来日して表函(ふみひつ)をたてまつった。
朝廷は彼らを饗応し、みやげを持たせて帰らせた。(書紀の要約)

 751年に成立した「懐風藻」には、このとき劉徳高が中大兄の子・大友皇子の相を見て賞賛したとあり、劉徳高を饗応したのが大海人側でなかったことは確実である。また、このとき大友も皇太子とされたのだろう。

 劉徳高の来倭といっしょに、表向き「鎌足の長男」である定恵が帰国している。定恵は654年、大海人が斉明の即位の承認を求めて高向玄理を唐に派遣した際、メンバーに加わっていた学問僧である。
 長男が学問僧になるというのはあまり普通ではないが、定恵の本当の父親は義慈王(孝徳)で、母親の車持夫人は定恵を身ごもったまま鎌足の妻になった。つまり小足媛(有間皇子の母)と全く同じ立場にあった女性なのである。

 百済の滅亡後、鎌足は倭国に再来して大海人の側近になっていた。
 しかし大海人が擁立した間人が崩御し、唐が天智朝を正式に認めたことで、大海人派は苦境に立たされ、鎌足も孝徳の子の面倒を見るどころではなかったようだ。
 定恵は帰国した年の暮れに、謎の死を遂げている。

 667年 中大兄は近江大津宮に遷都し、翌668年に即位。古人大兄の娘・倭姫王を正妃とした。
 過去、近江に都を置いたのは天智だけで、その理由が謎とされているが、この場所はもともと大陸の東北部から日本海の北ルートで渡って来た騎馬遊牧民族にとって、若狭から琵琶湖の舟運を利用して大和へ入るときの中継点に位置していた。
 もし唐軍が高句麗を滅ぼし、そこに駐留するようになれば、西から大海人軍が攻めてきたとき、唐からの援軍を待つのにも好都合であり、また最悪の場合、自ら旧高句麗領へ逃げ込むこともできる。
 天智は大海人との最終決戦にそなえ、軍事的な理由で近江を選んだのである。
 668年、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城を築き、西国の防衛をさらに強化したのも、通説では、白村江の戦いに敗れ、唐軍が列島に侵攻してくるのを恐れたためとされているが、これを建設したのが中大兄側だったとすれば、大海人と、大海人に加勢する新羅軍に対する防備だったと考えられる。唐使人の来日から即位までにずいぶん時間がかかっているのも、こうした防衛のための準備を優先したからではないか。

 668年10月 天智の思惑通り、ついに唐軍は高句麗を滅ぼす。

 鎌足の死

 唐が高句麗を滅ぼした年、中臣鎌足は沙門法弁・秦筆を遣わし、新羅の軍将・金ユシン*に船1艘を与えた。鎌足は近江朝打倒に向けて、新羅との連携を強めていたのである。

 *

 翌669年、蘇我赤兄が筑紫宰(つくしのかみ)に任じられたとある。
 赤兄はかつて有間皇子を殺害しているように、天智の懐刀であり、このときも鎌足を倒す刺客として筑紫に派遣されたと考えられる。

この秋、鎌足の家に落雷があった。
10月10日、天皇が鎌足の病気を見舞った。
15日、天皇は大海人を鎌足の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授け、姓を賜わって藤原氏とした。
16日、鎌足は死んだ。

 『書紀』は、まさか「天智が赤兄を使って鎌足を暗殺した」とは書けないので、それを鎌足の家への落雷で暗示し、その後、鎌足は病死したと記しているのだ。
 したがって、鎌足が大織の冠と大臣の位、そして藤原の姓を授けられたのは死後の話であり、授けたのは天智ではなく大海人だったのである。

 天智の死

 鎌足が死んだ669年、天智は鬼室集斯(きしつしゅうし)ら700人余りを近江国蒲生郡(がもうのこおり)に移住させた。
 鬼室集斯は武王系で、百済滅亡後、日本に亡命し、近江京の防衛にあたったと思われる。
 ところがそのあと、唐が郭ムソウら二千余人を遣わしてきた。
 『扶桑略記』には、彼らは高句麗からの亡命者で、同じ蒲生郡に居住地を与えられたとある。
 高句麗からの亡命者ならば、当然大海人側である。
 書紀では、大海人は中大兄の皇太弟として近江京にいたことになっているが、実際は北九州の朝倉宮を本拠地とし、のちに吉野へと移動した。
 大海人が吉野宮に入るとき、蘇我赤兄、中臣金連らは「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言ったとある。吉野宮はもともと大海人が斉明朝のときに作らせたもので、『書紀』の編者は、大海人が朝倉宮から朝廷側の瀬戸内海の防衛網を突破し、吉野入りを許してしまった時点で、すでに天智の敗北が決まったと言いたかったのだろう。
 大海人は吉野で郭ムソウらの到着を待ち、蒲生郡は、天智と大海人の決戦の舞台と化したのである。

 『書紀』は671年に天智が近江宮で病死したと伝えているが、『扶桑略記』には全く別の話が載っている。

一説に言う「(天皇は)山科の郷に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中に深く入ってしまい、どこで死んだかわからない。仕方がないので、その沓(くつ)の落ちていたところを陵とした。その地は現在の山城国宇治郡山科郷北山である。」

 『扶桑略記』『水鏡』『帝王編年記』など、『書紀』以外の歴史書はほとんど天智の最後をこのように「行方不明」と記していて、天智を病死と記しているのは『書紀』だけである。
 遠乗りに出かけたということは行方不明になるまではピンピンしていたわけだから、天智は病死ではなく、670年、日本海へ逃げる間もなく、高句麗人に拉致され、そのまま帰ってこなかったのである。