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称 徳  / 光 仁  / 桓 武  / 平 城  / 嵯 峨  / 淳 和 古代史系譜

淳 和

 抹消された淳和朝

 823年4月 嵯峨、淳和に譲位。
 淳和の母は百川の娘・旅子。藤原緒嗣は百川の息子だから、淳和は緒嗣の甥にあたる。
 即位の年、新羅で内乱が勃発し、憲徳王が親交のある渤海に救援を求め、日本に寄港させて日本からの援軍もこれに合流させようとしたが、淳和はこれに応えることなく、いたずらに渤海勢の日本滞在を長引かせ、結局、憲徳王は暗殺されてしまった。
 唐の穆宗も824年に没し、新たに即位した長子の敬宗は翌年に暗殺されるなど、唐の政治的機能もマヒしていた。
 827年 文宗即位。
 830年頃から、不評の淳和に替わり、嵯峨上皇が実権を握るようになる。

 仁明即位

 833年 淳和、仁明に譲位。(仁明は嵯峨の子である。)
     空海は東寺を完成させ、この年から高野山に常住。
 834年 藤原葛野麻呂の子・常嗣が遣唐大使に、小野篁が副使に任命された。
 835年 空海没。
 838年 藤原常嗣を遣唐大使とする遣唐使船を派遣。結果的にはこれが最後の遣唐使となった。

 さいごに

 『日本書紀』『続日本紀』は現代語訳版を持っているので、私も桓武までは小林惠子説と原典を照合することができるが、平城以降は完全に小林説を信頼するほかはなく、またそれ以上の仮説を立てる余地もなさそうである。
 いずれにせよ、唐の国力が衰え、日本の天皇に対するお墨付きもその意味を失ない、遣唐使による国交も途絶えた頃から、ようやく独立国としての日本の歴史が始まったことは間違いない。

 正史は桓武を天智系とし、したがって現在の天皇家も天智の直系であると信じられている。
 そうでなければならない理由は、ササン朝ペルシアの王子・聖徳太子の血の継承者が天智(聖徳太子の孫)だからだ。そこではさしずめ聖徳太子は神、斉明天皇は聖母マリア、天智はイエスキリストに該当するのだろう。
 斉明がはさまっている時点で「父系でつながる」というタテマエは早々に崩壊しているので、高句麗ルーツの天武系によって皇位が簒奪されても、母系に天智の娘がいれば、唐の承認はともかく、皇室的には問題はなかった。
 しかし、光仁〜桓武〜平城には、実は天智系の血が全く入っていない。
 むしろ道鏡の方が、もし父親が弓削皇子ならば、その母は大江皇女(天智の娘)なので、光仁よりも由緒正しい血統だったことになる。

 小林惠子氏は古代史関連の執筆活動の最後に「天武は聖徳太子の最晩年の子だった」という新説を唱えた。小林氏にしてはそれほど強い根拠のある説ではないが、そう考えたくなる気持ちはわからなくもない(笑)。天武が聖徳太子の子なら立派に皇位継承者の資格があったことになり、タテマエではなく事実として「日本は神の国」であることができるからだ。
 しかし私は、天武を高向玄理の子とする小林氏の旧説の方が説得力があったと思う。
 ただ、皇室の起源がペルシアだろうと高句麗だろうと、私にとってはささいな問題だと思えるようになったのも、小林氏のスケールの大きな古代史観に学んだおかげだったこともまた事実である。

ー 完 ー