日本武尊(2)


■草薙剣ヒストリー

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)はスサノオによってヤマタノオロチの体内から取り出され、アマテラスに献上された。
アマテラスはこれをニニギノミコトに授け、神武に伝わった。
崇神のときに宮中から笠縫邑に鏡と共に移され、のちに伊勢神宮に移された。
伊勢神宮の倭媛命(ヤマトヒメノミコト)がこれをヤマトタケルに授けた(即位儀礼)。
ヤマトタケルを襲った賊が野に火を放ったとき、天叢雲剣で草をなぎ払って脱出に成功したことから草薙剣と呼ばれるようになった。また、その土地は焼津と呼ばれた。
ヤマトタケルは尾張氏の宮簀媛(みやすひめ)を娶り、草薙剣は宮簀媛の家に置かれたままとなる。尾張氏がこれを祀り続けたのが熱田神宮の起源であるという。
草薙剣は八咫鏡、八尺瓊勾玉と共に三種の神器のひとつとされている。

非常にベタな素人考えと思われるだろうが、私は草薙剣はオオクニヌシの剣だったと思う。
オオクニヌシのトーテムは蛇、レガリアは剣。真実というのは意外とシンプルなものだったりするではないか。
スサノオのヤマタノオロチ退治は、タケミカヅチのオオクニヌシ殺しがモチーフだったと思うのである。
ちなみにスサノオの子はイタケル、私見ではタケミカヅチ(元高句麗王・騶牟)の子・フルもイタケル。
息子同士が同一人物なら実父同士も同一人物である。

この考えになかなか確信を持てなかったのは、スサノオがオオクニヌシの先祖とされていることだ。スサノオ=タケミカヅチだと、彼は何代もあとの自分の子孫に国譲りを迫ったとか、これを斬ったというおかしな話になってしまう。
仮説を立てて矛盾が生じると、誰でもその仮説の方が間違っていると思う。しかしそこが『記紀』の狙いだったのではないかと思い始めている。なぜならこの矛盾は、ホアカリ(ニギハヤヒ)が弟(ニニギ)の何代もあとの子孫に帰順したという矛盾と同じではないか。
ニニギをホアカリの弟に組み込んだのはニニギをアマテラスの孫にするためだった。
また、天武を天智の弟に組み込んだのは天武をタリシヒコの孫にするためだった。
同様に、スサノオも強引にアマテラスの弟に組み込まれたと考えられるのだ。そこには、オオクニヌシをスサノオの子孫とすることによって、アマテラスと同じ、日本版アダムとイブであるイザナギ・イザナミの系譜に連なるという立派な動機が存在する。

オオクニヌシは滇から来た大月氏で、列島における婚姻関係によって脱解(大武神)やウマシマジらの祖先になっているが、オオクニヌシ自身の先祖というのは、大夏の休氏、扶餘、鮮卑など、どこともつながっていない。

下は私見によるウマシマジの血統表である。
父のイタケル(ニギハヤヒ)の母系が伊氏で、祖神のアマテラスとつながっている。

ウマシマジ 父:イタケル    父父:騶牟(タケミカヅチ)
                父母:伊氏(祖神:アマテラス)
      母:ミカシキヤヒメ 母父:ナガスネヒコ
                     (祖神:オオクニヌシ)

これが、天皇系譜では下のように修正されている。

ウマシマジ 父:ホアカリ 父父:アメノオシホミミ 父父母:アマテラス
      母:ミカシキヤヒメ 母父:ナガスネヒコ
                (祖神:オオクニヌシ・・・スサノオ

父のイタケルはアマテラスの孫・ホアカリとされた。
(ニニギはそのホアカリの弟に組み込まれることで、同じくアマテラスの孫とされたのだった。)
母方の祖先はオオクニヌシだが、天皇系譜はさらにその先祖をスサノオとしているのだ。

ここには時代による「倭王の条件」の変遷が見られると思う。
ウマシマジは父の母系が伊氏で、アマテラスの末裔としては文句ナシなのだが、葦原中国である大和の大王としては、大和の初代大王・オオクニヌシの血統こそが重要だった。それゆえ、オオクニヌシの剣にはすでに「神器」としての権威があった。
しかし『記紀』が成立した8世紀には、アマテラスを皇祖とする天皇系譜が確立する。
草薙剣が三種の神器から外れてしまえば問題なかったのかもしれないが、尾張氏が健在である限り、そうはならなかったのだろう。
古代のスーパースター・ヤマトタケルの手に渡って草薙剣の権威は不動のものとなり、その最初の持ち主だったオオクニヌシを、どこからわいたのかわからない「国つ神」のままにしておくわけにいかなくなったのだと思う。

天皇の存在理由を示すものが神道であり、神話である。
したがって、時代によって天皇の条件や定義が変われば神話も変わる。
記紀神話は、単なる古い神話や伝説のよせ集めではない。天武が天皇として国を治める正当性を証明するため、8世紀に再構築され、必要に応じて加筆された「創作神話」なのだ。
創作だから、書く人によってコンセプトが異なり、内容も多少異なる。
『書紀』と『古事記』ではどちらかと言えば『古事記』の方が教条的で、「神道のテキスト」色が強いと言えよう。
天皇の肯定が最終目的であって、そこに至るストーリーの多少の違いは本質的な問題ではない。
だから『書紀』と『古事記』の内容が異なり、どちらが史実なのか判断に苦しむことはたしかに少なくないが、どちらも史実ではないことも多いので(笑)、あまり気にしすぎない方がいいのかもしれない。

 
■フツノミタマ ヒストリー

タケミカヅチはオオクニヌシの前で海の上に逆さまに剣(フツノミタマ)を刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇し、国譲りを迫ったとされる。
オオクニヌシが出雲大社を建ててもらうことと引き換えに国を譲ったという話には、イタケルが脱解(教科書的には漢委奴国王)に伊都国を譲った史実が投影されていると見る。実際は、タケミカヅチはオオクニヌシを殺害し、オオクニヌシの天叢雲剣を奪ったのである。
そしてフツノミタマと天叢雲剣は、息子のフル(イタケル)に継承された。

のちに出雲は脱解によって解氏扶餘の支配から開放され、脱解はいったん高句麗王(大武神)となるが、光武帝に追われて再び列島に戻り、伊都国に上陸した。
イタケルは伊都国を脱解に譲り、東征の旅に出る。そして大和でナガスネヒコの妹婿・ニギハヤヒとなる。生まれた息子がウマシマジ(物部氏の祖)だ。
一方、伊都国に残って脱解に帰順した伊氏は、私が「九州の物部氏」と呼ぶ一族となり、イサセリヒコやイツツヒコを輩出する。

ニギハヤヒの死後、ウマシマジは義兄ナガスネヒコと王位を巡って争い、ウマシマジが勝利する。
その後、神武東征によって大和に神武系王朝が成立。それまで大王だったウマシマジ系は祭祀を司る一族として生き残るが、フツノミタマと天叢雲剣の所有権は神武系天皇家に移った。
大和の初代大王だったオオクニヌシはその最期の地だった出雲に、ナガスネヒコはオオモノヌシとして三輪山に祀られることになる。

やがて慕容氏がその勢力を列島に伸ばし、慕容廆に寝返った大彦命が綏靖を滅ぼした。
その結果、天叢雲剣が宮中から笠縫邑に移り、のちに伊勢神宮に移ったのは前述の通り。
一方のフツノミタマは、吉備に侵入した同じ慕容氏派の百済王子・温羅に届けられたと見る。
崇神」でも書いたが、『書紀』には「スサノオがヤマタノオロチを斬った韓鋤(からさび)の剣はいま吉備の神部のところにある」とある。吉備の神部とは岡山県の石上布都魂神社のことである。

列島に侵略した異民族は慕容氏だけではなかった。
慕容氏のライバル、劉氏の劉曜も伊都国に上陸。イタケルの子孫と思しきイサセリヒコを降伏させ、吉備に派遣して温羅を討たせた。これが吉備津彦(イサセリヒコ)による出雲振根(温羅)の討伐である。
『書紀』にある、崇神が振根に提出を求めた「出雲の神宝」とは、フツノミタマにほかならないだろう。
吉備津彦にとっては、劉氏が吉備を征服するためであると同時に、父祖伝来のお宝を奪回する戦いだったのだ。
ここで吉備津彦はスサノオ(タケミカヅチ)に、出雲振根はヤマタノオロチ(オオクニヌシ)に例えられたのだろう。
実際にオオクニヌシが斬られたのは出雲だったが、ヤマタノオロチ伝説が岡山に残っているのはそのためである。
吉備津彦は出雲振根からフツノミタマを奪回し、イタケルを祀る石上神宮に移した。
2本の剣の変遷をまとめるとこうなる。

【天叢雲剣(草薙剣)】
 オオクニヌシ → タケミカヅチ → イタケル → 神武系 → 笠縫邑 → 伊勢神宮

【フツノミタマ】
 タケミカヅチ → イタケル → 神武系 → 出雲振根 → 吉備津彦(石上布都魂神社)→ 石上神宮

さて、石上神宮にはもう1本「フツシミタマ」という剣が祀られている。
スサノオがヤマタノオロチを退治したときに使った剣で、韓鋤(からさび)の剣、天羽々斬剣(アメノハバキリ)とも言う。
スサノオ=タケミカヅチならばフツノミタマ=フツシミタマで、実体は1本しかないはずだが、現に2本あるということは、スサノオのもうひとりのモデルである吉備津彦が出雲振根を殺したときの剣ではなかろうか。
天叢雲剣やフツノミタマと比べると格下感が否めないが、ヤマタノオロチの尾を斬ったとき、中の天叢雲剣に当たって天羽々斬剣の方が刃こぼれがしたという記述も2本の格の違いを示している。

 【フツノミタマ】タケミカヅチ(騶牟)がオオクニヌシを斬った剣
 【天叢雲剣】  そのときオオクニヌシから奪った剣
 【フツシミタマ】吉備津彦が出雲振根を斬った剣

これが私が考える「神代3剣」の真相である。

スサノオとはタケミカヅチをモデルに作られたイメージであり、そこには吉備津彦も投影されていた。
スサノオの正体について、スサノオが祭神とされている神社でさらに検証してみよう。


■氷川神社


池袋の氷川神社

スサノオは北池袋で生まれた私にとっては産土神であり、私のお祭りデビューも氷川神社のお祭りだった。
スサノオを氷川様というのは、高天原を追放されたスサノオが降り立った出雲国の斐伊川(ひいかわ、島根県)にちなむと言われている。
しかし氷川神社の本社はなぜかさいたま市の大宮にある。大宮という地名そのものが「大いなる宮居」に由来する。


大宮の氷川神社

創建は5代孝昭天皇の時代とされている。事実なら孝昭は高句麗の美川王で、倭王として後趙に朝貢した330年頃であろう。
私は結婚後は埼玉に住んでいたので、正月の初詣と12月10日の「十日市」は我が家の年中行事だった。よくよく縁のある神様なのだなあと思ったが、ずっと関東で生まれ育った人にとっては珍しくもなんともないことに違いない。


氷川神社の十日市

十日市とは、関東圏の風習である、いわゆる酉(とり)の市である。
浅草の鷲(おおとり)神社の社伝によれば、天照大御神が天の岩戸にお隠れになり、天宇受売命が岩戸の前で舞い、天手力男命が天の岩戸をお開きになったとき、ある神様が持っていた弦(げん)という楽器の先に鷲(ワシ)が止まったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は天日鷲命(あめのひわしのかみ)と称される様になった。
のちにヤマトタケルが東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の熊手をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされた。その日が11月酉の日であったので鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭(酉の市)である。この故事により関東の鷲神社でヤマトタケルを祀るようになり、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰されたという。

酉の市はヤマトタケルが武士のみならず民衆の信仰を集めるのに一役買ったわけだが、熊手の原形が武具だったとは知らなかった。
「おおとり」は「大鳥」で、コウノトリや白鳥も含む言葉だったらしいので、社名も白鳥がシンボルであるヤマトタケルとあながち無関係ではなかったと言える。
氷川神社の十日市は、鷲神社の酉の市の人気にあやかり、12月10日に固定されたものであろう。
スサノオとヤマトタケルは、草薙剣と酉の市でつながっているのだ(笑)。

私が7歳にときに一家は徳島に引っ越した。これも今回初めて知ったが、鷲神社の祭神である天日鷲命は、阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波忌部氏の祖とされているらしい。例の大麻比古神社とも縁があるのだ。神様の世界は意外に狭い。

 
■八坂神社

現在住んでいる別府に、観光で訪ねる人はほとんどいない八坂神社がある(写真上)。
疫病封じのため717年に京都祇園社を乙原(おとばる)に祀ったことが始まりで、1192年に現在の場所(朝見)に鎮座したという。
正月の初詣で賑わうのは同じ山の麓にある朝見八幡神社の方だが、こちらは大友能直が豊前・豊後の守護となって豊後に入国したとき、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して1196年に創建されたと伝えられているので、現在地においても八坂神社の方が古い。

明治の神仏分離令で、全国の祇園社が「八坂神社」に改名した(させられた)。
祇園社は現在もインドにある仏教の聖地・祇園精舎を守護すると言われる牛頭(ごず)天王を祀る神社とされ、日本では牛頭天王とスサノオは同一神とされていた。
京都の繁華街として有名な祇園はかつての祇園社の境内だった。八坂神社の祭礼が有名な祇園祭である。

牛頭とは牛のように頭に2本の角が生えている状態である。
有名なのはまさに牛のように2本の角があるミケランジェロのモーセ像(彫刻)である。
しかしヘブライ語で「角がある」は「光り輝く」とも解釈可能であるらしく、リベーラという人の絵画では「光り輝く」説にのっとり、モーセの額から2本の光が発射されている姿が描かれている。
「角がある」なのか「光り輝く」なのかはともかく、「牛頭天王=モーセ」はありうるのではないか。
シルクロードを渡って東方を目指したユダヤ教徒が東アジア各地にその痕跡を残し、そのゴールが京都だった。祇園祭は古代イスラエルのシオン祭と、名前だけではなく開催時期や形式もそっくりであるという。

もうひとつ、「牛頭」はツヌガアラシトも連想させる。劉淵の伝説に頭に2本の角を持つ大魚が登場することから、額に角がある人という表現によって劉氏系であることを暗示しているのだった。
劉氏がユダヤ教の影響を受け、朝鮮半島に牛頭天王信仰を根付かせた可能性はある。というのも、のちにキリスト教を持ち込んだ秦氏も劉氏系と無縁ではないからだ。このことについては「応神」で詳しくお話しする予定である。

朝見八幡神社が宇佐神宮から来たのではないというのはちょっと意外だったが、もっと驚くことは、八坂神社と朝見八幡神社がある山、なんと吉備山という。
1192年以前から吉備山だったのかどうかはわからないが、ヤマタノオロチ伝説発祥の地と同じ名前なのは偶然とは思えない。


吉備山

別府の八坂神社のすぐ近くにある共同温泉は祇園温泉という。百円で誰でも入れる。


■スサノオ信仰とは

牛頭天王とスサノオが同一神とされたのは史料的には平安後期から鎌倉あたりではないかと考えられているらしいが、もし劉氏が絡み、なおかつユダヤ教的要素があったとすると、もはやスサノオとモーセのどっちが先だったのかというぐらい古い話になってくる。
スサノオの原形はタケミカヅチ、すなわち解氏扶餘の初代で、高句麗や百済の建国神とされる騶牟であろう。だから高句麗や百済からの渡来人たちにとっては問題なく信仰の対象になりえたのであり、氷川神社や八坂神社のそもそもの由来であると考える。
しかし、鹿島神宮はストレートにタケミカヅチを祀っているが、スサノオの場合、ユダヤ教や仏教と習合したり、あるいは渡来人が持ち込んだ別の神様だったり、かなり幅のある神様に変貌したと思われる。
明治時代、全国の祇園社が八坂神社となって祭神がスサノオに統一された折、渡来系のよくわからない神様を祀る神社もことごとくスサノオに変更されたと聞いたことがある。

氷川神社は関東に移住した出雲族によって創建されたという話もある。それならオオクニヌシの信者も含まれていただろうから、祭神をタケミカヅチのままではなく、オオクニヌシの先祖・スサノオとしたことによって抵抗なく受け容れられるようになったことも十分考えられる。

連載開始から3ヵ月、縄文時代からようやくヤマトタケルまでたどり着き、その間に思いがけない発見がいくつもあったが、ずっと謎だったのがスサノオである。草薙剣が出てきたのでどうしても向き合わざるをえなかったわけだが、執筆前よりは少しだけ前に進むことができたのではないかと思う。
次回は「仲哀」。神功皇后や武内ノ宿禰も登場し、古代史最大の難関である応神も近い。また頭が痛くなりそうだ。