神 功


■仲哀病死の真相

355
・前秦の苻健病没。子の苻生が即位。
・神の言葉を信じなかった仲哀が病死。(『書紀』)
・神功、新羅に出兵。(『書紀』)

2月に仲哀が病死したが、神功と大臣の武内宿禰は天皇の裳を隠し、天下に公表しなかった。
同年9月に神功が新羅に出兵する直前、臨月だったので石をとって腰にはさみ「事が終わって還る日にここで産まれてほしい」と祈った。
神功の軍が新羅に着くと、新羅王は戦わずして白旗を揚げて降伏した。
神功は12月に新羅から戻り、筑紫で応神を産んだ。
翌356年、仲哀の庶子である麛坂(かごさか)皇子と忍熊(おしくま)皇子が「きっと幼い王を立てるのだろう。自分たちは兄であるのにどうして弟に従うことができようか」と、神功と皇子(応神)を討とうとし、逆に武内宿禰らに殺された。(『書紀』)

以上が『書紀』のストーリーだが、仲哀は死んだのではなく、百済王でもある彼は単身で百済に拠点を移したというのが真相である。
その背景には、新羅出兵に関する神功や陳一族との意見の相違に加え、仲哀と神功が穴門宮にいる間、大和では陳一族が勝手に忍熊王を倭王に擁立していたという事実があった。

『書紀』では200年(修正前)に仲哀が病死し、そのあと神功皇后の摂政期が70年も続く。
リアルな歴史では、238年にヒミコが難升米を帯方郡に派遣したことなどがちょうどその期間に含まれ、『書紀』も本文中に『魏志倭人伝』の記事を引用するなど、あたかも「神功皇后=卑弥呼」のように書かれている。仲哀の前に架空の成務朝(60年)を置くなどして、意図的に時期を重ねているのである。しかし『書紀』の200年はまだ実際の西暦と155年のズレがあり、修正すると355年なのだ。
神功摂政期の長さも本当は35年間で、2倍に引き伸ばして35年分の尺を稼いでいる。
その結果『書紀』の応神即位は270年、修正すると390年。その時点で『書紀』とリアルな歴史のズレはちょうど干支2巡分(120年)になっていることを認識しておこう。もちろん本稿では全て修正済みの年号を用いている。

 
■忍熊王の正体

『書紀』では355年に応神が誕生したとある。神功が100歳まで生きたので、応神は71歳で即位し、110歳で崩御するというかなり無理な話になっている。
忍熊王らが神功と応神を討とうとして殺されたのは、実はまだ30年ほど先の話であり、そのときの応神は赤ん坊ではない。ちゃんと成人した応神が畿内を征服しに来たのだ。
忍熊王はそれまで生きていたのだが、『書紀』は356年に早々と殺してしまったので、それ以後名前が千熊長彦に変わっている。ちなみに千熊長彦は『古事記』には出てこない。

『書紀』に、仲哀は神功を皇后に立てる前に叔父の彦人大兄の娘・大中媛を妃とし、麛坂皇子・忍熊皇子を生み、また大酒主の娘・弟媛を娶って誉屋別(ほむやわけ)皇子を生んだとある。
しかし仲哀は慕容曄で、百済比流王の娘・神功に婿入りし、ほどなく夫婦で倭国にやって来たので、その前に倭国に庶子がいっぱいいたとは考え難い。

仲哀」より:
「304年、百済汾西王が死去。息子の契王は幼かったので、代わりに即位したのが比流王である。これがきっかけで陳安は外戚として百済の実権を握るようになる。344年10月に比流王が死去し、いったん契王が王位についたが、346年、慕容儁と恪によって滅ぼされた。陳安にとっては再びチャンス到来。儁の長男の曄に神功を与え、曄が近肖古王となり、神功はその王妃となったのだ。」

「弟媛を娶って誉屋別皇子を生んだ」もウソに違いないが、これはすごくひっかかる記述である。ウソの中にも何らかの真実が隠されているというのが『書紀』である。次回「応神」で解説したい。

忍熊王とは陳一族の人間で、私は神功の兄だと思う。すなわち比流王の王子である。しかし母系重視の古代においては、彼を百済王に立てるより、慕容儁の長男・曄を神功の婿に取る方がセオリー通りだったのだろう。
そして曄がさらに倭国に渡って仲哀となったのち、陳安は忍熊王を倭王に推戴して倭国を専断し、新羅征伐に消極的な仲哀を百済に帰してしまったということである。

 
■仲哀、奈勿尼師今と連合

355年の神功の新羅出兵(実際には2度目)で、『書紀』の本文では新羅王(訖解尼師今)は降伏したとあるが、古注には新羅王を殺したともある。
少し復習すると、新羅の訖解は昔氏王統の最後の王で、綏靖を塩奴にすると侮辱したため倭人に殺された于老の息子である。劉氏の漢の2代目劉聡が即位したのと同じ310年に即位。劉聡が関与したと考えられるので、当然訖解も劉氏派である。
318年に慕容翰・仁の攻撃を受け、320年、同じ劉氏派の高句麗・美川王と共に列島に亡命(ツヌガアラシトのモデル)。美川王は大和王朝に迎えられて孝昭となり、訖解は垂仁(慕容皝)に新羅への帰国を許される。
劉氏に比べ、慕容氏は治世者として意識が高く、他民族にも比較的寛容だったとは言えると思う。
しかし美川王も訖解も、共に終生反慕容氏の姿勢を改めることはなかった。ヤマトタケルもついに345年、新羅との国交を断絶したほどである。

356
・新羅、訖解尼師今死去。奈勿尼師今即位。(『新羅本紀』)

奈勿尼師今は味騶王以来2度目の金氏新羅王とされるが、金氏の婿養子だったようだ。
慕容氏派だから、その即位には仲哀が関与していたと考えられる。
仲哀にとっては新羅王が劉氏派から慕容氏派に代わればそれで一件落着なのだが、神功と陳一族はそうはいかない。あくまでも新羅を属国とし、鉱山資源などを独占することが目的だったからだ。

・神功、三度目の新羅出兵。

このとき仲哀が奈勿と同盟し、神功のそれ以上の侵攻を阻止したようだ。完全に神功と敵対する行動に出たのである。
この戦いで、陳一族は仲哀は死んだと公表した。
この報を真に受けた前燕の慕容儁は、よほど曄を愛していたと見え、鬱病になったという。
結果、曄に代わって同じ可足渾の子、弟の(い)が太子となる。

 
■応神の父親は武内宿禰だった?

前回、武内宿禰はヤマトタケルと八坂入媛の間に、また仲哀(慕容曄)はヤマトタケルと可足渾の間に、倭国でほぼ同時期に生まれたと推理した。ヤマトタケルが317年生まれだから、仮に16歳のときの子として、332年生まれである。

陳一族が仲哀は死んだと公表したのは、神功が武内宿禰と再婚したからであろう。武内宿禰は25歳ぐらいである。
騎馬民族系の社会では配偶者の兄弟と再婚することは普通だが、あくまでも配偶者の「死後」という条件が付く。
神功が新羅出兵のとき、石を腰に巻いて応神の出産を遅らせたという話も、応神の父親が仲哀では計算が合わなかったからではないかと想像させるに十分である。
成務のモデルは武内宿禰だが、60年もの治世があったのに皇后の名が書かれていない。武内宿禰の妻が仲哀の皇后・神功だったとは書けなかったからだろう。もっとも、成務朝は仲哀朝の前に置かれているから問題はないのだが。

武内宿禰と言えば、まるで父親のように赤ん坊の応神を抱いている絵画や彫刻が数多く残されている。
『書紀』は後世の人に「神功は武内宿禰と再婚し、応神の本当の父親は武内宿禰だった」と思わせることで、応神の母親が本当に神功だったかどうかをノーマークにさせていると私は思う。

『書紀』で、再婚であることが明記されているのが斉明である。舒明の皇后になる前に高向王と結婚し、漢皇子を産んでいたという。以前、私は次のように書いた。
「書紀が漢皇子=天武であると「読ませるように」書かれているならば、父親が高向王であることが天武の即位を妨げる要素であってはならず、クーデターが必要だった本当の理由は、天武の母が「斉明ではなかった」ことの方にあったと考えるべきである。そして、このことにより、当時は父親が必ずしも大王である必要はなく、即位の条件は「斉明の血筋」にあったことを書紀ははからずも暴露しているのである。」

今回もよく似ている。
『記紀』のタテマエは天皇家が万世一系であることだから、仲哀 → 神功 → 応神の流れをスムーズにするために、応神の父は仲哀、母は神功としなければならなかった。読者に「母親は神功だけど本当の父親は武内宿禰だったんだろうな」という誤解答で満足させ、それ以上の追求を阻んだのは、応神が慕容氏系に代わる新王朝であり、武内宿禰と神功はそれに協力させられたという事実を隠蔽するためだったのである。

神功と結婚した武内宿禰だが、仲哀のそれまでの座に彼がスライドしただけで、彼にとっても居心地が悪い場所であることに変わりはなかった。
結局、武内宿禰も仲哀がいる百済に身を寄せ、太子になった。のちの近仇首王である。

  近仇首王 = 武内宿禰

 
■慕容儁(ヤマトタケル)死す

357
・前秦の苻堅即位。

健の息子の生は残虐な性格だったので、石虎の将軍だった従兄弟の苻堅が殺し、自ら即位した。
苻堅(357即位〜385没)は健の弟・雄の子。母親が神と交わって生まれたといわれ、祖父の洪に龍愛されていた。
下は苻氏の系図。赤字は前秦王である。

  

359
・儁、太子の暐を恪に託して病没。

儁は曄が本当は生きていることを知らないまま死んだようだ。
東晋は儁が死んだと聞いて前燕を攻めようと計画したが、宰相の桓温が「恪が健在ならば(儁が生きているより)もっと悪い」と言ったので取りやめになったという。

360
・慕容暐、11歳で即位。

暐が前燕3代目皇帝に即位した。

 
■千熊長彦の盟約

364
・神功、4度目の新羅出兵。しかしこのときも仲哀に妨害されて失敗。

366
・近肖古王、新羅に使臣を遣わして修好。

百済の近肖古王が史料に登場するのは19年ぶりのことである。さすがにこのときまでには曄の生存は前燕にも伝わっていただろう。しかしすでに即位していた暐はその座を兄に返上するつもりはなく、前燕が宗主国であり、百済は冊封国であるという関係を堅持していた。

367
・慕容恪、病没。

前燕王・慕容暐のサポート役だった恪は、その役目を弟のに託して亡くなった。
儁も恪もいなくなり、前燕はもはや風前の灯の状態となった。
東晋の桓温が前燕を攻め、高句麗もそれに呼応して慕容氏派の百済に攻撃を開始した。

・百済の久氐(くてい)らが新羅の使いと一緒に倭国に朝貢。

このとき百済の貢物が新羅によってみすぼらしいものとすり替えられていたので、神功は千熊長彦を新羅に派遣し、責めたという。私見ではこの千熊長彦こそ忍熊王であり、神功の兄である。

369
・千熊長彦が百済に出かけ、近肖古王・太子近仇首と盟約を交わした。

盟約は、万年に至るまで百済は春秋、倭国に朝貢するという、一方的に倭国に有利で、百済にとっては屈辱的な内容だった。
その理由は、出向いてきたのは千熊長彦(忍熊王)の方だが、内容的には対高句麗戦に向けて、百済から倭国への救援の依頼だったからである。
近肖古王と近仇首はどちらも神功の婿だから、奥さんの実家にお金を貸してくださいと頼むようなもので、百済の立場は弱くて当然だろう。まして出向いてきたのは神功の兄だから、交渉は陳一族に優位にならざるをえない。

・高句麗の故国原王、2万の軍隊を率いて百済を攻めたが敗退。

陳一族は態度ばかり大きかったわけではなく、軍事力も捨てたものではなかった。故国原王が率いる高句麗の2万の軍勢を迎撃し、敗走させたのである。

 
■七支刀の意味

当時の倭国と百済の関係を証言するものが、天理市の石上神宮にある国宝の七支刀(写真)である。
「百人の兵を撃退する」とされる七支刀だが、その形状からはとても実用性があるとは思えない。
この刀に宿るのは「霊力」であり、その原型はイスラエルの大統領旗(写真下)にも描かれているメノラー(燭台)である。ユダヤ教の象徴的存在で、中央の幹から枝が6本。これを刀にデザインしたものが七支刀であろう。
以前、牛頭天皇=モーセ、祇園祭=シオン祭といった話をしたが(「日本武尊2」)、ユダヤ教は古代の東アジアにも影響を及ぼし、遊牧民族はそれを広範囲に伝導する役割さえ果たしていた。

372
・久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。(『書紀』)

この「七枝刀」こそ石上神宮の七支刀だろうということで、百済から倭国に贈られたものだと信じられている。
七支刀には錆による腐食がひどく読み取れない文字もあるので、そこにどんな文字を入れるかによって解釈も異なる。小林惠子氏の解釈は以下の通り。

 表:奉和四(369)年五月一六日丙午の日に百錬した鋼で七支刀を造った。これにて百人の兵を撃退するだろう。
 裏:先の世以来、このような刀はなかった。百済王の世子は奇しくも聖徳を持って生まれた。故に倭王と為すためにこの刀を造った(故為倭王旨造)。後世に伝えよ。

ほとんどの研究者は「倭王の為に」としているが、それは七支刀が百済から倭国に贈られたと読める『書紀』の記述を大前提にしているからだろう。
しかし「百済王の世子」という言葉がある。世子は宗主国から見た冊封国の太子のことを言う。
当時の百済の宗主国といえば前燕である。百済王は近肖古王、その世子とは近仇首のこと。
小林氏は「百済の世子が倭王のために造った」のではなく「百済の世子を倭王となすために造った」と解釈し、前燕王の暐(い)が兄の近肖古王に贈ったものだったとしている。実際、まだその時点では倭国にもたらされておらず、倭国に届いたのは372年である。
前燕も厳しい状態にあったことはすでに述べた通りで、慕容氏の結束の印として近肖古王に七支刀を贈り、近仇首を倭王に任じたのだ。前燕、百済、倭国の3国を、慕容儁の子である暐、近肖古(曄)、近仇首(武内宿禰)の3兄弟で固めようとしたのである。
『記紀』が成務なる架空の天皇を創出したのは、このように近仇首(武内宿禰)が倭王に任命された事実を無視できなかったからかもしれない。
しかし現実には、倭国は神功や千熊長彦(忍熊王)ら陳一族に専断され、百済も軍事的には彼らに依存せざるをえないありさまで、とても武内宿禰が倭王に君臨できるような状態ではなかったのである。

 
■前燕の滅亡

近肖古王が高句麗対策で陳一族に援軍を求めたように、東晋の標的にされている前燕の暐も背に腹は代えられず、苻堅に援軍を求めた。もともと敵対関係にあるが、お互いに東晋と対立しているという点では敵の敵=味方になりうる。
実際、苻堅はこれを引き受け、前燕は苻堅の援軍によって東晋の侵攻を食い止めた。
しかしそこまではよかったが、暐にとって想定外のことが起こった。
苻堅の援軍と共に戦った慕容垂のグループが、苻堅の前秦に亡命したのである。
苻堅は大喜びで垂を迎え、厚遇したという。
当時の前燕は、慕容皝の弟・慕容評と、暐の母親である可足渾が実権を握っていた。
垂の人物については、皝がもともと儁ではなく弟の垂を後継者として考えていたことや、恪が暐のサポート役を垂に託して亡くなったことなどから想像がつく。しかし慕容評や可足渾にとっては暐の地位を危うくする危険人物でしかなかった。垂はいくら軍功を上げても正当に評価されず、逆にいつ暗殺されるかわからない状態だったのである。

370
・前秦の苻堅、慕容暐を捕らえて前燕を滅ぼし、華北を制覇。

苻堅は亡命してきた慕容垂の道案内でたちまち暐を攻め、前燕(廆〜皝〜儁〜暐の4代)を滅ぼした。
これで中華統一を目指す苻堅のめぼしい敵は東晋だけとなった。
しかし慕容氏が完全に滅びたわけではない。
前秦に亡命した垂がのちに独立し、後燕を建国することになる。

371
・近肖古王と近仇首、列島勢力と連合して高句麗を攻め、故国原王戦死。

前燕が滅び、孤立無援となった百済だが、列島勢力すなわち陳一族の軍事力はまだ健在だった。

375
・近肖古王死去。近仇首王即位。

このあといよいよ応神が登場。東アジア情勢は想定外の方向へ突き進んでいく。