応 神(2)

 
■談徳(広開土王)、高句麗で立太子

386
道武帝(代の昭成帝の孫)が盛楽で即位。代を復活させ、国号を魏に変更(北魏)。
・高句麗の故国壤王、談徳を太子に立てる。

談徳はのちの広開土王。故国壤王の息子とされているが、『高句麗本紀』にはこの年「牛が馬を産んだ」とある。讖緯説では異種の動物が生まれるのは易姓革命を意味し、談徳が故国壤王の血縁ではないことを暗示している。

北魏の道武帝は建国する前に一族の内紛に巻き込まれ、遼東の将軍・安同を使者に立てて後燕の慕容垂に救援を求めたことがある。垂は安同に案内させて息子のひとりを救援に赴かせ、道武は事無きをえたという。
垂はのちに安同をヘッドハンティングし、385年に慕容佐の名で帯方王に任じ、翌386年に佐を談徳という名で高句麗に太子として送り込んだのである(小林惠子)。

『資治通鑑』によると、安息王の子が中国に入って漢人となり「譜」姓を名乗った。安同はその子孫らしい。
「譜」と談徳の「談」、そして倭の五王のひとり「讃」(仁徳)はいずれもよく似ている。談徳と仁徳は「徳」まで共通している。倭王「談」としてしまうと、完全に広開土王(談徳)と仁徳が同一人物だと宣伝しているようなものだから、少し変えて「讃」にしたと考えられる。

  安同 = 慕容佐 = 談徳(広開土王) = 仁徳

高句麗の故国壤王は美川王の孫で劉氏派だが、強国である後燕の内政干渉に屈したのである。

慕容永西燕の沖ら5人を殺して燕王を自称。
・後燕の慕容垂、中山で燕国皇帝を自称。
・苻堅を殺した姚萇も長安で皇帝を自称(大秦)。

慕容永は慕容運(廆の弟)の孫とされるが父親は不明である。
この時代、慕容氏系以外で生き残ったのは北魏と姚萇だが、北魏はまだ弱小で、道武帝と慕容垂の仲も緊密だった。
姚萇も、慕容沖とは戦ったが垂との軋轢はなかった。そして393年に病没する。
東晋は南の建康にあって細々と余命をつないでいた。
386年以降、少なくとも遼東から半島にかけては(倭王・応神になった苻洛を除き)ほぼ後燕の慕容垂の支配下にあったのである。

388
・神功死去。

390
・応神即位。(『書紀』)

『播磨国風土記』は応神の太子の菟道稚郎子を「宇治天皇」と記している。応神は居城を宇治(京都府宇治市)に置いたようだ。秦氏の本拠地・太秦(うずまさ)も京都にある。
しかし応神自身は倭王で納まるつもりはなく、華北を後燕から奪い返すことしか考えていなかった。
 

■広開土王碑

中国吉林省の北朝鮮との国境に近い集安にある広開土王碑に、広開土王のフルネームは「国岡上広開土境平安好太王」とあり、高句麗の「高」はなく「安」がある。碑文は次のように解読されている。

「百済・新羅はもとから高句麗の属民だったので例年、朝貢に来ていた。しかるに倭が辛卯(391)年以来、海を渡って百済を破り、新羅を征伐し、臣民とした」

土王は高句麗の始祖・朱蒙(騶牟)の末裔として位置付けられ、高句麗が後燕の間接的支配下にあったことや、列島と百済を支配していた苻氏に関する情報は伏せられている。
倭が高句麗の臣民だった百済と新羅を征伐し高句麗から奪ったとあるが、この場合の倭は応神が率いる倭兵で、蝦夷が主体だったと思われる。

392
・広開土王即位。
・土王、百済を攻め、漢水(漢江)以北の諸部落がほとんど落城した。
・紀角宿禰(きのつのすくね)らを百済に遣わし、天皇(応神)に対して礼を失していると責め、百済側は辰斯王を殺して謝った。(『書紀』)
・百済の辰斯王、狗原の行宮で死去。阿華王即位。(『百済本紀』)

高句麗は慕容氏派の広開土王が即位し、約100年に及ぶ劉氏の支配から脱却した。
土王は応神サイドになった百済を攻撃したが、辰斯王は近仇首(武内宿禰)の子だから慕容氏系で、土王と真剣に戦う意志はなく、されるがままのようだった。
『百済本紀』には辰斯王は狗原の行宮で死んだとあるが、狗は犬のことだから犬戎の国である倭国を意味する。百済の敗戦に激怒した応神は辰斯王を列島に連れ戻して殺し、自分の息子の阿華王(『書紀』では「阿花王」)を立て、再び百済を支配下に置いた。

・新羅の奈勿尼師今実聖を高句麗に人質として送る。

奈勿はかつて仲哀と同盟して神功の新羅征伐を阻止した王だが、土王に実聖を人質として送り、慕容氏側であることを表明した。ちなみに実聖は奈勿の王妃の縁者だったようで、奈勿の実子ではない。

393
・応神、半島に遠征軍を派遣。

阿華王は応神が派遣した遠征軍を率いて高句麗の土王と戦った。
そして新羅には応神が自ら攻め込んだ。
広開土王碑に刻まれている戦闘は、慕容氏系(高句麗&新羅)VS 苻氏系(倭国&百済)という構図だったのである。

 
■後燕と北魏が対立

394
・後燕の慕容垂、西燕の慕容永を攻め滅ぼす。

北魏はこの数年前から後燕よりも西燕をひいきにしていたようで、このときも西燕からの要請で援軍を派遣したが間に合わなかった。これで決定的に後燕と北魏の関係は悪化した。

・百済阿華王の子・腆支(てんし)が太子となる。
・応神、息子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に後事を託し、列島を去る。

『古事記』には応神は甲午(394)年9月に没したとある。このときから応神は倭国を太子の菟道稚郎子に任せ、広開土王と戦うべく百済に渡ったのだ。
広開土王碑文には 394年、395年、396年と毎年のように高句麗と百済は戦ったとある。ここにある百済も、百済から出兵した応神率いる倭兵がその実体だった。

395
・後燕の太子・慕容宝、北魏を攻めたが惨敗。

このとき後燕は土王に救援を要請した。こんなときに役に立ってもらわなければ高句麗王に立てた意味がない。
ところが土王は北魏の道武帝との個人的な関係を重視したのか、出兵することはしたが逆に後燕領を蚕食し、高句麗の勢力拡張に努めた。おそらく大局的に後燕はもう長くないという判断もあったのだろう。後燕は北魏のみならず、高句麗にも裏切られてしまったのである。
 

■応神、後燕と連合

396
・慕容垂、自ら北魏との決戦のために中山を出発したが、征討途上で病没。
・慕容宝即位。

垂没後の慕容氏のお家騒動はあまりにも複雑なので、倭国と直接関係のない話は割愛する。

・土王、百済を攻め勝利。

土王は自ら出兵し、再び百済国内のほとんどの城を落城させた。
百済王は貢物を持って土王の前に跪き、「今から後は長く奴客(臣下)になりましょう」と警ったという。

『書紀』の同年9月に高句麗・百済・任那・新羅人が来朝したので池(韓人池)を作らせたとある。彼らは敗れた応神側で、倭国に亡命したのだろう。
土王に降伏した「百済王」とはもちろん阿華王だが、応神も参戦していたのだから、応神も土王の前に跪いたのかもしれない。非常に屈辱的な敗北を喫したわけだが、これであきらめるような応神ではない。いったん倭国に戻り、秘かに後燕と内通する画策を始めた。後燕にとっても、倭国と共闘して裏切り者の土王を倒すというのは悪い相談ではなかった。最初は慕容氏と苻氏の戦いだったのに、土王という共通の敵の前に両者がタッグを組むという意外な展開となる。

397
・百済の太子の直支(とき)、人質として倭国に赴く。(『書紀』)

直支とあるが、腆支のことである。

398
・慕容宝死去。庶長子のが即位。

しかし後燕の実権を握っていたのは盛の叔父に当たる慕容煕だった。垂の晩年の子で、宝の弟である。

  

399
・土王、新羅領内の倭兵を壊滅させる。

土王が平壤(のちに南平壤といわれる長寿山の麗)を巡回した折、新羅王・奈勿尼師今が帰服したいと申し出た。土王はこれを受け、兵5万を派遣して新羅城に満ちていた応神側の倭人を任那・加羅まで追撃し、倭兵は壊滅したとある。

400
・後燕、慕容煕を将として高句麗を攻める。
・新羅の奈勿尼師今死去。

煕は北から高句麗を攻め、一方で応神は土王側に寝返った新羅を攻撃。
奈勿は402年に没したことになっているが、『新羅本紀』に「彗星(外国からの侵略を意味する不吉な星)が東方に現われた」という識緯説的表現で応神勢が攻めてきたことを暗示しているので、奈勿はこのとき殺された可能性が高い。

401
・後燕の慕容盛、誰とも知れぬ者に暗殺され、慕容煕が即位。

402
・土王、新羅に実聖尼師今を即位させる。

奈勿には卜好という王子がいたが、まだ幼かったのだろう。
高句麗に人質に出された実聖が10年ぶりに帰国して新羅王となった。

・応神、慕容熙に苻氏一族の2人の娘を差し出す。(小林惠子)

慕容垂は後燕を建てたあと苻氏の残党の一部を収容していたが、中山尹に任じられた苻謨という人の2人の娘が慕容煕の後宮に入った。
小林惠子氏は、この姉妹は応神の一族として琵琶湖周辺に生まれ育ち、慕容煕に贈られたのではないかという。
慕容熙は2人の娘を寵愛し、多くの人民を使役して景雲山という人工の山を作り、湖も2つ造った。
姉の娀娥(しゅうが)は404年に死んだが、煕は妹の訓英(くんえい)をますます寵愛した。
訓英は増長し、真夏に「凍魚膾」(凍った魚の膾(なます))を求め、真冬に生の地黄を欲したという。慕容熙をあやつり、国民を苦役に駆り立てた悪女として記録に残っている。応神は連合の証として煕に美女を贈ったのだが、熙が美女に狂ってしまえばそれもまたよしという作戦だった。
しかし姉妹が応神の一族だったとすると、煕は故郷を懐かしがる彼女たちのために比叡山と琵琶湖を模した庭園を造り、また訓英はかつて普通に食べてきたものを求めたにすぎなかった。琵琶湖で春から初夏に獲れる鮎の幼魚を氷魚といい、最初は言葉が通じなかったので「氷魚」と書いて示したのだろう。また地黄は日本では真冬の食材だが、寒い遼東では春の植物だったのである。

 
■土王と応神、最後の戦い

403
・応神、再び列島を去って百済より出兵。

応神は阿華王とともに高句麗南部を侵略したが、このときも土王が自ら出陣し、倭軍は壊滅した。

404
・応神と阿華王、広開土王に敗れ死去。

応神と阿華王は斬首されたようだ。
同年、土王は後燕の慕容熙も攻めているから、後燕は応神の最後の戦いのときも援軍を出していたのだろう。

・菟道稚郎子、正式に倭王に即位。

応神の死後、菟道稚郎子が倭王の座に就いた。

『書紀』には以下のようにある。
応神は菟道稚郎子を太子に立て、大山守皇子を山川林野を司る役に、オオサザキ尊を太子の補佐役にした。
しかし応神の死後、菟道稚郎子は位をオオサザキに譲ろうとした。オオサザキは固く辞退し、お互いに譲り合った。
そのとき、蚊帳の外だった大山守皇子が帝位を狙い、菟道稚郎子を殺す陰謀を企てた。
オオサザキがこれを知り、ひそかに菟道稚郎子に知らせ、兵を備えて守らせた。
そうとは知らない大山守は数百の兵を率いて夜中に出発し、明け方に宇治に着いて川を渡ろうとしたが、渡し守に変装した菟道稚郎子が川の真ん中で船を転覆させ、大山守を水死させた。(『書紀』)

オオサザキはのちの仁徳である。慕容佐(サ)を思わせる名前ではないか。
土王は百済で応神と阿華王を滅ぼしたあと、その足で応神の後継者争いにも介入したようだ。
土王が大山守皇子ではなく菟道稚郎子に肩入れしたのは、応神の遺志を尊重することで菟道稚郎子に貸しを作っておきたかったというのもあるだろうが、仁徳のことだから菟道稚郎子と大山守皇子の人物を公正に比較し、菟道稚郎子の方が優秀だと判断したのだと思う。
『書紀』は万世一系のタテマエに従い、応神の次に即位した仁徳を応神の子としているが、実は仁徳の前に本当に応神の子・菟道稚郎子が中継ぎ的に即位していた。そこには皮肉にも父の仇である土王が一役買っていたのだ。