神 武(1)

 
■ニニギ族、高句麗を簒奪

197
・高句麗で大乱があり、多くの漢人が高句麗に亡命した。(『高句麗本紀』)
 このとき故国川王胡人百余家を受け入れたが、彼らは結局、王に背いた。故国川王は胡族の反乱を逃れて新しい国を作った。(『魏志東夷伝』)
・故国川王死去。妃の于氏がその喪を隠し、独断で山上王を秘かに宮中に招き入れ即位させた。(『高句麗本紀』)

『高句麗本紀』の「多くの漢人が高句麗に亡命した」は、後漢から来たので「漢人」と記されているが、『魏志』には「胡人」「胡族」とある。その正体は大月氏のニニギ族だった。
亀茲から南九州に来た大月氏のニニギ族は70年頃に辰韓に渡り、そこから西の馬韓を通って山東半島の海辺に定着していたのである。そこに公孫氏が勢力を伸ばしてきたので、高句麗と共闘して交戦した。しかしニニギ族は敗れ、高句麗に亡命した。
ところがニニギ族は「王に背き」、まもなく故国川王が没し、山上王が即位したというのである。

『魏志』と『高句麗本紀』の内容は少し異なるが、総合的に考えて、ニニギ族は故国川王の妃・于氏の導きで高句麗を簒奪したと結論される。
于氏とは呪術者系の姓らしく、土着の高句麗人ではない。
高句麗に加勢して公孫氏と戦ったニニギ族の長・山上王を、于氏が独断で高句麗王に擁立したというのが真相である。

 
■公孫氏、帯方郡を設置

204
・公孫度死去。息子の公孫康が後継者となる。
・公孫康、楽浪郡の南半分を割いて帯方郡を設置。

公孫氏による帯方郡の創設は、事実上、半島南部及び日本列島が公孫氏の支配下に置かれることを意味する。
ヒミコの女王国の朝貢先も帯方郡の郡冶(役所)になった。それは公孫氏が滅びるまで続く。

 
■魏の建国、山上王の高句麗王即位

220
・異鳥が王庭に集まった。(『高句麗本紀』)
・後漢が滅亡。
・曹操が死去。息子の文帝(曹丕)が後漢最後の皇帝となった献帝から禅譲を受け、の皇帝となる。
・魏、山上王を正式に高句麗王に任命。

この年に建国した魏は、公孫氏と戦った経験がある山上王を正式に高句麗王に任命した。
『高句麗本紀』には山上王は故国川王の弟で勇敢で騎射に優れていたとある。また太祖大王宮の曾孫ともある。
『記紀』も同様だが、『三国史記』では正統な王の嫡子でない簒奪者を弟としたり、何代も前の王の血統を持ち出す傾向がある。
讖緯説では変な鳥が王宮の庭に集まるのは易姓革命の暗示とされる。特に他国から来て王になった場合がそうで、まして山上王は異民族の胡人(大月氏)である。山上王が他国からの纂奪者であることを、彼が高句麗王に任命された年を選んで「異鳥が王庭に集まった」と暗示しているのである。
列島から来た脱解(大武神)や遂成も先祖は大月氏なのだが、高句麗王に即位したときにこのような暗示はなかった。彼らの先祖が東アジアに来たのは紀元前のことなので、代を重ねるうちに胡人っぽさが薄れていたのだろう。
ニニギ族は120年間、大月氏の血を色濃く残したまま東アジアに居続けたようである。

221
劉備が皇帝を名乗り、を建国。

223
・蜀の劉備が病死。劉禅がその後を継ぎ、諸葛亮(孔明)が政治・軍事の全権を握る。

226
・魏の文帝崩御。息子の明帝(曹叡)即位。

 
■高句麗・東川王即位

227
・高句麗の山上王死去。東川王即位。

山上王が生前、部下を連れて挹婁の地に行ったところ、逃げた豚を追いかけていた娘を見初めて側室にした。この側室から生まれたのが東川王である。(『高句麗本紀』)
なんとものどかなエピソードだが、挹婁は豚を常食とする民族で、海上輸送を生業としていた。

『魏志東夷伝』によれば、東沃沮では魚や塩、海産物などを租税として魏の都・洛陽まで運んでいたという。
しかし東沃沮や半島には製塩の痕跡はなく、列島の日本海側の若狭を中心に製塩の痕跡や塩を入れたらしい土器などが数多く出土している。
丹波の特産品だった塩を挹婁が船で東沃沮に運び、塩魚などに加工して洛陽に届けていたと考えられる。

丹波は一時期は解氏扶餘の騶牟の支配下にあったが、もともと葛城氏の国で、大武神(脱解)の故郷でもある。
山上王もまた大月氏の休氏だから、葛城氏とは同族と言える。
山上王は挹婁と婚姻関係を結び、船や船乗りを確保することで列島に渡りやすくなり、塩や交易物も手に入れたのである。
 

■公孫氏の滅亡

228
・公孫康の次男、公孫淵が遼東太守やその他の地位を一族から強奪。

229
孫権、魏から独立しての皇帝となり、三国時代に突入する。

230
・辰韓の助賁王即位。

黄巾の乱の残党で、184年にヒミコの後押しで辰韓王に立てられた伐休王という王がいた。196年に即位した奈解王はその孫である。
奈解王には于老という息子がいたが、奈解王は娘婿の助賁王に後を嗣がせるように遺言したという。
その遺言通り辰韓王になった助賁王は、于老を取り立て、主に国防に当たらせた。
于老はのちに辰韓の大将軍となり、山上王の子・東川王と激突することになる。

ここに于老が出てくるので、脱解の孫(昔氏)を名乗っていた伐休王の一族が本当は于氏だったことがわかる。
高句麗の故国川王の死後、197年に独断で山上王を即位させた妃が于氏だった。伐休王が一族の娘を故国川王に嫁がせていたのだろう。

234
・東川王、魏に送使。

東川王は魏と共に公孫氏と戦う態度を表明したようだ。
また、列島の丹波とも連携を深めようとしていたようだ。
丹後半島の中央部、京都府弥生町の大田南五号墳から魏の青竜三年(235)銘の方格規矩四神鏡が出土しているが、東川王が丹波に送ったものである可能性がある。

諸葛亮(孔明)が死去。

三国は早くも魏による統一へと傾き始めた。

237
・公孫淵、魏から自立して燕王を自称。

魏の明帝は幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)に命じ、公孫淵に臣下の礼を取らせるために洛陽に呼び寄せることにした。毌丘倹は明帝が皇太子の頃から仕え、生涯を通じて忠臣だった人物である。
ところが公孫淵は武力で抵抗し、毌丘倹勢を撤退させた。
これで勢い付いた公孫淵は燕王を自称し、半独立政権を樹立して、この頃から遼東に勢力を張っていた鮮卑の慕容氏に玉璽を与え、遼東の支配を許した。
魏から、蜀、呉に続いて燕が自立したので、三国時代は本当は「四国時代」だった。
しかしのちに鮮卑の慕容氏が建てた国も燕といい、そちらの方がポピュラーなので、公孫氏の燕は国名よりもそのまま「公孫氏」と呼んだ方が通りがいいようだ。

・12月、明帝は大将軍の司馬懿(しば い)に公孫淵討伐の詔勅を下した。

司馬懿は字を仲達といい、司馬仲達の名でも知られる軍師。
毌丘倹ではなく最初から司馬懿にやらせておけば公孫淵がここまで調子に乗ることはなかったかもしれない。しかし当時の魏は呉・蜀との攻防に主力を投じ、遼東までは手が回らなかったのである。
それに、明帝は司馬懿の権力が増すのを嫌い、あまり手柄を立てさせたくなかった。しかし現実問題、公孫氏を倒せる者は司馬懿しかいかなったのである。

 
■公孫氏滅亡 ヒミコ、親魏倭王に

238
・5月、邪馬臺国の卑弥呼、大夫の難升米を帯方郡に派遣。(『魏志倭人伝』)

司馬懿が公孫淵討伐に動くという情報に接し、公孫氏の支配下にあった女王国のヒミコはいちはやく魏に恭順の意を示すため、難升米を帯方郡に派遣した。
難升米は明帝が送り込んでいた新しい帯方大守の劉夏に護衛の将兵を付けて送られ、初めて首都の洛陽まで上ることができた。

・9月、司馬懿、公孫氏を滅ぼす。

司馬懿の軍勢は公孫淵父子を殺し、首を洛陽に送った。3代続いた公孫氏は滅び、公孫氏が設置した帯方郡は魏の支配下に入った。
このとき、高句麗の東川王は司馬懿に1,000人余の援軍を送っていた。
公孫氏によって遼東の支配を許された慕容氏もちゃっかり司馬懿サイドに寝返っていた。

東川王は司馬懿に恩を売っておき、公孫氏に代わって遼東の東南部から半島を支配下に置こうとしたのだ。
明帝にとっては公孫氏が高句麗に代わっただけで、高句麗は新たな脅威にほかならなかった。
明帝は毌丘倹に汚名返上の機会を与えるべく、密かに東川王の征討を命じた。

・11月、明帝が卑弥呼に証書を送り、卑弥呼を親魏倭王となし、仮の金印紫綬を厳封し、帯方大守をして卑弥呼に仮授した。(『魏志倭人伝』)

明帝は翌年に亡くなっているから、ヒミコは明帝の最晩年に親魏倭王の称号、金印をはじめ莫大な贈物をもらったことになる。
明帝がそこまで女王国を厚遇したのは、ヒミコのバックに呉の巫術者集団があることと、高句麗の東川王を倒すに当たって女王国を魏側に付けておきたかったからである。
ところで「仮の」とか「仮授」という言葉は240年にも出てくるので、そのとき説明しよう。

239
・明帝死去。

明帝が34歳で亡くなり、次に即位した曹芳がまだ8歳だったので、皇族の曹爽が魏の実権を握った。
外交面では明帝の政策を継承しようとする毌丘倹と、自分の思い通りにやりたい司馬懿が対立した。
楽浪郡、帯方郡、玄菟郡の大守は以下の通り。
帯方大守が難升米に護衛を付けて洛陽まで行かせた劉夏から司馬懿派の弓遵に変わっている点がポイントである。

 玄菟大守:王頎(毌丘倹派)
 楽浪大守:劉茂(司馬懿派)
 帯方大守:弓遵(司馬懿派)


■倭王と倭女王

240
東倭重訳が使者を派遣して魏に朝貢した。(『晋書』)
・帯方大守の弓遵が使者に証書と印綬や宝物をもたせて倭国に送り、倭王に仮授させた。それに対して倭王は謝意の上表文を奉った。(『魏志倭人伝』)

東倭とは、紀元元年、出雲と丹波を制圧した解氏扶餘の騶牟が王莽に「東倭王」の承認を求めた、あの東倭である。その後、解氏扶餘勢力は脱解(大武神)によって一掃された。
重訳とは複数の通訳のこと。東倭の方言は「通訳の通訳」がいないと中国語に翻訳できなかったのだろう。
東倭は『晋書』には出てくるが『魏志』には出てこない。東倭という国名を付けたのが『晋書』だったからだと言ってしまえばそれまでだが、『魏志倭人伝』も「倭王」と「倭女王」をしっかりと書き分けている。一般にどちらも卑弥呼のことだと考えられているが、「倭王」は男王で、東倭王のことなのだ。
使者の名も異なる。倭女王(ヒミコ)が送る使者は難升米、倭王(東倭王)が送る使者は伊声耆(いせいぎ)と掖邪狗(えきやく)である。

  倭女王の国:邪馬臺国(伊都国) 使者:難升米

  倭王の国 :東倭        使者:伊声耆、掖邪狗

すでに238年に明帝がヒミコを倭女王として承認しているのに、明帝の死後、司馬懿が独断で東倭を朝貢させ、倭王として承認したのだ。東倭の使者は洛陽までは行かず、全ての実務的な処理は帯方大守の弓遵によって行なわれたようである。
一国に対して2人の王を承認した不都合さゆえ、『魏志倭人伝』はどちらにも「仮授」というあいまいな表現をしているわけである。

魏の全権を掌握したい司馬懿にとって、毌丘倹はもっとも目障りな存在だった。
司馬懿は、公孫氏討伐のときに援軍を出してくれた高句麗の東川王と、その東川王と連合関係にある東倭を味方に付け、ヒミコを倭女王として承認している毌丘倹に対抗したのである。

  司馬懿(&弓遵)、東川王、東倭 VS 毌丘倹(&王頎)、女王国

 
■景初四年銘の三角縁神獣鏡

京都府福知山市広峰15号墳から景初四年銘の三角縁神獣鏡が出土している。
240年に東倭の使者が帯方大守の弓遵からもらった宝物のひとつとも考えられるが、実はそうではない。問題は「景初四年」という銘である。

福知山市オフィシャルホームページ:
https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/1278.html

「景初四年は魏の年号で、西暦240年にあたる」とあっさり説明されているが、景初は3年(239)までしかなく、240年は正始元年なのだ。
正史にない年号の銘があることや、そもそも三角縁神獣鏡が中国からは出土しないので、中国の工人が来倭して作った「倭鏡」だとする説もある。はたしてその真相は?

【仮説1】

魏では青龍5年3月に景初と改元し、同時に暦も改訂されて(景初暦)、青龍5年3月が景初元年4月とされ、1ヵ月ずつ早くなった。たとえば237年12月、明帝が司馬懿に公孫淵討伐の詔勅を下したという記事は、実は『魏志』には景初2年1月とある。
これは景初年号の期間中続いたが、正始元年(240年)に元の暦に戻した。
問題は、239年11月は景初3年12月だが、239年12月をどう処理したか。
景初3年12月をもう一度繰り返すか、1ヵ月だけ景初4年1月にするかのどちらかしかない。
常識的には後者だろうと思う。

  237年 2月 → 青龍5年 2月 
       3月 → 景初元年 4月(ここで新暦に。)
    ・
    ・
    ・
  239年11月 → 景初3年12月
      12月 → 景初4年 1月 ※景初4年が1ヵ月だけ存在。
  240年 1月 → 正始元年 1月(暦を元に戻す。)

東倭の使者はまっすぐ帯方郡に来たのではなく、その前年(239年12月)に高句麗を訪れていたのだ。そのとき東川王が景初四年銘の三角縁神獣鏡を作らせ、東倭の使者に与えたというわけである。

【仮説2】

『魏書』に「明帝は正しくは34歳で死んだが、景初2年(238)12月を正月にしたため、強いて言えば35歳と言えなくはない」と書かれているらしい。
この記事に従うと、238年12月を景初3年1月とし、239年1月を景初4年1月として、正月が2回続いたから、数え年34歳の人は1ヵ月で35歳になったというわけだ。
これだと、新暦が適用されたのは12月を1月とした238年12月だけで、翌月を景初3年2月ではなく景初4年1月としているので、たった1ヵ月で暦を元に戻したことになる。
景初3年が1ヵ月しかなく、239年はまるまる景初4年だったことになるので、景初4年銘の鏡が存在してもおかしくないという話になる。ただしそれは239年であって、240年ではない。

  238年11月 → 景初2年11月 
      12月 → 景初3年 1月(ここで新暦に。)
  239年 1月 → 景初4年 1月(暦を元に戻す。)※239年がまるまる景初4年に。
    ・
    ・
    ・
  240年 1月 → 正始元年 1月

私は景初年間だけ独自の暦を使っていたとする【仮説1】の方が自然だと思うが、明帝が死んだのが「35歳と言えなくはない」と言えるためには【仮説2】のように死の直前に正月が2回なければならず、【仮説1】で正月が2回続くのは239年12月と240年1月だから、明帝は240年に死んだことになり、239年1月に死んだとする『魏志』の記述と矛盾する。
この問題についてはまだ検討の余地がありそうだが、いずれにせよ、景初4年は1ヵ月だけ(あるいは丸1年)存在したのだ。景初四年銘の三角縁神獣鏡は、魏の政情に疎い高句麗の東川王(あるいは倭人)が間違えて作ったものではないのである。

また【仮説2】が正しいとすると景初四年銘の三角縁神獣鏡を東倭の使者に与えたのは帯方郡だった可能性も出てくるのだが、三角縁神獣鏡が列島で大量に作られるようになるのは東川王のレガリアだったからである(この件についてはのちほど説明する)。だからいずれにせよ、景初四年銘の三角縁神獣鏡は東川王が東倭に与えたものだと私は考える。

 
■東川王、毌丘倹に高句麗を追われる

242
・東川王、遼東の西安平(鴨緑江下流)を攻撃。

鴨緑江とは現在の中華人民共和国と北朝鮮の国境になっている川。
東川王は鴨緑江の航路を掌握しようとしたらしい。
毌丘倹はこれによって東川王を征伐する口実を得た。

243
・倭王はふたたび大夫の伊声耆と掖邪狗ら8人の使者を送った。(『魏志倭人伝』)

この「倭王」が東倭王である。女王国だったら使者の名は難升米のはずだからだ。

244
・毌丘倹、高句麗を攻撃。

毌丘倹は1万の兵を率いて玄菟郡を出発し、山上王が鴨緑江の中流域に建てた丸都(がんと)城に向かった。東川王も兵2万を率いて沸流水(渾江)で迎え撃った。
この戦いで毌丘倹が勝利し、東川王は身内の者だけを連れて、母親の里(挹婁)に近い濊の不耐城に逃げた。
丸都城が落ちたことで『晋書』では高句麗が滅亡したことになっている。しかし単に国として認めなくなっただけで、実際は東川王の後、中川王(在位248〜270)、西川王(在位270〜292)と続き、むしろ国力を増していく。

245
・辰韓の助賁王らがクーデターを起こし、帯方大守の弓遵を殺害。

このクーデターの黒幕は毌丘倹である。帯方郡の土着勢力を扇動し、司馬懿派の劉茂と弓遵を襲わせたのだ。この反乱によって弓遵が殺された。

・王頎、濊の不耐城を攻撃。
・東川王、辰韓を侵略。
・東川王、平壌城に居を定める。

毌丘倹の腹心の王頎が濊を攻めた。不耐城を追われた東川王は南下して辰韓に逃れた。このときは蜜友という部下が奮戦し、瀕死の重傷を負ったが、その間に九死に一生を得た東川王は数人の部下とともに転々と山中をさまよったあげく南沃沮に至った。そこから船で北沃沮まで逃げたが、王頎も北沃沮まで執拗に追撃した。
東川王は一転、海上を南下し、辰韓の北辺を侵略。
そこに立ちはだかったのは奈解王の王子で、世が世なら辰韓王だった大将軍・于老だった。しかし東川王は于老の軍を撃破し、平壌城に居を定めた。この場合の平壌城とは、のちに南平壌と呼ばれる黄海郡載寧市の長寿山城跡と推定される。そのすぐ南は馬韓である。

・倭に詔書が下され、帯方郡を通じて難升米に黄色の幢が仮授された。(『魏志倭人伝』)

難升米が出てくるから、この「倭」はヒミコの女王国である。
毌丘倹派の王頎が正式に帯方大守になるのは翌年だが、すでに弓遵は死んでいるので、帯方郡は実質的に王頎の支配下にあった。
黄巾の乱の頭巾と同じ黄色の幡は、ヒミコの許氏が黄巾の乱の一方の旗頭であることを魏が認めたということである。
また、それを難升米に下賜するということは、魏の臣下として戦うことを要請することだから、難升米が単なるヒミコの家臣だったらありえない話である。ここから、ヒミコは象徴的な女王で、実質的な伊都国王は難升米だったことが窺えるのである。
王頎がそこまで難升米を持ち上げる必要があったのは、自身が取り逃がした東川王が辰韓の北辺を侵略し、もはや列島の軍事力に期待せざるをえなくなったからである。

・東川王が東海の美女を献上され、後宮に入れた。(『高句麗本紀』)

平壌城の東川王から見て「東海」は列島の日本海側、東倭のことだろう。
挹婁出身の母を持つ東川王は、自身は東倭王家の娘を娶り、塩の生産地そのものを手中にしたことになる。
しかしこのときの東川王は毌丘倹勢力に包囲され、もはや半島には行き場がない状態だった。そんなところへ美女を献上するためだけに東倭が使者を送るはずがなく、列島への亡命を打診する東倭王の書状が届けられたと想像する。

246
・王頎、辰韓勢と馬韓勢を引き連れて平壌城の東川王を攻め、勝利。さらに楽浪大守の劉茂を殺害。

勝利した王頎は、玄菟太守から正式に帯方太守になった。
王頎に敗れた後、東川王の所在は明らかにされていない。

 
■女王国の滅亡

247
・帯方大守に赴任した王頎のもとに倭国の使者が来て、卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼が不仲となり対戦していると報告。(『魏志倭人伝』)

狗奴国の王と思しき卑弥弓呼(ヒミココ)について、卑弓弥呼(ヒコミコ=彦御子)の書き誤りとする説がある。卑弥呼に引っ張られて間違えたということはありそうな話で、私もヒコミコの方が正しい気がする。

王頎の使者・張政が北九州に来てみると、ヒミコはすでに殺されていた。
名前がいっさい出てこなくなる難升米も、この戦いでヒミコと共に戦死したようだ。
『魏志倭人伝』には「卑弥呼が死んで男王が立ったが、国中の者が従わなかった」とある。
普通に考えたら、この男王とは卑弥弓呼ということになるだろう。

狗奴国は邪馬臺国(伊都国)の南ということで一応熊本あたりに比定したが、実はよくわからない。
『魏志倭人伝』に登場する国で「奴」が付く国名はいくつかあるが、「狗」が付くのは狗奴国以外では半島南部の狗邪韓国(金官加羅国)しかない。
「狗」は犬だから、犬戎系なのだろう。
葛城氏とオオクニヌシ」で、「休氏は南九州の土着民(隼人)を服属させながら北上した」「現在でも、大嘗祭の時には隼人の犬吠(いぬぼえ)や吉野の国栖奏(くずそう)がある」と書いた。
大和にも辰韓にも行かず、九州に留まった休氏の国が狗奴国だったのかもしれない。

また、狗奴国には「奴」も付いている。
『魏志倭人伝』に出てくる国名は難升米が勝手に付けた可能性があると書いたが、「奴国」を筆頭に、「奴」を付けた国にはいい感情を抱いていなかったとすれば、狗奴国も女王国とはもともと敵対関係にあったのかもしれない。

ただ、ヒミコ&難升米と東川王の戦いは、明帝亡きあとの魏の主導権を巡る毌丘倹と司馬懿の代理戦争でもあった。それは『魏志』にも『晋書』にも書かれないから、史料は何も語ってくれない。東川王の名前も出てこない。
だから、「卑弥弓呼=東川王」だったと考えるのがもっとも筋が通るのではないか。

東川王は東倭の誘いもあり、列島に上陸した。
もちろん親魏倭王ヒミコの女王国とは戦いになるだろうし、難升米はそのために黄色の幢まで授かっている。
東倭も東川王を列島に招くに当たり、援軍の準備をしなかったとは考えられない。
打倒女王国の声に、狗奴国も呼応しただろう。
しかし女王国に対してもっとも戦意をむき出しにしたのは、かつて難升米に出し抜かれた奴国ではなかったか。魏の後ろ盾を怖れておとなしくしていた奴国の不満が一気に爆発したとみる。伊都国を東西に分断した「倭の大乱」の、これが決勝戦だったのである。

結果は東川王側の勝利だったが、北九州にとっては勝者なき戦いだったと言えるかもしれない。
ヒミコは死んだが、高句麗からの亡命者である東川王を喜んで迎え入れるのは東倭だけだった。

 
■神武東征の真相

張政としては、ヒミコの死を見届けただけで帰ったのではガキの使いも同然である。どうにか王頎の顔を立てることができる戦後処理として、東川王による今後の列島支配をいっさい公認しないこと、東倭の倭国王を取り消すこと、ヒミコの姪の臺與(トヨ)を新女王として、女王国を宇佐に遷都することが決議されたと私は考える。
そして九州勢に全く支持されない東川王は、塩土老翁の勧めで本州への東征を決めた。

塩土老翁は1世紀に南九州でニニギに国を提供したとされる人物だから長生きにもほどがあるが、名前に塩があるところから、各時代の東倭王(丹波王)を表わす隠語として用いられているのだと思う。1世紀の南九州に出現したのは、大武神の時代から高句麗と丹波の間に交流があったことを暗示するためだったのかもしれない。

248
・辰韓、使者を派遣して高句麗と和解。

この高句麗とは、列島にあった東川王のことであろう。

・東川王、岡田宮(遠賀川流域)から東征を開始。

これが『記紀』の人代の初代天皇・神武である。
高句麗で没した東川王の父・山上王は、神代最後の神・ウガヤフキアエズに相当することになる。