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持 統

 持統天皇は高市皇子だった

 天武を殺害した大津は、天皇の系譜から抹消されている。
 『書紀』は大津が処刑された686年を天武の崩御の年とし、それまで天武朝が存続していたかのように記している。
 翌687年が持統元年であるが「(菟野)皇后は即位の式もあげられぬまま政務を執られた」という。
 そして、持統3年に草壁皇子が亡くなり、持統4年に「物部麻呂が大楯をたて」、皇后が皇位に即いたとある。

 物部麻呂は、壬申の乱のときは近江側にあって、山に逃れた弘文大友皇子)に最後まで従った人物である。
 高市皇子が吉野側に寝返ったことで、表面上、高市と物部麻呂は敵味方に分かれて戦ったわけだが、乱後の物部麻呂の出世を考えると、彼はもともと高市の家臣だったと推測される。
 物部麻呂を近江に残したのも高市の作戦であり、大友は自害したのではなく、物部麻呂によって殺されたのだと私は思う。

 持統即位のセレモニーで、物部麻呂が何やら大役を演じているところからも、持統天皇の正体は菟野皇后ではなく、高市皇子だったとする小林惠子説を私は支持したい。

 中国の史書『新唐書』には「持統は天武の子」とあり、皇后だったとも女帝だったとも記されていないという。
 高市を天武の子と考えていた唐が、高市のことを記したのではないか。

 女帝の和風諡号には必ず「姫」が付き、持統の和風諡号も「高天原広野姫」となっているが、『続日本紀』には「藤原宮御宇倭根子(ふじわらのみやごうやまとねこ)」という、藤原京の天皇という意味の「姫」の付かない諡号も記されている。
 また同書には、697年に文武に譲位したあとの持統のことが「太上天皇」と記されている。
 「太上」とは、もともと漢の高祖の父親に追贈された称号で、天皇だった人に使われるのは不適切な用語だった。菟野は日本初の「太上天皇」だから、その言葉がまだ正しい意味で用いられていたとすれば、即位したことはなかったと考えられるのである。
 長屋王は木簡に「長屋親王」と書かれ、その邸宅も天皇クラスの広大な規模だったことが判明しているが、父の高市が696年に没するまで天皇だったからである。

 『書紀』には、持統が吉野へ行った記事が10年間に20回ぐらいある。何をしに行ったのかは全く書かれていない。
 吉野という場所は、即位前の天武の本拠地であり、古くは古人大兄が退位させられ隠棲していた場所でもあるように、昔から反体制派の拠点だった。
 吉野には、菟野のもとに藤原不比等舎人親王ら反体制派が集結していたのだろう。『懐風藻』には「吉野での詩」と明記された不比等の詩が残されている。
 彼らはのちに『書紀』を編纂したメンバーであり、『書紀』は彼らの視点で書かれているという事実は押さえておきたい。
 彼らが、自分たちに都合よく史実を改ざんしたとすれば、大津や高市が即位した記録が抹消され、高市のかわりに菟野皇后が即位していたという話になっていても不思議ではないのである。

 菟野や不比等らが中央に復帰し、ようやく文武を即位させたのは、高市の崩御の翌年、697年のことである。これも、高市が生きている間は文武が即位できなかった(つまり高市が天皇だった)証拠ではないか。

 藤原不比等は天武の子

 藤原(中臣)鎌足の一族は、天武朝においては影が薄く、持統のときにようやく藤原不比等が登場する。
 持統=菟野とする通説では、中大兄と鎌足という「大化の改新コンビ」が、それぞれの娘と息子によって復活したかのように解釈されている。つまり、不比等は天智派だったため、天武朝では重用されなかったというのである。
 しかし、これは話が逆なのだ。
 菟野と不比等のコンビを美化するために、それぞれの親とされる人物が美化されたのである。

 今まで見てきたように、鎌足は百済・義慈王(孝徳)の家臣であり、義慈王が唐に連行されてからは大海人の側近であった。
 668年、鎌足は新羅の将軍・金ユシンに船を与えたことが原因で、翌年、中大兄の懐刀・蘇我赤兄に暗殺されたと私は述べた。鎌足は、天智系とは完全に敵対する立場にあったのだ。
 そして、草壁の死の痛手を乗り越え、吉野で耐え忍んだ末に文武を即位させた菟野も、天智の娘ではありえず、完全に天武サイドの人間だった。不比等がそんな彼女の右腕として働いたのも、鎌足が大海人の側近だったからであり、もし不比等が天智派だったら、むしろ高市側についていたはずだ。

 鎌足は死んでから「藤原」の姓を与えられたので、藤原氏の事実上の初代は不比等である。
 また『続日本紀』には、不比等以外の藤原氏がいったんもとの中臣姓に戻されたという記事もある。

 不比等は世間的には「鎌足の子」で通っていたが、本当の親は天武だったのではなかろうか。
 義慈王が自分の子を宿している妻を鎌足に与えたケースがあったように、鎌足は、大海人からも大海人の子を宿した妻をめとり、生まれたのが不比等であったと私は考えている。

 藤原家とは、不比等が表向き鎌足の子であったことを利用して作られた「天武の分家」であり、「影の天皇家」だったのではないかと思う。

 よく知られている仮説では、不比等の「天智の落胤説」もあるが、その可能性はきわめて薄い。
 「黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのかたな)」という、草壁がつねに身に付けていた佩刀(はいとう)がある。
 その由緒書には、草壁がこれを不比等に与え、不比等は文武天皇即位のときにこれを天皇に献上し、また天皇崩御のときに天皇はこれを不比等に与え、不比等が亡くなるとき、これを聖武天皇に献上したとある。
 天武系の皇位継承の神器が、このように「草壁→不比等→文武→不比等→聖武」という順序で移動したという話であり、草壁が死んでから文武が即位するまでの間などは、実に8年間も不比等が所有していたことになる。
 これは不比等自身、天武系天皇の有資格者、つまり天武の子だったからであり、もし文武が高市より先に死んでしまったら、菟野は不比等を即位させるケースも想定していたのではなかろうか。

 菟野皇后の出自

 『書紀』は天武系を正当化するため、天武が天智の弟だったかのように史実を改ざんしている。
 ならば、菟野が天智の娘で、大田皇女の妹だったという話もそのまま信じることはできないだろう。

 加羅(任那)が新羅に滅ぼされた562年、『書紀』に次のような記述がある。

秋七月一日 新羅は使いを遣わして調をたてまつった。
その使いは新羅が任那を滅したと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。
日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡ウノ野邑(さららのこおりうののさと)の新羅人の先祖である。

 文中の「ウノ」は「」と書く。菟野皇女の「ウノ」も、正しくは「」と書く。
 菟野皇女の正式な幼名は菟野讃良(うののさらら)皇女という。
 これは「さららのこおりうののさと」の出身だったとしか考えられないだろう。

 帰国を望まず、そのまま河内に定着したという新羅の使者は、『新撰姓氏録』に「新羅皇子・金庭興(きんていこう)」とある。しかし新羅皇子と言いながら、加羅が降伏すると同時に倭国に亡命しているので、加羅系の新羅人だったようだ。
 菟野皇女は、加羅系新羅人・金庭興の子孫だったのである。

 宝姫と文姫 

 金庭興という人物は古代史ではきわめてマイナーだが、新羅の将軍・金ユシン*も加羅国王の末裔だったと言われているので、意外と近い関係にある。世代的には、金ユシンが金庭興の息子としてウノ邑で生まれたとしてもおかしくはないほどである。もっともその場合、彼は新羅特有の制度である「花郎(ファラン、青年貴族の戦闘集団)」出身なので、かなり早い時期に新羅に渡ったことになるが。

 *

 金ユシンには妹がいて、その妹には宝姫文姫という娘がいたと『新羅本紀』に記されている。
 しかし、朝鮮には女性の名前は親兄弟と夫にしか明かされない風習があり、朝鮮の史書に女性名が登場するのはこの記事だけであるらしい。
 彼女たちの名前が記されているのは、この姉妹が倭国のウノ邑生まれ、つまり新羅から見て「外国人」だったからではないかと小林惠子氏は述べている。

 金ユシンは妹とともに新羅に渡り、軍人として頭角を現す一方、外向的にも如才なく、妹を百済・武王に嫁がせたようである。
 上宮法王が没した620年代前半、武王は田村皇子の名で『書紀』に登場する。
 実際に上宮法王の後継者争いを演じていたのは山背大兄、竹田皇子、そして軽皇子だったと思われ、武王は百済から一歩も外に出たことはなかったと私は考えていた。
 しかし、倭王不在の時期の列島に、武王も何年か滞在して事の成り行きを見守り、山背が即位するのを見届けてから百済に帰ったのかもしれない。金ユシンの妹が河内のウノ邑出身ならば、武王も妻の実家に滞在し、そのとき宝姫と文姫が生まれたと考えれば筋が通るからである。

 帰国後の武王は、高向玄理の仲人で宝皇女(聖徳太子の娘)を娶った。
 玄理は、親唐政策をとっていた時代の高句麗で外交官の地位にあり、百済や新羅へ、唐と友好関係を結ぶことの重要性を説いて歩いていたと私は想像する。
 武王が親唐に転じたのも玄理の力によるもので、それが唐の斉明(武王の正妃)即位の承認、さらには天智系の承認へと続く。
 玄理は、各国を歴訪する際、倭国から引き取った息子の漢皇子(のちの蓋蘇文、大海人)も同行させたのだと思う。その中で、漢皇子と金ユシンの運命的な出会いもあったのではないか。

 636年、百済・武王と新羅・善徳女王の間で講和が成立した。
 たしかに、このときから641年に武王が没するまで、両国間には戦闘の記録がない。
 善徳女王の時代、実権を握っていたのは金春秋(のちの新羅・武烈王)だった。
 このとき、金春秋に文姫が嫁いでいる。
 文姫の父親が武王ならば、たしかにこの政略結婚は両国の講和のシンボルになりうる。
 もっとも、金春秋の本命は姉の宝姫の方だったらしいのだが、宝姫は別の男性の子を妊娠していたので、まだ10歳そこそこの文姫がかわりに嫁いだらしい。

 しかし武王の死後、百済に義慈王が即位し、再び百済と新羅の関係が悪化。金春秋の娘が義慈王に殺されるという事件もあった。
 それ以来、もともと親唐派だった金春秋は唐と連合し、百済と高句麗を目の敵にするようになったのである(当時の高句麗の宝蔵王も義慈王の息子だった)。
 武王との講和のシンボルだった文姫も百済に帰され、ちょうど蘇我氏を倒すために倭国へ向かうところだった武王の子・翹岐(中大兄)らと共に、生まれ故郷へ帰ってきたのではないかと小林氏は述べている。

 「弘文」の章で、額田王は中大兄の異母姉で、中大兄、間人らと同じ船で耽羅から倭国にやって来たとお話ししたことを思い出していただきたい。
 また、額田王の歌は朝鮮語で裏読みができ、そこには新羅方言があるということも。
 
 654年、金春秋は唐の後押しを受けて即位し、武烈王となった。
 しかし、太子として立てられた法敏は、武烈王の子ではなかった。
 法敏の立太子を主張したのは、武烈王よりも年長で、新羅軍を完全に掌握している金ユシンだった。
 法敏は、金春秋の本命だった宝姫、すなわち金ユシンの姪の、お姉さんの方が産んだ子であり、その父親は大海人だったのである!

 金ユシンは、唐と連合し、百済と高句麗を敵に回すという武烈王のやり方に同調できなくなっていたのだ。
 大海人の子・法敏の立太子は、のちの武烈王暗殺のクーデターへの布石でもあった。

 正史には、鏡王は額田王の父とも母ともとれる書き方がされているが、実は金ユシンの妹が産んだウノ邑の宝姫・文姫の姉妹(父親は武王)こそ、鏡王と額田王だったのではないかというのが小林惠子氏の推理である。

  宝姫 = 鏡王

  文姫 = 額田王

 鏡王の墓はたしかに舒明(武王)の墓所とされる押坂内陵の域内にある。
 一方、額田王の墓がないのは、彼女が新羅に渡って金春秋に嫁ぎ、一時期、新羅王妃だったことによるではないかという。

 金春秋と別れ、斉明、中大兄、間人らと共に倭国に渡って来た額田王は、中大兄の異母姉だった。
 そして、中大兄が大海人の軍事力を頼りにしていた時期、大海人との絆を深めるために嫁がされたわけである。
 大海人に嫁いだ額田王は、十市皇女を産む。

 しかし、のちに大海人は斉明を暗殺し、中大兄が即位するはずだった百済王の座に豊璋を立てるなどして、完全に中大兄とは訣別。このとき額田王とも別れたのだろう。

 一方、姉の鏡王は、伯父の金ユシンの紹介によってすでに大海人に嫁ぎ、法敏を出産したことはすでに述べた。
 その後、鏡王は、法敏の弟を妊娠中に、大海人から鎌足に与えられたと私は考える。
 そして生まれたのが不比等だったのではないか。

 菟野は本当に皇后だったのか?

 法敏(文武王)の母である鏡王と、天武の皇后の菟野は、ともに河内の新羅人の集落であるウノ邑の出身であった。
 法敏は637年生まれ、菟野は645年生まれ。
 法敏は17歳のときに武烈王の太子に立てられているので、それ以前には新羅に渡っていたとして、菟野は法敏よりも8歳年下だから、もしウノ邑時代に同じ父を持つ兄と妹として両者に接触があったとしても、菟野はまだ本当の子供だったことになる。

 里中満智子の『天上の虹』に、天武にとって菟野は女ではなく「戦友」だったとあるが、私もそんなところだろうと思う。菟野が天武の皇后になりえたのは、彼女が鏡王、額田王の姉妹と同郷だったからだろうが、天武は、基本的には武王の娘や天智の娘といった血統にこだわっていた人なので、菟野はあくまでも能力重視で選ばれた妃だったと思われる。

 しかし、それはあくまでも菟野が天武の皇后だったという『書紀』の記述が正しいことを前提とした話である。
 『書紀』は菟野を、天智の娘でもないのに天智の娘、即位してもいないのに持統天皇だったと書いているというのが私の主張だから、天武の皇后だったという記述だけを鵜呑みにするのもおかしな話なので、とりあえず疑ってみたいと思う。

 天武は天智の娘の大田皇女を正妃とし、大津皇子をあとつぎにと考えていたことは間違いない。
 たとえ大田が天武の即位前に死んでしまったとしても、天智の娘ではない菟野を皇后に立て、上宮法王の血が流れていない草壁皇子を皇太子にするとは思えない。これが事実なら、いくらなんでも菟野に甘すぎるのではないか。
 もちろん、彼女がいなかったら壬申の乱の勝利も考えられなかったほど、菟野の軍師としての存在が大きかったとか、相性的に、天武がどうしても菟野にだけは頭が上がらなかったとか、さまざまに想像することは可能である。
 女性が絡めばどんな理不尽なことでも「起こりうる」というのは入鹿が山背を殺害した事件のときにもお話ししたことだが、やはり大田が死んだあと、菟野は力づくで天武の皇后になり、草壁を立太子させたのだろうと私は考えている。天武は妥協案として、草壁に天智娘の阿閉皇女(のちの元明)を娶せたのだろう。

 これを大津の立場から見たらどうなるか。
 大切な母親を失ったあと、自分とは縁もゆかりもない女が父の皇后となり、その女の息子を後継者にするために、自分の皇太子の地位を剥奪されてしまったことになる。
 これなら、父親を殺してやりたくなるのも道理ではないか。
 つまり、菟野が皇后になったことが、大津が天武を殺す動機になったと考えられるのである。