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新孝徳

 
 白雉改元

 650年、倭国は「大化」から「白雉」に改元している。
 下は書記の記述の要約である。

649年 冠位十九階を制定。
650年 長門国司・草壁醜経(くさかべしこぶ)が白雉(しろきぎす)をたてまつり、これは王者の徳が四方に行き渡るときに現れる吉祥であるとして、元日のような儀式を執り行ない、白雉元年と改元した。
12月 難波長柄豊碕に入る。

 孝徳(義慈王)は649年8月までに百済に戻っている。
 聖徳太子の冠位十二階が太子の即位を意味していたように、新しい冠位が制定され、改元まで行なわれているということは、孝徳に代わる新しい天皇が即位したことを意味する。元日のような儀式とは即位のセレモニーである。
 12月の「難波長柄豊碕に入る」という記事があるが、645年12月から、すでに孝徳の都は難波長柄豊碕である。
 同じことが2回書かれているのも、両者が別人だったからにほかならない。

 唐の蘇定方(そていほう)が百済を滅ぼしたとき立てた『唐平百済碑』(660年)に、「其の王義慈及び太子、外王と自称するなどを捕獲した」とある。
 「其の王義慈」は義慈王のこと。
 「太子」は武王の子とも伝えられているので、翹岐(中大兄)の異母兄かもしれない。
 武王の子でありながら義慈王に従っていたのは、武王の後継者は宝皇女の子・翹岐と決まっていたので、いざというときのために義慈王によって手なずけられていた可能性がある。
 「外王と自称する」は、軽皇子が百済において、武王の存命中に作った子供、つまり631年に日本に送った豊璋の弟ということになる(豊璋については後述)。
 また中国の史料『冊府元亀(さっぷげんき)』には、孝は「小王孝」とあるらしい。

 隆は義慈王の留守を守ってずっと百済にいたようだが、問題は孝である。
 唐に捕獲されたとき、孝が自称した「外王」とは、倭王だったことを意味しているのではないか。
 650年、百済に帰国した義慈王と入れ替わりに孝が来倭し、白雉年間の孝徳として即位したのだ。
 『書紀』は、義慈王父子の2代をまとめて「孝徳朝」としているのである。
 ちなみに『新唐書』には「650年に孝徳が即位して白雉に改元した」とあり、百済・義慈王による兼任だった大化年間の孝徳が無視されている。

   大化年間の孝徳 = 義慈王

   白雉年間の孝徳 = 小王孝

 『書紀』の記述の流れとしては、孝徳は鎌足と中大兄に擁立されたロボット天皇で、左右大臣を殺したのも中大兄であり、653年には孝徳を難波京に置き去りにして飛鳥に遷都。翌年、孝徳は寂しく死んだことになっている。
 しかし、孝徳が難波京に固執した理由は何か。ロボットだったら、逆らわずに飛鳥にもついて行ったはずではないか。
 孝徳の正体が義慈王であり、息子の宝蔵王を高句麗王とし、自らは百済と倭王を兼任して、上宮法王の成しえなかった東アジア統一の夢を実現しつつあった人物であったことを考えると、そのあわれな最期はあまりにも彼らしくない。
 難波に孤立させられた孝徳は、息子の孝の方だったのである。

 義慈王が百済に帰国してまもなく、唐の太宗が亡くなり、百済への侵攻が一時的にストップした。
 孝はその直後に倭国に送り込まれ、巨勢徳陀が彼を補佐した。
 巨勢徳陀は孝徳派だけあって極端な唐嫌いで、651年、新羅からの使者が唐風の衣装を着てやってきたことに激怒し、追い返してしまう。もちろん衣装だけが問題ではなく、表面的には友好国を装いながら、裏で唐と連合して百済を攻めていた新羅の狡猾さを見抜いていたのであろう。
 彼の行為によって再び新羅との国交は断絶し、(唐・新羅)VS(高句麗・百済・日本)という対立の構図が決定的なものになる。

 大海人の間人強奪 

 以下は、孝徳崩御に関する『書紀』の記述の要約である。

653年 皇太子(中大兄)が倭(やまと)に遷都したいと言った。天皇は許さなかったが、皇太子は斉明上皇、間人皇后、大海人皇子らを率いて倭の飛鳥河辺行宮(あすかかわらのかりみや)に入った。公卿大夫・百官はみなつき従った。
天皇は恨んで位を去ろうと思い、宮を山碕に造らせた。
654年 紫冠を中臣鎌足に授け、若干の増封をした。
高向玄理らを唐に派遣。
10月 天皇の病気を皇太子、斉明上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿らが見舞う。天皇は正殿で崩御。大坂磯長陵(しながりょう。大阪府太子町)に葬った。

 また『書紀』には、難波に置き去りにされた孝が間人に送った歌が記されている。

鉗着け 我が飼う駒は引き出せず 我が飼う駒を人見つらむか

 私が飼っている馬は、厩から引き出しもせずに大切にしていたのに、
 どうして他人が親しく見知るようになり連れ去ったのだろうか。

 鉗(かなき)とは馬が逃げないように首にはめておく木のこと。
 通説では、「馬」は間人を、「人見つらむか」の「人」は中大兄を指し、老境にさしかかる58歳の孝徳が、可愛い妻を中大兄に奪われた無念さを歌ったものと解釈されている。
 しかし、このときの孝徳は息子の「孝」の方である。
 父と入れ替わりに来倭した孝は、中大兄(28歳)より年下で、間人と同年齢ぐらいの若者だった。
 おそらく彼は、父から譲り受けた間人にゾッコンだったのではないか。

 そして、孝から間人を強奪したのは中大兄ではなく、大海人だったと思われる。
 飛鳥遷都の最大の目的は、大海人が間人を略奪することにあったのだ。
 孝は父に任された難波京を離れるわけにいかなかったので、これは究極のイジメであった。
 孝徳に頭が上がらなかった大海人が、孝徳のいない間に、息子をいじめていたわけである。

 654年の孝徳崩御とは、孝の百済への撤退を意味している。
 唐の太宗の跡を継いだ高宗が、ようやく極東への政治介入を再開し、再び孝徳一族による半島・列島の専断に待ったがかかったのである。

 孝徳の「臨終」の際に中大兄、斉明上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿らが見舞ったとあるのは、孝と倭国側の最終的な会談が行なわれたということで、ここで久々に鎌足が登場し、紫冠と封戸を授けられている。
 鎌足は義慈王の家臣であると同時に、大海人ら倭国側とのパイプ役であり、彼が仲介となって、孝の撤退という倭国側の望み通りの決議がなされたことへの、大海人からの恩賞だったと思われる。

 孝が百済に撤退した654年、新羅では武烈王(金春秋)が即位した。

 豊璋はダメ王子だった?

 ところで、孝が生まれた頃から日本に来ていた兄の豊璋はいったい何をしていたのか?
 彼は662年、鬼室福信に百済王として帰国を要請されるまではずっと倭国にいたはずだが、倭国での彼のエピソードは、ハチミツを作ろうとして失敗した話だけである。

 豊璋は、義慈王が軽皇子だった頃に倭国で生まれ、とりあえず父とともに百済に渡ったものの、あまり出来がよくないので母の里に帰されたのではないか。
 おそらく母の身分もあまり高くなく、のちに鬼室福信に百済に呼び戻されることがなければ、歴史に登場せずに終わっていた人なのではないかと思う。