対談「藤ノ木古墳の謎」

としちん:
藤ノ木古墳についてはその後、何かおわかりになりましたでしょうか。
私しゃ、被葬者はますます守屋と穴穂部ではないかという気がしています。
もしかしたら穴穂部は即位していたのではないか?
一方、弟の崇峻の和風諡号は「泊瀬部天皇」という、なんのヘンテツもない諡号なんですよ。
生前に皇后がなかった点や、その死後、殯が行われなかった点など、どうも即位していたとは思えない。
『書紀』で馬子に殺された天皇役を演じているのは、倭王タリシヒコが馬子に殺された史実の暗示だと思うし。
兄の即位が弟にすり替えられ、丁重に埋葬されたのは実際に即位していた穴穂部と、蘇我氏によってほぼ同時期に殺された、おそらく義父にあたる守屋だったのではないか?
まあ、そのへんから始めてみようかなと思うわけですが。

ねこ:
崇峻の正式な皇后は推古と小林女史は述べておられます。結局小林女史も崇峻を追いきれなかったようです。

としちん:
小林惠子さんは一般的に「トンデモの代表」みたいに思われてるけど、えらい誤解ですよね。
小林センセほど「憶測」を嫌う人はいない。
ちゃんと『書紀』以外の史料や、海外の史料などに「証拠」が残されていることしか論じようとしないので、そういう意味では、崇峻に関しては「証拠不十分」ということなのだと思います。
我々は好き勝手に「憶測」で発言できますけどね(笑)。
小林説では「崇峻殺害の主導者は太子だった」ことになってしまうのですが、それはあくまでも崇峻が即位していたという『書紀』の記述を前提とした話。
崇峻が即位していなかったとすれば、やはり太子の最大の敵は守屋だったと思うのです。
そして、藤ノ木古墳の副葬品が大王クラスのものであるとすれば、これは守屋が実際に大王として擁立しようとした穴穂部のものとしか考えられない。
実際に即位していたのか、あるいはそれがかなえられずに死んだので、化けて出てこないように「死後の世界で大王になって満足するように」そうしたのかはわかりませんが。

ねこ:
ただ、藤ノ木古墳からは鬼神が見つかっているのです。

としちん:
金銅製馬具(鞍金具)の透かし彫りですね。

ねこ:
これが何を意味するか。
ある学者は、秦氏と関係のある氏族ではないかと。
馬の鞍に描かれている鬼神は秦氏が祭る神の1つなので、この馬の鞍の持ち主は秦氏ではないか、という推測がたつらしいのです。
法隆寺との関係でみんな黙ってしまうのです。
やはり藤ノ木古墳と法隆寺は何らかのつながりがあると思います。
聖徳太子と穴穂部、崇峻はもしかしたら記紀の記述は別としてとっても近い血縁ではないでしょうか。

としちん:
騎馬民族ですよね。小林説では太子は西突厥、穴穂部は東突厥です。
ただ、おいらの考えでは、穴穂部や崇峻はあくまでも聖明王と小姉君の間に生まれた「百済王子」だったと思うのですよ。
むしろ、東突厥からやって来たのは守屋で、堅塩媛を寵愛した聖明王に捨てられた形になっていた小姉君の再婚相手だったのではないかと。
そして、小姉君の本当の父親は物部尾輿だったと思うので、守屋は尾輿の「娘婿」だったわけ。
尾輿の養子ゆえに「物部守屋」だったのではないかと思うのです。
守屋は穴穂部を傀儡の大王とし、自分は「大王の父」として、蘇我氏から列島を奪おうとしたのではないでしょうか。
義理の親子の関係を結んだ守屋と穴穂部は、いわば二人三脚で倭国を専断しようとしたわけです。
しかし、最終的にこれを太子と蘇我氏の連合軍が滅ぼし、守屋と穴穂部の2人をまとめて葬ったのが藤ノ木古墳だったのではないでしょうか。
結論、急ぎすぎですかね?(笑)

ねこ:
藤ノ木古墳、石棺が大王クラスのものよりランクが下がると言う指摘もあるのです。

としちん:
もちろん崇峻にせよ穴穂部にせよ、仮に大王だったとしてもワケアリの大王ですから、「偉大なる大王のメモリアル」ってわけにはいかなかったでしょうね。

ねこ:
ある学者は被葬者として丈部(はせつかべ)氏をあげています。この氏族は紀氏につながる氏族だそうです。
藤ノ木古墳いったいはかつて紀氏が住んでいた場所なんだそうです。

としちん:
紀氏についてはほとんど知らないので、調べてみたいですね。
法隆寺の規模から考えて、その創建を発案したのは蘇我氏か太子に絞られるでしょうが、いずれが主導したとしても、実際に現場で動いたのは秦氏だったと思います。
ならば、被葬者が誰であれ、副葬品のデザインなどに秦氏のセンス(宗教意識)が反映されたと考えることもできるでしょう。
しかし、作らせたのが太子、作ったのが秦氏、被葬者が守屋だとすれば、いずれも突厥系という共通の文化圏に属していた3者ということになりますけどね、おいらの考えでは。

ねこ:
物部氏、4世紀は物部王国が在ったのではといわれるほど巨大な氏族です。
これがいとも簡単に滅びた理由はなんなのか。
蘇我氏との対立以外にもなにかありそうな、、そこが分かれば被葬者も分かるような気がします。

としちん:
蘇我氏の時代が約100年、天武系天皇家の時代も約100年。
藤原摂関家や徳川将軍家はそれぞれ300年ぐらい国政を支配していましたが、両者はともに「日本国」成立以降であり、鎖国政策の下、天皇家を「国家の象徴」として奉りあげていた点が共通しています。
しかし4世紀では、まだ列島に統一国家もなく、騎馬民族の王たちの「領土」として、支配者が目まぐるしく変わっていた時期ではなかったかと思います。
ですから、そんな中で「物部王国」があったとしても、それほど強大なものだったのか、そんなに長続きしたものなのかどうかという疑問はあります。
物部氏を「旧約の民」、秦氏を「新約の民」と考え、物部氏が創設した神社を秦氏が乗っ取っていったと考えれば非常にスッキリするのですが、実際はゾロアスター教やマニ教の影響もあったでしょうし、たしか小林センセは穴穂部の「アナホ」は「アナーヒター」だとおっしゃってたような。
ペルシアの女神・アナーヒターには「観音の原型」説もあり、たしかに百済観音の雰囲気なんかはそれっぽいと思いますね。
秦氏の宗教は、きわめてペルシア化されたキリスト教をベースに、騎馬民族文化の要素を加えたものだったと言えるのかもしれません。
ところで、現代人の感覚では、法隆寺はあくまでも仏教の寺院であり、神社とは別物なのですが、飛鳥時代当時の仏教は、宗教というよりも「最先端の大陸文化」としての色が濃く、実は法隆寺も「最先端の神社」だったのではないかと思ったりします。
熊野大社、出雲大社、さらには伊勢神宮も、最初は物部氏を鎮魂するための神社だったという説がありますが、もしそうであるならば、法隆寺もそれらに連なるモニュメントだった可能性は高いと思います。
藤原氏がこれを「太子鎮魂の寺」に変えることが可能だったのは、少なくとも藤原氏の目から見れば、物部氏と秦氏と太子はひとくくりにできる人種だったことを物語っているのかもしれません。

ねこ:
藤ノ木古墳の石棺は赤く塗られていて、この意味が分からないらしいのです。
また棺の中からは紅花がみつかり、被葬者に紅花の香料を塗ったようだ、ということもわかったのです。
あとなんで王冠を足元に置いたのか、頭の部分にかぶせるか、おくなりするのが普通であるのに。
こうして考えると、この古墳かなり異常ですよね、二人埋葬ということを考えても。

としちん:
出エジプト記に、神がエジプトに災いを下そうとしたとき、犠牲の子羊の血を入り口の柱に塗ったイスラエルの人々の家は神が「過ぎ越して」いったので救われたという話がありますよね。
日ユ同祖説では、これが朱塗りの神社の起源だという話にもなってたりします。

ねこ:
小林女史の言うとおり崇峻の墓と考えるべきか。
とすると法隆寺は崇峻鎮魂のために聖徳太子が建立したとみるべきなのか。

としちん:
藤ノ木古墳の築造が6世紀後半だとすれば、小林説だと聖徳太子が日本に来る少し前ですから、藤ノ木古墳も、まずは蘇我氏によって造られたのでしょう。
そして法隆寺も、蘇我氏が、表向きは「継体系王朝のメモリアル」として建てたものだったのかもしれない。
用明、穴穂部、崇峻、みな聖明王の子。つまり継体の孫ですからね。
そういう意味では、同じ継体の孫である推古の強い要望だった可能性もあります。
法隆寺が西アジア様式に満ちているのは、太子が連れてきた工人たちがイラン系だったからと推測することも可能ですが、エフタルの部族王だった継体にちなんでいるのかもしれませんしね。
でも、法隆寺の「真の目的」は、やはり物部一族の鎮魂にあったのではないかと思います。
蘇我氏は、穴穂部に対して。太子は、守屋に対して。
被葬者が親子ぐらい年が離れていたとするなら、やはりこの2人ではないかなあ。
藤ノ木古墳が崇峻の墓であるというのは、『書紀』に、崇峻が天皇在位中に殺されたという話が書かれたあとに作られた伝承だったと考えることも可能なわけで。

ねこ:
創建当時の法隆寺は場所も現在の所ではなかったようですから、もしかしたら創建当時とは建物の構造自体違っていたのかもしれません。

としちん:
法隆寺は、一般には「私寺」とされてます。
最初の国営の寺院すなわち「官寺」は、舒明が建てた百済大寺(のちの大安寺)だったことになってます。
しかし、正史は蘇我王朝を抹消してますから、蘇我氏が建てたということは、本当は国家権力が建てたということなんですよね。
百済大寺にしても、私見では舒明ではなく、蘇我宗家の山背大王が建てたもの。
でも正史では天智の父・舒明の時代になってるんで、こっちは臆面もなく「官寺」としているわけです。
法隆寺は「私寺」ゆえに正史には創建の記録もなければ再建の記録もないのですが、火災の記事だけはあったりするのがヘンですよね。
しかも、落雷による火事はたしかにあったのかもしれないけれども、落雷で燃えるとしたら五重の塔だけで、「一舎も残らず焼けた」とは考えられない。
ましてそのときは大雨が降ったという、すごく矛盾した話になってます。
思うに、法隆寺全焼の記事がある670年(天智9年)は、天智が大海人側の高句麗人に拉致されたと思われる年なんですね。
私見では天智は聖徳太子の孫なんで、法隆寺で太子を暗示し、その孫が命を絶たれるきっかけになった事件がこの年に発生したことを火災で象徴しているのではないかと思うのですが。

(トンデモ古代史MLより)