饒速日(1)

 
■「天神の御子」と「天孫」

ニギハヤヒについて特別に語る回をやると予告してしまったことをかなり後悔している(-_-;)。
おかげで週1の更新ペースも崩れてしまった。
とても1ページで語れる問題ではなくなってしまったので、また2部構成とさせていただく。

まず『書紀』のナガスネヒコと神武の会話から。

ナガスネヒコ「昔、天神の御子・ニギハヤヒが天の磐舟に乗って天降られた。自分の妹ミカシキヤヒメを娶ってウマシマジが生まれた。自分はニギハヤヒを君として仕えている。(神武に向かって)なぜ天神の子を名乗って人の土地を奪おうとするのか」
神武「ニギハヤヒが本当に天神の子なら、天表(あまつしるし。天神の御子である証拠の品)を見せてみろ」
ナガスネヒコは神武に、ニギハヤヒの天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき。矢筒)を見せた。
神武は、たしかにニギハヤヒが天神の子であることを了解した。
しかし神武も自分の天羽々矢と歩靫をナガスネヒコに見せると、ナガスネヒコは混乱した。

ニギハヤヒは、もとより天神が深く心配されるのは、天孫のことだけであることを知っていた。
ニギハヤヒは納得がいかないナガスネヒコを殺害し、部下達を率いて神武に帰順した。
神武は忠誠の心を尽くしたニギハヤヒをほめて寵愛した。これが物部氏の先祖であるという。

『書紀』のニギハヤヒに関する記述はこれでほぼ全てである。
同じ天神の御子なのに、なぜニギハヤヒは神武に帰順しなければならなかったのか。
上の赤字の部分だけでは、ニギハヤヒが天孫なのかどうかはわからない。そのあとの流れから、ニギハヤヒは天孫ではなかったのだなと読者が勝手に判断しているだけである。
しかし両者は「天神の御子」であることは確かめ合ったが、「天孫」であることは確かめ合っていないではないか。
神武がそのあと三種の神器でも持ち出してきて「天孫」であることを証明していればもっとスッキリした話になったはずだが、『書紀』はそうしなかった。ニギハヤヒが「天孫」だったかどうかについて、わざと言葉を濁しているのだ。
その理由は何か。
実は『先代旧事本紀』には、ニギハヤヒは天孫であることが記されているのである!

 
■ホアカリとニニギは兄弟ではなかった

『先代旧事本紀』は、ニギハヤヒをニニギの兄・ホアカリと同一人物としている。
ニニギの兄なら同じ天照大神の孫だから、ニギハヤヒも「天孫」である。
しかし『記紀』が正史であるのに対し、『先代旧事本紀』は物部氏という一豪族の歴史書にすぎない。ただでさえ分が悪いのに加え、ニニギの兄が弟の4世孫の神武に帰順することなど物理的に不可能だから、ニギハヤヒ=ホアカリはありえないという意見が支配的である。
しかし、そもそもホアカリとニニギが兄弟だったという前提の方が間違っていたとすれば、彼らを無理に兄弟にしたことによって矛盾が生じたということになる。その場合、次のどちらかが正解である。

 (A)「天照〜ニニギ」の系譜にホアカリを(ニニギの兄として)組み込んだ
 (B)「天照〜ホアカリ」の系譜にニニギを(ホアカリの弟として)組み込んだ

『先代旧事本紀』が天武系天皇家(あるいは蘇我氏)による焚書を免れて残っているのは、8世紀に『記紀』とのすり合わせが行なわれ、天皇家にとって不都合な部分が削除されたり、天皇家にとって好都合な内容に書き換えられているからだと思う。ならば正解は(B)しかありえない。
そもそも、物部氏にとってニニギは異民族だから、オリジナルの『先代旧事本紀』の神の系譜は「天照〜ホアカリ」だったはずだ。そこに天皇家が圧力をかけ、ニニギをホアカリの弟として組み込んだとしか考えられない。もちろん「天照〜ニニギ」を成立させるためである。
なんだか、どこかでこれと同じ手法があったような気がしないだろうか?

 
■「天孫」の真意

そもそも「天孫」とはどういうことか。なぜ天照大神の「子」ではなく「孫」なのか。
天孫降臨神話は、持統天皇から「孫」の文武天皇への譲位を正当化するために作られたとする説がある。
しかも持統は女帝だから、もともと男神だった天照大神がそのとき女神に変えられたというのだ。
素人にもわかりやすく、NHKの歴史番組でも紹介された説だから、これを飲み屋のネタに使ったことがある人も少なくないのではないか(笑)。
しかし『草原3』を読んだ人なら、持統から孫の文武への譲位自体がフィクションであることはご存知だろう。
新羅の文武王が列島に亡命し、持統天皇(高市皇子、天智の長男)の死後、天武の長男という資格によって即位したのが文武天皇である。(参考記事「文武」
『記紀』は読者にわざと疑問を生じさせた上で、間違った解答に導くヒントをちりばめ、解かせてやることで満足感を与え、その奥にある本当の秘密を悟られないようにする仕掛けに満ちている(『カイジ』みたいだな)。
「天武は天智の弟じゃなくて異父兄だったのか」と思わせるための高向王と漢皇子の記事などもその典型である(参考記事「孝徳」)。

タリシヒコの即位年(601年)は神武即位年(BC660年)の起算年になっていることは前回お話しした通り。タリシヒコこそは血統的な意味における初代天皇だった。
タリシヒコを始祖とする天皇系譜において、「天孫」に当たるのは天智である。

  天智 父:舒明(百済武王)
     母:斉明      母父:タリシヒコ

天武系がこの系統に連なるためには、天智の娘を娶って子供を産ませるしかない。
しかし天武自身の即位を正当化するためにはどうすればよいか。
『記紀』の編纂を命じたのは天武だ。その大きな目的のひとつが、母を斉明とし、自身を「タリシヒコの孫」すなわち「天孫」として確定させることにあったのだ(もちろん斉明がタリシヒコの娘であることは『書紀』には記されていないが)。
これは『先代旧事本紀』にニニギをホアカリ(ニギハヤヒ)の弟として組み込んだのと全く同じ手法である。
ニニギを天照大神の「子」ではなく「孫」とすることで、天武自身と重ね合わせていたのである。

 
■「天照大神」は、やはりヒミコである

いったんタリシヒコを忘れて、ニギハヤヒに話を戻そう。
神武系天皇家の祖神・天照大神は、別名を大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)という。
大日孁貴神の「日孁」は「日巫女」、つまりヒミコである。
世界の常識では、太陽神はアポロンのように男神である。しかし日本ではヒミコ以来、巫女が太陽信仰の祭主を務める伝統があったため、太陽に宿る神霊の、地上での姿がヒミコであると信じられた。そんなところから、女神であるヒミコ(天照大神)が岩戸に隠れると世界が闇になるというイメージも生まれた。天照大神は最初から女神だったのだ。

その天照大神を祖神とする天皇家だが、今まで見てきたように、そもそもニニギ系一族はヒミコとは血縁がない。
それどころか、神武(東川王)はヒミコを殺した犯人だ。
自分の祖先を殺すなど、まさにタイムパラドックスそのものである。

では、ホアカリ(ニギハヤヒ)と天照大神には接点があるのだろうか。
下はニギハヤヒのフルネームである。

  天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
  あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと

なんと、冒頭からいきなり「天照」!
天照大神はもともと男神だったという誤解は、ニギハヤヒも含め、古い神社の「天照」で始まる祭神が男神であることから生じたものだ。
しかしニギハヤヒの「天照」は、それに連なる子孫であることを表わす屋号のようなもので、修飾語にすぎない。
「漢委奴国王」の「漢」と同じだ。「漢」が付いていても漢の皇帝ではない(笑)。

 
■イタケルとニギハヤヒ

神代4 江南の巫女・ヒミコ」に、伊氏という謎の一族について書いた。
「伊氏は赫居世(スクナヒコナ)の頃に辰韓から列島に渡り、ヤマトに製鉄の技術、武器製造技術を伝えた一族」
「まず北九州に拠点を置き(伊都国)、出雲、紀伊半島へと活動の舞台を拡げていった」
イタケルは「イ+タケル」で、伊氏(伊一族)の王である」
・・・そもそもイタケルに関する史料がほとんどないから、だから何なんだという話で終わっている(笑)。

物部氏の氏神を石上神宮(いそのかみじんぐう、奈良県天理市)という。
イタケルを漢字で書くと「五十猛神」。「五十」は「いそ」とも読めるので「いそたけるのかみ」となる。
「いそたけるのかみ」から「たける」を除けば「いそのかみ」だ。
もしイタケル=ニギハヤヒだとしたら、これは大変なことである。
イタケルは伊都国の王だから、ヒミコにつながる。
ニギハヤヒのフルネームの冒頭の「天照」は、やはりヒミコのことではないのか。

伊都国のヒミコは江南の巫術者「許氏」だったが、奄美大島の初代ヒミコは「伊氏」だったと考えられる。
ちなみに、奄美大島には「伊」という一字姓が残っているらしい。
『記紀』の神代を天皇家による創作だと考えている人も少なくないだろうが、物部氏の祖先である伊氏のリアルな歴史を反映したものだったのではないか。リアルであるがゆえに、天皇家の拠って立つ強固な基盤となりうるのである。

 
■ニギハヤヒという名前

伊雑宮(志摩)や伊勢神宮(伊勢)は、その名前からして伊氏による創建だろう。
奄美大島の女王国の末裔らしく、どちらも祭神は天照大神(太陽神、ヒミコ)である。
イタケルも死後に神格化されて「天照」が冠され、さらにいろいろ足されていくうちに「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という寿限無みたいに長い祭神名になった。長すぎるので最後の「饒速日(ニギハヤヒ)」だけが切り取られているわけだ。また、途中の「彦天火明」を切り取ればニニギの兄「ホアカリ」となる。
フルネームの中に「イタケル」がどこにもないじゃないかと言われるかもしれないが、「イタケル」はそもそも本名ではなく、「伊氏の王」という代名詞的な呼称にすぎない。

饒速日の「饒(ニギ)」はにぎやかであるという尊称。今ではにぎやかと言うと声がでかくてよくしゃべる人みたいな意味になってしまうので語弊はあるが。
では「速日」とは何か。
ニギハヤヒは天磐舟という巨石に乗って飛んで来たという。
「速日」は熊野速玉大社の「速玉」と同じ。炎に包まれ日のように輝く速い玉、隕石のことだ。
古代、近畿地方に巨大隕石が落ち、そこになんらかの神意を読み取ろうとした古代人が、神武軍に敗れた伊一族、とりわけイタケルの祟りだと考えたのではないか。後世、話の順序が無視されて、イタケルが飛んで来たときの乗り物になってしまったのだと思う。
エンゼルスの大谷サンのようなスーパースターへの賛辞として「人間ではない」という形容があるが、イタケルも人間離れしたスーパースターで、神もしくは宇宙人と思われたようである。

 
■石上神宮の祭神

『記紀』で「神宮」の名で呼ばれているのは伊勢神宮と石上神宮だけである。
石上神宮はイタケルの鎮魂社であろう。
ちなみに出雲大社の祭神はオオクニヌシ、三輪山の大神神社の祭神はオオモノヌシ
一般に両者は同一とされているが、オオモノヌシはナガスネヒコの尊称だと思う。
大神神社は、オオクニヌシ系最後の大王だったナガスネヒコの鎮魂社なのだ。

  出雲大社:オオクニヌシの鎮魂社
  大神神社:オオモノヌシ(ナガスネヒコ)の鎮魂社
  石上神宮:ニギハヤヒ(イタケル)の鎮魂社

しかし石上神宮は主祭神をニギハヤヒともホアカリともせず、いずれも剣や神宝に宿る神霊としている。

  布都(フツ)御魂大神 :布都御魂剣(ふつのみたま)に宿る神霊
  布留(フル)御魂大神 :十種神宝に宿る神霊
  布都斯(フツシ)魂大神:布都斯魂剣(ふつしみたま)に宿る神霊

『記紀』には、神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面で登場する天之尾羽張剣を始め、いくつかの十握剣(とつかのつるぎ。こぶし10個分の長さの剣という意味)が登場する。
石上神宮の主祭神となっている2本の剣は、三種の神器のひとつとされる熱田神宮の天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ。=草薙剣)と合わせて神代三剣と呼ばれている。

布都(フツ)御魂剣は、タケミカヅチがオオクニヌシの前で海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇したときの剣である。そして神武東征のとき、タケミカヅチはこれを熊野の高倉下(たかくらじ)という者の倉の中に置き、高倉下がこれを神武に献上している。
鹿島神宮にも同じ布都御魂剣と称する巨大な刀があり、国宝に指定されている。布都御魂が石上神宮に安置されてしまったので、二代目として作られたものだという。

布留(フル)御魂大神は、物部氏の十種神宝(とくさのかんだから)に宿る神霊とされる。
十種神宝は江南系巫術者の伊氏に伝わる大陸起源のものだったと思われるが、現存しないとされている。
布留御魂大神こそ、神格化されたイタケルであろう。確証はないが「フル」というのがイタケルの本名かもしれない。
石上神宮の主祭神にニギハヤヒの名前がないのは、すでに本名で祀られているからだとすれば納得できる。

布都斯(フツシ)魂剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに使った天羽々斬剣(あめのはばきり)。
そのときヤマタノオロチの尾の中にあった天叢雲剣(草薙剣)に当たって刃が欠けたという。

さて次回は、本当に「イタケル=ニギハヤヒ」が成り立つかどうか、奄美大島のヒミコが伊氏だったという設定でイタケルの生涯をふり返ってみたい。今まで論じてきたことの大筋は変わらないにせよ、部分的には補足・修正しなければならないだろう。しかし、ちょうどここまでの復習にもなるかもしれない。